• 検索結果がありません。

日本人教師の派遣と生活

第一章 日中国交正常化以前の中国における日本語教育と日本人教師

第三節 1950 年代・ 60 年代の日本人教師

2.1 日本人教師の派遣と生活

前述したように、60年代初期、中日両国は「貿易三原則」に基づいて、11商社 が「友好商社」として指定された。その後、「LT貿易」へと発展していった。以上 のような中日交流の展開の下で、日本語人材の育成が急務であった。1964年 9 月 21日、遼寧省旅大市 116に大連日語専科学校が開校した。エリートとしての日本語 人材を育成する北京大学と違い、実務者を大量に養成することを目指していた。

このことは 1960 年代初期の中国における対日政策の積極性を端的に表している

117

大連日語専科学校の学生の定員数は 1200名で、教師は学生 6名に対して1名の 割合で計画された。また、日本人教師の定員数は 27 名であった 118。日本語教師 の採用問題を解消するため、中国共産党は日本共産党と日本語教師を派遣する協 定を結んだ。1964年10月から1965年5月まで、延べ 24名の日本共産党員が中国 に派遣され、日本語教師として大連日語専科学校で奉職した。また、彼らに随行 し中国へ来た夫人8人が後に正式の日本語教師として追加採用された。合計 32名 が日本人教師になった。

日本人教師の受入れ窓口は「対外文化連絡委員会」であった。「対外文化連絡委 員会」は日本共産党から推薦を受けて、日中友好協会宛てに日本人教師の要請状 を送る。一方、日本人教師たちは中国公安第一局より入国の査証を取得する。渡 航目的はさまざまであり、山本経天の調査により、来華資格として「教員」と明 記した教師は2名しかいなかった。他の日本人教師は「中国歴史」「中国現代文学」

など「研究」活動に従事することが目的と記された。国交がない時代であったた め、彼らが中国へ行くことはすべて秘密であった 119

ぼくの中国行きのこと、日中文化交流協会を通じての打診で、日本語教 育援助のため中国の学校に赴任しないか、というのだ。ぼくは妻と相談し てその話に乗ることにしていたのだが、なにしろ国交回復前、どんな支障 が起こるか分からぬ事情もあり、旅券が取れるまでは内密ということだっ たので、父には話せなかった。(中略)中国行きが決まりかけた段階だっ どである。

116 中国、大連の旧称。1950年旅順と旧大連が合併してから1981年までの呼称。

117 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』、3頁。

118 同上、5頁。

119 同上、4頁。

49

たがまだ内密を要するとあって、辞退する理由を公開できず、やむを得な く(新しい仕事を)引き受けた 120

日本人教師は家族を連れて 121、香港経由海路で上海へ到着し、それから北京に 赴任した。日本人教師は中国の日本語教育援助のために大学に赴任するが、具体 的にどこの大学へ赴任するのか、北京に到着するまで分からない。日本人教師は 北京に到着して、「格式ばった門構えに衛兵の立つ広大豪奢な団地『友誼賓館』」122 に泊っている。中国の高等教育部により大学に振り分けられることを待っていた

123。結局、「新設の大連日語専科学校の教員とのこと。一緒に大連に赴任する関根 庄一、阿部康(ともに福島県教員出身)と三人で 124、日本共産党中央委員会代表 の砂間一良さんに会った。簡略に注意事項を伺い、当面やや年長のぼくが日本人 教師団の責任者ということにされた。出発前日、大連から王さんという中年の教 師が迎えに来た」125

第一陣の三人の教師の後、1964年11月遅くから年末まで鏑木富衛、鈴木博、水 野清の三人が大連に来て、続いて岩手から独身の千田由美さん、和歌山から吉田 仁・八重子一家が赴任した。1964 年の大晦日に全員そろって、中国で年越しをし た。1965年から日本人教師は断続して到着した。一月に京都からの玉村文郎一家、

