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中国において日本語教師になった経緯

第一章 日中国交正常化以前の中国における日本語教育と日本人教師

第三節 1950 年代・ 60 年代の日本人教師

1.1 中国において日本語教師になった経緯

新中国成立後、中国に残留した日本人は3万4000人以上に上るが、その分布は 東北約2 万3400人、華北約4700人、華東約1200人、中南約 3800人、西北約1000 人、西南 80 余人であった。日本人は、外国人として法律上の保護を受けるほか、

国営企業や私営企業に勤めている人はみな中国人の職員と同じ待遇を受けていた。

日本人の大部分は中国の大都市、あるいはそれに準ずる都市に住んで、科学技術 や教育、医学、鉱工業の企業等で仕事をしていた 77

敗戦後の混乱の中で、残留日本人は生き残るために中国側の要請に応じざるを 得なかったのが実情である。「留用者」は各地で活躍し、高く評価された。中国の 報道によると、56 年に日本の訪中団と会った周恩来首相は「一部の日本人には深 く感謝している。彼らは医師や看護師、技術者として協力してくれた」と語った 78

そのうち多くの人が日本語の教員になっている 79。以下では、北京大学の岡崎 兼吉、鈴木重歳、児玉綾子、大連日語専科学校の埜口阿文、北京対外経貿学院の 藤田美恵の五人の教師の回記録、インタビューの記録、教え子の回顧録などに基 づいて、当時の日本人教師の置かれた状況を明らかにしたい。

北京大学には「岡崎兼吉、鈴木重歳、児玉綾子という水準の高い三人の日本人

「専家」がいたことは垂涎の的であり、他の大学が遠く及びない点である」80。こ の三人の専門家はいずれも第二次世界大戦前に日本の有名大学を卒業し、戦時、

東北地区(旧満州)で生活していた。新中国の成立後、中国政府の要請に基づい て北京大学で日本語教師として働いていた。彼らは中国の日本語人材育成に対し て全精力を傾けたのである。

「この先生たちには際立った共通点がある。それは実際に目にし、耳にした自 身の体験から、14 年の長きにわたった日本軍国主義が発動した中国侵略戦争を、

骨身にしみるほど恨んでいたことである。(中略)彼らは儀礼的あるいは口先だけ でなく、誠心誠意、中国を第二の故郷とする。(中略)中国のために、日本語をし っかり身に付け、日本をよく知る人材を育てることを自らの神聖な職務、厳かな 使命とした」81。現在、三人の先生とも北京の八宝山革命公墓に葬られている。

77 孫東民『永遠の隣人―人民日報に見る日本人』日本僑報社、2002年、425頁。

78 「留用者」日中協力の原点 戦後中国、技術で支えた」朝日新聞、2016.05.17。

79 蘇徳昌「中国における日本語教育」『日本語教育』41号、1980年、25~38頁、33 頁。

80 前掲『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交最後の証言』、5頁。

81 同上、226頁。

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表1-4 岡崎兼吉の履歴

年代 履歴 社会活動

1909年 佐賀県に生まれる

1930.4 早 稲 田 大 学 文 学 部 文 学 科 国 文 学 専 攻 に 合格

学外活動に参加し、2 回治安 維持法違反者として拘留

1932.12 早稲田大学中途退学

1933年 「日本プロレタリア映画同盟」に加入 1934~1939年 雑誌『映画創造』の同人となり、活動し

治安維持法違反者の監 督機 関に当たる東京保護観 察所 の「保護観察」を受けた 1935年 ある政界往来社編集部に就職

1940年 理研科学映画株式会社庶務課へ転勤 1942年 新京(現、長春市)にある国策映画会社

満 州 映 画 協 会 啓 民 映 画 部 庶 務 課 に 勤 務 した

1945.10 共産党による「東北電影公司」に勤務

1946年 「沙河子馬頭達連河三姓煤鉱」という炭 鉱で働く

1948.10 斉斉哈爾市日本僑民協会に移り、民生医

院の「協理員」となった

1949年末 人 民 鉄 路 に 属 す る 牡 丹 江 日 籍 小 学 校 の 教師となった

「鉄路工会」と「新民 主主 義連盟」に加入した

1950年末 北 京 鉄 路 局 付 属 の 第 二 鉄 路 小 学 校 へ 転 勤し、日籍班の教師となった。

1952.2 「鉄道部日籍員工子弟中学校」(鄭州)

に派遣され、国語教師となった。

1953.5 鉄 道 部 と 全 国 総 工 会 の 推 薦 に よ り 北 京 大学東方語言系日語科に着任した。

1958年以降「専家」になった

「教育工会」に加入し た。

毛沢東選集日本語版の 改定 作業に参加する。

1969.12 文革のため、帰国した

1970.9 愛 知 大 学 名 古 屋 校 舎 図 書 館 臨 時 嘱 託 の 職を得た

1973.4.~1987 北京大学学長の招聘により、再び北京大

学へ就任

1987~99年 友谊賓 館 の 自 室 で 日 本 語 を 教 え な が ら 晩年を送った

1999.4.31 永眠

出所:山本経天『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』平成21年度~24 年度科学研究費補助金若手研究(B)課題番号21730651.2013年による。筆者作成。

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山本経天は岡崎自筆の履歴書に基づき、彼は北京大学へ赴任するまでの経緯を 辿っている。山本経天の研究に依拠して、岡崎の履歴をまとめると表1-4である。

1953年、岡崎は、帰国の手続きを取ったが、3 月12日に彼の愛妻がなくなった。

山本経天は「愛妻の死が岡崎の足を留めた直接の原因であったが、中国に残り中 国人に日本語を教えることを決意させたのは、戦前中国を侵略した日本軍の生々 しい残像に対して日本人居留民の送還を支援する中国の姿であったと考えられる」

