第二章 日中国交正常化以降の中国における日本語教育と日本人教師
第二節 日本における日本語教師の養成と海外派遣
3.1 国際交流基金の対中派遣
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国際交流基金の対中日本語教師の派遣事業は、本格的には1980年から展開され ている 228。2000年までの段階では、国際交流基金から中国に派遣された日本語教 育専門家は北京日本学研究センターと東北師範大学赴日予備校の 2 機関だけであ った。
3.1.1大平学校への派遣
1979 年(昭和 55 年)12 月、中国を訪問した大平正芳首相は、華国鋒主席との 合意事項の一つとして、日中両国の相互理解促進のために中国の日本語教育に対 して協力することを約束した。双方関係者による協議の結果、その一環として、
翌1980年9月、北京語言学院(現・北京語言大学)内に開設されたのが「日本語 研修センター」(中国名は日語教師培訓班、通称「大平学校」)である 229。
当時、国際交流基金の初代日本語課長であった椎名和男は、「大平学校」の設立 について次のように述べている。
1979年夏既に開校していた、長春の予備学校を大平事務官と訪ねた後、
北京で中国教育部と会議をしたところ、驚天動地の提案・要望が出された。
それは、中国で日本語教育を行っている大学は 37校あり、研修を要する 教員は六百名いるから一校あたり三人の日本語教育専門家を派遣してく れとの要望であった。誰が知恵をつけたのか、当時国際交流基金は東南ア ジアの七か国八大学に「日本研究講座」(1 教授と 2 日本語講師の三人)
を寄贈していたのである。これは、まさに中国版寄贈研究講座構想である。
当時の国際交流基金日本研究部の予算では対応できないと悩んでいたと ころ、天の助けと言うべき大平総理訪中記念事業の話が当時の青木盛久外 務省文化事業部文化第二課長からもたらされた。青木課長が省内をまとめ、
大蔵省から五年間十億円の予算を獲得されたことと、当時大阪女子大教授 佐治圭三先生の大学を辞職してまで中国の日本語教育に貢献しようとい う決断により 230、五年間延べ六百名の研修という、世界の政策史上例を 見ない、在中国日本語研修センター(日語教師培訓班)事業が成立したの である。正直なところ、この事業に当たっての日本語教育学会の諸先生方 九十有余人の熱烈なご協力は空前絶後ともいうべきものであった 231。
228 日本語教育巡回指導派遣として、1978年夏北京へ3名の日本語専門家を派遣した が、翌年の夏には上海・長春へ6名の日本語専門家を派遣した。
229 前掲『国際交流基金30年のあゆみ』、128頁。
230 佐治圭三は「教授の職にありながら長い期間外に出ていくことはとてもできませ んので、それは辞任をいたしました。」と言った。
231 椎名和男「忘れ得ぬ先達の想い出と若き人々への期待」『日本語教育』135号、2007 年10月、35~40頁。35頁。
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大平学校は、中国国内の大学の現職日本語教師120名に対して1年間(1 か月の 訪日研修を含む)の日本語教育及び日本事情に関する集中研修を行い、これを 5 ヵ年継続することにより計 600 名の教員 232の再教育を行うという計画であった。
「大平学校」に赴任した日本人講師は長期滞在と短期滞在とを合わせて 5 年間で 合計91名にのぼった。
講師団の構成について、まず、長期派遣の講師として、団長 1名、副団長1名、
通訳兼講師1名、事務兼講師6~7名となっている。団長以外は、中国語ができる 20代から 30 代の若手講師が多く、「大平学校」の教務運営、中国側との交渉及び 講義を担当した。その他、長期派遣とは別に短期派遣の講師として、年間 10~20 名がいて、赴任期間内の講義を担当していた。
事業の最初には「派遣人員を確保すること」と「予算的にも困難だ」233という 二つの問題があった。最初の講師派遣について、佐治圭三は国立国語研究所員田 中望のインタビューに対して、次のように答えている。
予算上は長期滞在者が12名、短期が4名というふうに決まっています。
長期滞在者と言うのは半年以上滞在して講義を持つ人たちですね。ところ が、実際には長期滞在の人の場合は9名が決まっています。それでは足り ないので、短期は 4名でなく、もっとたくさんの方が来てくださることに なっています。現在、金田一春彦先生を委員長として、いろいろ日本語関 係の先生方からなる実施委員会というのを作ってもらっているわけです が、その実施委員の先生方をはじめたくさんの方々が、短期という形で指 導に来てくださることになっています。長期のものは、主として日本語教 育という観点から研修生の基礎的な日本語の力をつけるといいますかね、
日常接触して日本語の深い内容をお伝えすると言うか学んでいただくた めの仕事をする。短期で来てくださる方は、専門的な内容のものを教えて いただきたいというように思っているわけです 234。
1980 年の中国は、中国の建設のためにやってきた在華外国人専門家を尊敬し、
大切にしていた。中国社会において、日本人講師は手厚く非常に優遇されていた。
彼らは日本政府の派遣団として、中国では「専家(専門家)」と呼ばれ、専門家と して特別の身分の扱いであった 235。
「大平学校」の最大の特徴は日中政府の協力関係の下で、日本人教師が現地に
232 実際研修生は(第1期~第5期)は594名になった。
233 佐治圭三・田中望「中国における日本語教育」『言語生活』345 号、1980年9月、
70~83頁、74頁。
234 同上、74頁。
235 孫暁英「戦後日中文化交流に関する一考察―大平学校の日本人講師に焦点を当て て―」『早稲田教育評論』第29 巻第1号、2015年、97~113頁、105頁。