二月に東京から田中四郎・泰子一家、三月に高知から佐々木繁保一家、四月に独 身の五島智英さんと東京から米田清一夫婦、大分から田口次郎夫婦、長野から池 上芳彦・秀子一家、山越敏生一家、高知から山川久三一家、五月に東京から徳武 敏夫一家、五月下旬に最後の原康彦・由紀子一家である 126。日本人教師の学歴は 高く、大学院修了が 2 名で、大学卒が 19 名であった。24 名の日本人教師のうち 20名が教職を経験していた。最も長いのは 24 年であった 127。ほとんどは日本で の教職をなげうって、家族を連れて、中国へ来た。中国滞在中に子供が生まれた のが8世帯で、みんな「かなり長期の予定で大連に来たらしかった。『中国に骨を 埋めるつもりで……』」という声もきかれた 128

120 土井大助『末期戦中派の風来記』、本の泉社、2008年、162~163頁。

121 中国勤務の約束は最低まる2年。2か月余り後に臨月を控えた妻と小学校5年の長 男、明年進学の二男をともなっての渡航だ。

122 前掲、『末期戦中派の風来記』166頁。「当時、友誼賓館にはさまざまな仕事にたず さわる日本人もかなりいた。戦前からの人たちも多い」という。

123 同上、167頁「任地の問題で相手方も仲立ちの人も話がまちまちで、ぼくは焦慮に かられていたが、間もなく仕事先がきまった」。

124 同上、167頁「同行する家族を合わせて合計12名であった」。

125 同上、167頁。

126 同上、173~175頁。

127 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』、6頁。

128 前掲『末期戦中派の風来記』、173頁。

50

大連日語専科学校は、最初は市内から遠い他校校舎を借りていた。日本人教師 は宿舎で生活している。大連の冬は零下十度以下の日がある。硝子窓は二重だか ら、室内はスチーム暖房で暖かい。しかし、古いままの暖房はスチーム漏れなど で故障が頻発した。1965年5月、ようやく独自のキャンパスを持つことになった。

5月6日、学生、教師、幹部みんな新校舎に移転した。日本人教師の宿舎は南山招 待所といわれたところである。南山招待所の生活の様子を土井大助は次のように 回想している。

(南山招待所)は学校から東へ歩いて十数分で、「戦前満鉄の幹部社員 の社宅だったとかで一戸建ての住宅がなだらかな傾斜地に、通楼を挟んで 三列、一列ごとに六棟などが間をおいて並び、別棟に大きな専用食堂がつ く。当初は門脇に警備兵が立っていたが、間もなくいなくなった。ホテル

(賓館)住まいから戸建ての住宅に移り、日籍教師・家族はみんな安堵し た風だった。裏庭にはテニスコートがあり、余暇には家族ぐるみでラケッ トを振った。最高時には19所帯(内独身四人)、大連に生まれた新生児5 人を含め人口 58人のいわば集合団体が形成された。

日本人教師の子供は日本語の通じる教師のいる各学校で学んでいる。しかし、

中国人の子供から石を投げられ、唾を吐きかけられるといった嫌がらせを受けた という問題も起きていた 129。学校側は安全対策として自動車で通学させると提案 した。しかし、日本人教師は謝絶した。国語と英語などの教育は賓館内で補習し た。母親教師の乳幼児保育のため学校は、阿姨(保母)さんを手配してくれた 130。 日本人教師の給料について、山本経天は高等教育部から送られた「復幾位日籍 教師的工資問題」により、6名の教師は一番高い9級給料500元を支給された。他 の教師は10級(460元)から13級(340元)の給料を支給された。いずれも日本 での給料より高い。当時の中国人の月給というと、大卒は58 元、大学講師は 106 元、準教授は 164 元、教授は 220 元であった。同じ大連日語専科で働いた埜口阿 文は日本人専門家ではなく中国人教師と同じように扱われ、月給は80元しかなか った 131。それに比べれば、日本人教師は優遇された。給料面で優遇されただけで なく、1965 年夏、国務院外専科局は日本人教師への政治思想教育の一環として国 内旅行を企画した。日籍教師と家族は全部28名で、20日間であった。北京、西安、

延安、洛陽を観光した。日本人教師は「中国大陸の拡大さの一端とそれが抱える 多彩な文化の一面を見た」。また、国慶節の式典に日本人教師たちを招待し、周総 理主催の宴会や観覧式、花火大会等に参加させた。

129 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』、14頁。

130 前掲『末期戦中派の風来記』、173~174頁。

131 前掲『長春大学教師日記―昔の同志と新しい教え子たち』、140頁。

51