• 検索結果がありません。

日本人教師の授業

第一章 日中国交正常化以前の中国における日本語教育と日本人教師

第三節 1950 年代・ 60 年代の日本人教師

1.2 日本人教師の授業

藤田のインタビューでは、当時の授業のやり方が次のように述べられてい る。

日本語が分からない学生に対して「最初はちょっとずつ教科書に書いて ある分かりやすいところから入って、中国語で言わせて工夫をしながら、

だんだん動詞の変化とかは強制的に教えて、五段活用とかも強制的に教え ます。手をたたきながらリズムをとって教え、朝は教壇に立ったら必ず 5 分間口頭テストをした 92

学生は中国各地から来て、出身地によって発音の問題点が異なる。これに対し て、藤田は「出身地によって発音ができない音があったので地域別に一列にして、

カードを作ってこの子はここがダメとかをカードにかいて指摘しました」93。とい う方法で、中国人の学生の発音チェックをしている。

前述したように、当時の学生は、統一の入学試験に合格してから入学するわけ ではないし、学生の年齢や学力レベルの差は大きかった。そのため、日本人教師 は困難を克服し、学生の状況を踏まえて教授法を工夫しなければならなかった。

第一期生は幹部だから基礎ができている。でも2期生は全部○○中学か ら来たから中国語もちゃんとわからない。子供の時に革命の仕事をしてい た人たちが来ていた。その人たちが第二期くらい続いた。その人たちに教

89 国籍からみれば日本人もいるし、中国人もいる。日本語をネイティブとして話せる 者である。

90 平林美鶴『北京の嵐に生きている』、光栄社、1991年、123頁。

91 奈良女子高等師範学校卒。日本人の母を持つ。

92 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』藤田のインタビュー、7頁。

93 同上、8頁。

41

えることに戸惑いました。自分が日本語を知っているからって教えられる ものじゃない。まず教えるにあたって、①彼らは大人である。②彼らは漢 字がわかる。③文法は教えなければいけないけど、中国語の文法もわから ないので変則的に教える。④日本語の環境が全くない。日本のものを見た ことなどの環境が全くない。この4 つのいいところ悪いところを踏まえて どのように日本語を教えるかというところから私の日本語を教えること が始まりました。書いたり聞いたり話したりいろいろあるけど、聞くのと 話すのは(耳と目)環境があればできる。なくてもつくってあげればいい から、問題は書くの。大人だからそういうところから入って行っても受け 入れない。頭があるから考える。そこで私が考えたのは、1年生の時は考 えさせるために、教材に文法の法則を探させるように仕組む。94

日本人教師の教育態度は当時の学生に深い印象を与えた。岡崎の真面目な教育 態度について、北京大学の日本語専攻の卒業生の江東は 2000 年 2 月 19 日「人民 日報」で岡崎先生を記念する文章を発表した。次はこの文章の一部抜粋である 95

中国の、北京大学日本語専攻の学生の心には、「藤野先生」にとてもよ く似た先生がいる。彼は、岡崎兼吉である。

私は今でもよく覚えている。その年の冬(1953年)、私たち十数名の学 生が冷え切った教室で座っているところに、岡崎先生が青い綿入れを着て 教材の束を小脇に抱えて入ってきた。一見、先生は中国の教師と何も変わ らない。先生は教材を演台にきちんと揃え、深々と礼をして、「おはよう ございます」と言った。そしてすぐに教材をひもとき、はつらつとして、

授業を始めた。教室の寒さなどまったく意に介さないようだった。

(中略)岡崎先生の教学態度は非常に真面目であった。厳しい父親のよう に学生を指導した。授業では学生に対して誤りを一つ一つ率直に指摘した。

終業後、先生は更に、しばしば徹夜をして学生の宿題を添削した。返って きたばかりの宿題ノートを開くと、そこにはびっしりと小さな赤い文字が 並んでいた。私の顔が真っ赤になった。だが、周囲の学生の宿題ノートを 見回してみると、やはり赤ペンで直されて「真っ赤」だった。それで、わ たしの気持ちが静まってきたので、赤ペンの字をたどってじっくり読んだ。

その赤い字は鋭利な刃物のようで、一つ一つ私の語彙・文法の誤りを切り 出し、句読点一つ疎かにはしていなかった。再び顔をあげて岡崎先生の顔 を見ると、先生の目が疲れて充血しているのがわかった。私たちの十数冊 の宿題のために岡崎先生がまた不眠の一夜をすごしたのだということは、

94 同上、11頁。

95 前掲『永遠の隣人―人民日報に見る日本人』、561~562頁。

42

想像に難くなかった。その瞬間、私は感激で胸がいっぱいになった。

周斌は鈴木先生と児玉先生のことを次のように回想している。「児玉先生は会話 に優れていた。(中略)彼女は中国の普通の初学者が日本語を話す際にぶつかる心 理的な障害や実際上の困難を熟知し、実際にそぐわない高い要求や厳しい要求を 一度もしたことがなく、皆が自信を付けるまで辛抱強く助けてくれた。学生がほ んの少しでも進歩を見せたら、すぐさまその点を評価し、褒めてくれた。(中略)