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おいて、中国人教師教育に携わったことである。日本人教師はカリキュラムの設 定から講義まで中国政府からすべて委任された。それに対して中国側スタッフは 教務補助役となり、日本人講師のサポートを行なった。こうしたやり方は当時の 文革直後の時期だけでなく、現在においても極めて異例である。これは日本側に とっても貴重な機会となり、日本人講師は外国に滞在しながら、現地の人に母国 語を教えるという国内の教育現場では得られない体験をした 236。
現在大阪府立大学の教授である「大平学校」の卒業生の張麟声は佐治圭三教授 の古稀記念論文集の中で、恩師のことについて次のように語っている。
古稀記念と言っても、私の夢においでになるのは相変わらず二十年前の あの紺の人民服をまとった佐治先生です。平和条約が結ばれて間もなく、
多くの中国人の頭ではまだ日本人イコール日本軍の時代だったときに、佐 治先生が私たちの間においでになりました。それから6 年間の間、私のぶ しつけな質問であろうと、出し抜けなお邪魔であろうと、先生のお顔にあ の誠実さと寛容さに満ちた笑みが消えたことは一度もありませんでした。
私たち600人の研修生は先生の600本の人間学のご論文のはずです 237。 文化大革命の影響は、外国語教育に大きな被害を与えた。厳安生の調査による と、70年代から80年代前半にかけて中国における日本語教育は急速に発展してい った。他方で、日本語教員は基本的に大卒者あるいは一般社会人によってまかな われた 238。日本語教師が量的にも質的にも不足していた。そのような状況を「大 平学校」は一気に覆した。中国の日本語教員の知識レベルはこの時期に大きく向 上した。筆者の大学時代の恩師も「大平学校」の卒業生である。彼はこれまでよ く「大平学校」のことを学生に語ってくれた。
当時、日本側が金田一春彦というような一流の言語学者を大平学校へ派 遣してくれたことは、ほんとうに信じがたいほどです。みんなその貴重な チャンスを利用し、文化大革命で浪費された時間を償うように、必死に勉 強しました。日本人教師から日本語・日本語授業法・仕事への真面目さな どいろいろ学びました。私の研究道は大平学校からのものであるといえま す。
1985年、「大平学校」を発展継承させ、場所を北京外国語学院(現・北京外国語
236 同上、98頁。
237 佐治圭三教授古稀記念論文集編集委員会編『日本と中国ことばの梯―佐治圭三教 授古稀記念論文集』くろしお出版、2000年、374頁。
238 厳安生「中国における日本語教育の現状」『世界の日本語教育<日本語教育事情報 告編>』4号、1996年11月、65~72頁、66頁。
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大学)に移して「北京日本学研究センター」がスタートした。「大学院修士課程」
も開設された。この修士課程の教育方針・専攻内容・カリキュラム等については 日本からの日本語専門家からなる調査団と中国側とで協議を行った。学生は主に 日本側派遣教授の指導の下で学んでいた。1990 年から「現代日本研究コース」を 北京大学に設置した。現代日本に関する適切な知識と専門的知見を備えた中国人 専門家の養成を目的とする。2003 年まで「北京日本学研究センター」へ日本側か ら派遣された教授は 588 名、そのうち、北京外国語大学実施分は 444 名、北京大 学実施分は144名になった 239。
3.1.2 東北師範大学赴日予備校
1978年の改革開放以降、中国は日本から先進的な科学技術を学ぼうとするため、
中国政府は、日本に研究者、専門家(大学院レベル)および学部留学生を日本へ 大量に派遣するようになった。したがって、中国政府は日本政府にこれについて 協力を要請し、日本政府もこれを受け入れることを決定し、その受入のための準 備を文部省および国際交流基金に行わせた。「予備学校設置の所以は、もちろん赴 日前に十全なる日本語能力を養成することでもあるが、基本的には、学校制度の 違いにより、留学予定者が日本の大学への入学に必要な12年の中等教育の修了と いう要件を満たしていないため、特に法令を定め、日本の大学に入るための準備 教育を 1 年間行う目的で予備学校が設立されたのである」240。その予備教育の一 年間で、中国において行い、それを終えた後、日本の大学の学部に進学させるこ とになった。予備教育の場所は吉林省長春市にある吉林師範大学(1980年 8月 1 日に東北師範大学に改称された)に設置された。予備教育は 1979年3月から1年間 のプログラムで開始されることになり、国際交流基金は日本語教師を(3月~翌2 月)、文部省は基礎科目の教師を(8 月~翌 2 月)派遣することになった。当時日 本語教師として派遣された東海大学の柴田俊造は予備校の授業について、次のよ うに述べている。
授業は夏休み冬休みに入っていないというハード・スケジュールであっ た。授業は朝 7時半から11時まで、午後1時半から 3時半まで行われた。
後期からは更に1 時間延長されて、4時半終了となった。3 月から8月ま での前期はもっぱら日本語学習に専念する編成となっている。教師と学生 との間の心の国境はたちまちはずされ、真剣ではあるが、楽しい毎日が続 いていった。(中略)日本語教師の任務は、9 月から始まる基礎科目の授 業が日本語で行われるための基礎作りでもあったわけである。日本語の授
239 前掲『国際交流基金30年のあゆみ』、128~131頁。
240 松岡弘「中国赴日留学生予備学校における日本語教育」『日本語学校論集』9号、
1982年、97~111頁、98頁。