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日中関係に翻弄された日本人教師の生活

第一章 日中国交正常化以前の中国における日本語教育と日本人教師

第三節 1950 年代・ 60 年代の日本人教師

1.3 日中関係に翻弄された日本人教師の生活

建国したばかりの中国は、ひどい破壊をこうむった後に次第に再建されようと していた。当時の日本人教師も厳しい生活条件に直面していたが、中国側はでき るだけ日本人教師に厚い待遇を与えようとした。

私の時代の給料は月40 元より多かった。生活費は足りるけど、「糧票」

とか「布票」とかがあったからね。あちこち穴だらけだった。(中略)病 気になったら、公費医療、外国人も一緒です。住宅も「公房」、水道代も 電気代も、自己負担の分は少ないです。部屋は 1~2 部屋暗いです。トイ レとかも共同のやつですし、キャンパスに近いところもありました。宿舎 は古い大きな四合院みたいでした。貿易大学は学校らしくない学校でした

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文化大革命前の日本人教師の生活は貧しいながら、安定していたといえる。1958 年「反右闘争」が始まってから、情勢が次第に不安定になってきた。1966 年の文 化大革命から、大学の授業はすべて停止され、学生たちは政治活動に忙しく、一 般の教師たちはすることがなくなった。最初は中国人日本語教師が「スパイ容疑」

などの罪でひどい目に合わされた。日本人教師も非常に不安な状態に陥らされた。

周斌は当時の日本人教師の状態について次のように述べている。

文革が始まってから、何人もの教授がひどい目に遭われた。こうした事 態を目撃した三人の先生方はとても戸惑い、苦悩し、恐怖の中に置かれた。

100 前掲『北京大学二年』、166頁。

101 同上、169頁。

102 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』藤田のインタビュー、5~7頁。

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自分たちの生活が長く仕事をしてきた北京大学の空模様が、どうしてあっ という間に変わってしまったのか、どう考えても理解することができなか った。今回の燃え上がった革命の猛火が外国人の頭上にも及ぶかどうかを 心配し、なぜ中央の最高指導者までが「造反派」を支持しているかなど、

たくさんの疑問を口にした 103

その時、岡崎先生は、1967年から1968年にかけて自願により毛沢東選集(1

~4巻)日本語版の改訂作業に参加した。文革の渦中にあった日本人としての 一種の自衛の策であり、閉塞状態が続く北京大学で何もせず過ごすより翻訳 という理性的作業を通じて現実の中国を日本に知らせたかったのかもしれな い 104

大連の埜口阿文は、文革の嵐に巻き込まれている。彼女は当時の様子を次のよ うに述べている。

文革が始まると、学院内の学生たちの間にたちまち紅衛兵組織ができた。

北京でおきていることをそっくり真似して、学院の幹部を攻撃した。この 躁状態は教職員のあいだにも伝染した。(中略)党員の誰かに親近感を抱 いていた私は「教工隊」105に加わった。紅衛兵が学院の幹部を次々と非 難攻撃すれば、教職員達のグループもこの尻馬にのった。何かしなければ ならなかった。傍観は許されない雰囲気だった。気が重かったが、私もま た筆をとり、大字報(壁新聞)に孫先生 106を非難する文章を書いたりし た。日本人だということで私も槍玉にあがり、家宅捜索をされ、夫が職場 の同僚に吊るしあげられるまでは、恐ろしいことが続くのにびっくりし、

想像もつかないことが起きているのに動転してはいたが、まだ私にとって はよそごとだった 107

最初は外国人が「下放労働」108に参加する必要はなかったが、その後、北京大 学と清華大学の何人かの外国人教師を含めて教職員は、江西省の農場へ水田づく りに送られていった。ここでは地方の風土病である吸血虫病が大量に発生し、わ ずか一、二か月で北京へ逃げ帰ってきた。大勢の人たちが吸血虫病の後遺症で苦

103 前掲、『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交最後の証言』、232頁。

104 同上、6頁。

105 共産党員の教師を中心とした教師の組織。

106 当時大連日語専科学校の孫夫亭副学長である。孫先生は埜口阿文をその後も、友 人として扱ってくれている。それにしても、埜口阿文は、自分がしたことをとても恥 じていると言った。

107 前掲『長春大学教師日記―昔の同志と新しい教え子たち』、140頁。

108 「下放労働」とは、幹部や学生などが農村へ行って労働、生産に従事することで ある。

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しんだと言われている 109。日本人教師は苦しい状態の中で、学生や中国人同僚な どが暖かく守ってくれた場合もある。藤田は自分の「下放労働」について次のよ うに述べている。