と指摘している。しかし、愛妻の死を考えると、中国という悲しいところに残り たくないというのが常識ではないだろうか。したがって、岡崎が中国に残った経 緯はいまだ不明であるといえる。藤田恵美も1947年東北から北京に行くきっかけ について、「いかざるを得ない。そのことはお話しません」82と断っている。残留 の理由はこの時代の筆舌に尽くしにくい状態により、「せざるを得ない」を選択し たと思われる。

以上の岡崎氏の履歴から見ると、岡崎氏は中国へ親しみを持っているし、共産 党員ではなくても、良心派の立場にあったことがわかる。鈴木先生の無くなった 前夫人は日本の著名なマルクス主義の先駆者で社会活動家の河上肇の娘だった。

鈴木先生は京都大学在学中、河上肇教授の影響を強く受け、マルクス主義に傾倒 するようになり、正しい観点から研究することを学び、日本社会の数多くの問題 を分析した。児玉先生は夫の鈴木先生と共に北京大学に来る前は東北人民新華放 送局の対日放送の第一陣のアナウンサーだった。清らかで甘く、流暢な言葉を話 し、日本に向けて中国で起きている変化を紹介した 83

中国では日本語専門家になりうる条件というと、「日本語を教える使命感に徹し なければならなかった」。具体的に言えば、「中国の試みている社会主義建設の、

世界史の中における意義を十分に理解していなければならない。日本語教師であ る以前に、中国人民と同じ世界観に立っていることが必要である。これは思想の 問題であり政治の問題でもあるが、さらに知識・技術の問題がある」84

北京大学の日本人教師の政治姿態は非常に好意的に受け取られた。政治的に信 用できる日本人知識者を見出すのは困難であった当時において、三人の日本人は 北京大学の日本語科にとって焦眉の急を解決するのに貢献した。

大連日語専科学校の日本人教師はほとんど日本共産党から派遣された。埜口阿 文は特例として、大連日語専科学校の設立準備段階において、中国人教師と一緒 に面接を受けて採用された。埜口阿文はその経緯を次のように述べた。

当時、私は沙河口区人民政府財務税務局の秘書処に勤務していたが、あ る日、人事科から呼び出されたので行ってみると、日本語専門学校準備委

82 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』藤田へのインタビュー、3頁。

83 前掲『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交最後の証言』227頁。

84 香坂順一『北京大学二年』、龍渓書舎、1976年、184頁。

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員会の幹部に紹介された。「大連は日本語学校を作るのに一番ふさわしい 都市です。あなたには中国の青少年に日本語を教えてもらいたい。現在の 世界情勢、今後の日中関係の変化、発展を考える時、日本語のできる人材 を養成することは大切な任務です。今、わが国の新しい世代の中には日本 語を話せる有望な人材があまりにも少ない。これからのあなたの使命は日 本語の教師となることだと考えてほしい」。彼はそういうと、北京で出版 されていた日本語版の「人民中国」を開き、その中の数行を私に読ませた

(それが面接試験だったようだ)。「後日、市の人事部門を通して就任通知 があるから」と幹部は言った。私には人を教える資格や経歴はなかったが、

人物を信用されて、この仕事を命じられたことが嬉しかった 85

しかし、すべての日本人教師は最初から政治的に信用されたわけではない。次 に藤田を紹介しよう。当時、中国では、日本人に対する敵対感情はまったく払拭 されていなかったし、社会ではその人の政治的立場と政治出身のことを重視して いた。そういう雰囲気では「学校側も最初のころは政治的なことで信頼されてな かった」86。第1節で述べた毛沢東の対日「二分法」から影響を受け、また、中国 人教師と一緒に仕事するのにつれて「私は当時幼かったし、何の関係もないのだ と信頼してくれるようになった。」(中略)「将来は外交より貿易が先に行かなけれ ばならないという、外国の人とコミュニケーションを取らなければいけないとい う使命感が皆さんにありました」。

日本人教師の中には、自分の研究のために、自ら残った人もいる。たとえば、

北京大学の最初の日本人教師である今西春秋である。彼は著名な満蒙史の研究家 である。「戦時中、国立北京大学文学院における史学科で中国史学を講じる」87。 学術研究上の必要から終戦後の北京に留まって、北京大学で日本語の教授をしな がら専門の満蒙史の研究を続けていた 88。1964年10月から1967年1月まで上海

85 埜口阿文『長春大学教師日記―昔の同志と新しい教え子たち』草思社、1995年、139 頁。

86 前掲『中日国交断絶期の日本語習得者に関する研究』藤田恵美のインタビューによ る。6~8頁。藤田恵美(1928~)女、日本人。横浜市で生まれ、1935年7歳の時に丹 東市にわたり、現地の日本人小学校や奉天朝日高等女学校を経て、1945年に長春市に ある「満州国立女子師道大学」に進学した。終戦によって中退し、奉天に戻り、1946 年に「日僑善後連絡協会」を手伝った。1947年から天津を経て北京へ赴いた。1954 年北京対外貿易学院の成立に伴い、同校の日本人教師となった。26歳のことである。

1974年帰国まで20年間、日本語教育に尽力した。

87 中山時子「歴史の証人として」『日中文学文化研究学会通信』3 月号、2015 年、2 頁。

88 1949年9月の秋、前述した陳信徳夫婦が住んでいる院子に引っ越してこられた。彼

の紹介で、陳信徳は1950年夏北京大学で日本語を教えることに決まった。