鈴木先生は北京大学に来て以降、自身で編纂した教材で「日本概況」を講じたが、

これは学生達から最も歓迎された課目だ」96

1956年から1958年まで北京大学東方言語文学学部は外交部から依頼され、外交 部で働いている若い日本語通訳者 3 人を「高級通訳」に養成した。周恩来総理の 通訳者としての周斌氏、中国の元外交部部長を担当した唐家璇はそのうちの 2 人 である。当時、その任務は 3 人の日本人教師が引き受けた。周斌は当時の授業の 様子を次のように述べた。

三人の先生たちができることは、私たちのために日本留学にできるだけ 近い言語環境を提供することだった。そのために先生たちが提案したのは、

我々の教室を彼らの住まいに設けることだった。鈴木、児玉先生の家に決 まった。彼らの家には高性能ラジオがあり、普通の気象条件下で、日本の 海外放送を比較的はっきりと聴取することができたのである。授業時間は 原則的に毎週四回、毎回夜 6時から 10時までと決まった。主要な課目と なった夜間の日本の海外放送を聞くためだった。

(中略)このような特別な教室は私に多くの素晴らしい印象を残した。中 でも忘れ難いのは、夜6 時、六人がラジオの周囲に集まり、精神を高度に 集中して NHK の十五分間の有力番組「ニュース解説」 を聴取したこと だ。

私たち六人は真剣に聞くだけでなく、可能な限り詳しく内容を記録した。

(中略)十五分聞き終わると三人の先生がお互いのメモを補い合い、校正、

整理してほとんど完璧な聴き取り記録を作った。私たちは別の部屋に行き、

自分たちの聴き取りメモを整理した。(中略)五、六分後、三人の中の一 人が教室に呼び出され、先生たちに自分が聴き取って整理した内容を復唱 した。先に終わった学生は教室に止まって同級生の復唱を傍聴した。

三人の復唱が終わると、発音が最も標準的な児玉先生が解説者の話しぶ りを真似して三人の先生が共同で思い出して整理した内容を朗読し、私た ちに自分が発表した内容と先生方の内容を比較させ、自分のどこが不足し、

96 前掲『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交最後の証言』、227頁。

43

その原因は何なのかを考えさせた。自分の日本語の聴き取り、話す能力が 劣るか、または知識が狭いか、あるいはその両方の理由で解説の内容が分 からなかった。

その後、鈴木先生がその日の「ニュース解説」が触れた内容に関して、

詳細に分析、論評することで私たちが日本国内の情勢や国際的なホットな 問題を観察し、分析する能力を援助してくれた。最後にはみんなで鈴木先 生の読み解いた内容についてさらに深く討論した。先生たちは我々に大胆 に違った観点を発表するよう求め、激烈な議論をし、会話能力と発表能力 の水準を高めてくれた。

放送を聴く以外に、私たちの文章を書く能力を高めるために、岡崎先生 は半月後に作文を課し、先生が手直しをした。

(中略)このように「三対三」の授業の内容、形式はかくのごとく多彩 であり、独特の風格があり、私たちの毎回の授業時間は四時間と決まって いたのに、超過してしまうことがしばしばだった。十時を過ぎてしまうと、

児玉先生は事前に準備していたビスケットやケーキ、果物、アメなどを一 人一人ずつ出してくれて、ねぎらってくれた 97

現在の日本人教師はほとんど授業のみを担当するだけである。当時の日本人教 師は授業の担当、若手教師への指導、教材づくりという三つの任務が与えられた。

中日間にまだ国交がなかった年代には、日本語教材は極端に欠乏していた。し たがって、日本人教師の個人関係で、日本にいる親友と連絡し、小学校と中学校 の本を送ってくれたりした。「岡崎先生は夜に日を継いで日本語教材を編集し、し まいには中国地図や日本地図まで自分で描いた。先生は何十冊もの、丁寧に書か れた教材と教学メモを残している」98。 若手教師への指導方法は、授業を見学し 問題を発見したら、事後に教師に伝えることから始まった。

当時の日本人教師は、いろいろな経緯で中国にて日本語教師になった。日本語 教師としての専門性があるどころではなく、日本語自体にも問題があった。蘇徳 昌は「日本人教師は全体からして、一つは必ずしも共通語とは限らない。方言の 訛りは学習者にとっては、はなはだ迷惑である」と指摘している 99。同じ問題点 は香坂順一も次のように指摘している。

北京に来てみて、中国の人(日本から帰国した中国人を含め)、敗戦後 もひきつづき中国に滞在していた日本人、あるいは 50年代から60年代初

97 同上、229~231頁。

98 それらの図書や雑誌は岡崎氏の長男により大学に寄付された。大学や学部の図書館、

資料室に保管された。

99 前掲「中国における日本語教育」、35頁。