私もいろいろ「下放労働」にもいきました。みんなが大学に先生も学生 もいって行っちゃったら私一人ぼっち残って、初めはどこへ行ったかと言 うと、黒竜江省、次は吉林省舒蘭県、そこで対外貿易部の幹部と一緒に「五 七幹校」を作った。そして、帰ってきて今度は河南省息県っていう豊かな ところ河南の真ん中にあってとても交通の便が悪くて、今度は息県に「幹 校」を作った。そこで病気になった。風土病で田植えをして足から菌が入 って余命 3か月と言われた。これは西薬では治らないから北京中医学院で 治療しなさいと言われて、体力回復をしなさいって言われた。この病気に なって帰る前の年ぐらいだから、1972年くらいに日本に帰る決心をした。

(中略)舒蘭県での一つの朝鮮族の村には「幹部学校」を作ったのであ る。そこはものすごく寒いので寒くなると私を「炊事班」に入れてくれる のです。みんな気を遣ってくれて、私は文化大革命がそれほど辛くなかっ た。学生に守られていた。学生に感謝している。文化大革命のころの学生 と今は一番交流がある。学生にひどい目に合っていないからどなたとでも 仲良くなれる。学生たちが私を守ってくれた 110

周りの中国人は守ってくれるだけでなく、周恩来総理も外事部門の責任者に対 して、在北京の外国の機関、個人の合法的権益と人身の安全を絶対に保護するよ う指示していた。中でも長期にわたり中国革命を支持し、社会主義建設を支援し てくれた外国人の老同志、古い友人、老専門家にはより多く関心を払い、気を配 り、いかなる人であろうと、またいかなる理由があろうと、傷つけてはいけない という指示を出していた 111

岡崎先生と児玉先生は、大混乱する大学では本もなくて教えることもできない と日本に一時帰国した。

50年代、60年代、日中国交はまだ正常化されていないころで、中国における日 本語教育に携わっている日本人教師は、戦争、政治運動、階級闘争など激しい歴 史の波に翻弄され、中国の日本語教育に全身全力を奉じていた。以上の 5 人の教 師は政治運動の最中に一時日本に戻ったが、日中国交回復後、中国に戻り、もう 一度、中国の日本語教育の教壇に立っている。彼らにとって、中国は第二の故郷

109 前掲『北京の嵐に生きている』、95~98頁。

110 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』藤田へのインタビュー、4~

7頁。

111 前掲『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交最後の証言』、232頁。

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としての存在である。「児玉先生は臨終前、彼女と鈴木先生が節約して貯めた日本 円で二百万円余りの貯金を全額、北京大学に贈り、それでもって彼ら夫婦の名前 を付けた基金を設立し、貧しい家庭出身の優秀な学生に使うように遺言した。ま た、自分の遺骨の一部を前夫の鈴木先生の遺骨と一緒に、半世紀余りにわたって 熱愛し、奮闘してきた中国の大地に永遠にとどめてほしいと遺言した」112

日本人教師も中国の日本語教育の創立者として働いている。当時の日本人教師 は学生に日本語を教えるだけでなく、教材の編集、カリキュラムの設定、若い教 師の研修指導などいろいろ任務を担当している。場合によっては日本人教師が主 役として、中国人教師が協力するということであった。中国側は日本人教師の意 見や考えを非常に尊重し、積極的に受け入れた。周斌の復学の件から、日本人教 師の重要性がわかる。

(復学の件を)季羡林学部長に頼むことにした。しかし、季教授は困っ た顔をした。一年前、党総支部が私に政治工作の幹部になるよう要請した 時、季教授は異論を唱えたのだが、聞き入れられなかった。(中略)三人 の日本人専門家たちは私にいい印象を抱いており、(中略)彼らに事情を 説明し、大学の指導者に手紙を書くように頼んだら、大学側は彼らの意見 を聞き入れるであろうと、季教授は提案してくれた。私の事情を聞くと、

三人の専門家は快諾してくれた。(中略)一週間が経たないうちに、学部 党総支部から早期に仕事の交替を行ない、次の学期から日本語学科四年生 の授業に戻るようにとの通知が届いた 113

日本人教師は中国の日本語教育には大きな貢献を果たしたことは、日中両国で 認められている。彼らは日本語教育への貢献より中国人の対日感情を改善するこ とにもさらなる貢献があった。当時、中国は戦争から回復したばかりで、中国人 は日本に対する敵視や恨みなどマイナスの感情を持っている人が多かった。学生 に日本語を勉強させるのに不満がある。周恩来総理の訳者周斌が言うように「岡 崎謙吉、鈴木重歳、児玉綾子の 3 人の日本人の先生にも、一生感謝しなければな りません。私が日本に対して良い感情を持つようになったのは、その 3 人の先生 のおかげです。こういう人たちが、我々が尊敬すべき日本人だ、昔の兵隊さんの 悪事は水に流してしまいましょう」114。当時、周斌のように、日本人と直接的に 接触することを通じて、日本人への感情を改善した人はわずかしかいない。しか し、50年代、60 年代の日本語科卒業生は、優れた通訳者、外交関係者 115になり、

112 同上、233頁。

113 前掲『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交最後の証言』、9頁。

114 同上、235頁。

115 元国務院委員唐家璇、元駐日大使徐敦信、周恩来、毛沢東の通訳王効賢、周斌な