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私益としての顕示的消費

第5章  経済学体系の成立と学知としての消費者概念の形成

A. スミスの社会理論は、その扱う問題領域が広範であり、ときに、種々の議論間の連結 を見定めることが困難な場合も少なくない。しかし、そうした解釈上の困難の一部は、同

5.2.2.  社会的行為としての消費

5.2.2.2.  私益としての顕示的消費

私益と公益との整合を自然的自由の制度と考えるスミスにして、社会における経済的自 由の問題は、いわゆる自由放任主義とはなり得ていない(Viner,

[1927]1991

112; Viner,

[1960]1991:216)。諸個人の私益的行為について、

「自分の生活状態をよくしようとする各 個人の自然的努力は、自由安全に活動することを許されるなら、きわめて強力な原動力で あって、それだけで、なんらの助力もなしに、その社会を富裕と繁栄に向かわせることが できる」(Smith,[1776]1981=1978: 260(2))と述べるスミスは、経済的自由としての 諸個人の自然的努力が保障される以前に、その制度的要件として、まずは生命や所有の安 全といった政治的・社会的自由が確立されることの重要性を見る。それは、スミス体系に おいて、私益と公益との関係には明確な従属関係が規定されていることを明示している。

上述のように、スミスは、行為動機の道徳性を考慮するとした点で、その社会的行為論を、

マンデヴィルなどのいわゆる放縦な学説とは一線を画するものとして示した。しかしなが ら、『国富論』の中で、「国防は富裕よりもはるかに重要なこと」(Smith,

[1776]1981=1978

136(2)

)としたスミスにとっても、経済的自由の行為は、その行為動機的な徳性の有無を問 うよりも、まずは社会的機能の次元において問題とされなければならなかった。ここにお いて、スミスの社会的行為論にあっても、私益のための諸行為に対する許容の判断基準が、

社会全体との関連性において行為帰結の観点から規定されることとなる。スミスにとって

の私的利益の追求とは、公共的ならびに普遍的な利益の増大に寄与または逆行しない限り において是認されるものとなる。両者の利益が対立する場合には、私的利益の追求へと向 かう諸個人の利己心的行為を何らかのかたちで矯正することが要請される。この意味で、

スミスによる個人的自由の擁護、なかでも経済的自由に対する支持とは、あくまで公益と いう社会枠組み全般の利益やその諸成員すべてに関わる一般的福祉などの増進、あるいは 少なくともその方向を阻害しない限りにおける自由の擁護である。

  スミスは『法学講義』の中で、諸個人が市民社会を構成し、みずからその成員になるこ とを望む要因として、権威と功利という2つの原理を挙げている(Smith,[1763]1982=

2005:32-35)。このうち、功利の原理とは、諸個人の私益的行為の自由が、当該の統治の

下に平和や正義というかたちの公益として保障されることから、その成員の為政者への服 従を可能にする原理である。スミスによれば、諸個人はむしろ、統治を紊乱して公益を損 なうような事態から生じるであろう不利益の大きさを考慮して、当面の私益に優先させて まで為政者の統治に従うものとされる。したがって、スミスのいう個人的自由とは、市民 社会にあって、その統治に従うための制度的諸制約に従った上での行為の自由のことであ る。

  とはいえ、市民社会の統治が要請する諸条件の下では、依然として、諸個人の行為動機 の中心には私益の追求がその本義の位置を占めていることに変わりはない。この私益追求 の心性は、自己の境遇を改善しようとする向上志向性として行為への強力な拍車となる。

それはスミスの想定する人間像にあって、人間性の一般的性向として前提されている。「お よそどんな人でも、生まれてから死ぬまでの全生涯をつうじて、どのような変更も改善も 望まないくらい自分の境遇について満足しきっていられるようなことは、おそらくただの 一瞬時もないであろう」(Smith,[1776]1981=1978:534(1))とスミスは述べる。その一 方で、人間とは、その心身、とりわけその精神性において、たんなる色合いの違いによっ てさえ傷つくことがあるほどに繊細な生き物であるとスミスはいう(Smith,[1763]1982

=2005:266)。そして、人間社会における種々の学芸技術や勤労の目的とは、もっぱらこ の心身の繊細さ、主としてその美的趣味の微妙さから生じる不都合を改善するためのもの であるとされる。スミスはこう述べる。

人間生活のすべての勤労は、われわれの三つのささやかな必需品、すなわち食物、衣 服、住居の供給を手にいれるためにではなく、われわれの趣味の微妙繊細さに応じた生 活の便宜品を手にいれるために使用される。われわれの必需品中の主要対象である諸材 料を、改良し増加させることが、すべてのさまざまな学芸技術を生み出すのである(Smith,

[1763]1982=2005:268)。

  この引用部分から分かるように、スミスの行論において、この時点ではすでに、消費財 の間のその生活上の必要性に基づく等級の基準としての必需品と奢侈品との区別はかなり 曖昧であり、もはや「人間を生き物として存続させるのに直接必要でないものはすべて奢 侈である」(Mandeville,[1714]1988=1985:101)と規定したマンデヴィルの奢侈概念と の実質的な議論上の差異はない。スミスは、マンデヴィルが奢侈として一括した範疇に、

便宜品との用語を挿入することで、マンデヴィル的な奢侈概念の使用法を避けているに過 ぎない。スミスのこうした必要と奢侈の区分をめぐる曖昧な用語法については、『国富論』

の次のような記述からも確認できる。

必需品という場合、私は自然が最下層階級の人々にとって必要たらしめているものだけ ではなしに、体裁をととのえるうえでの決まった生活慣習が必要だとしているものをも ふくめて考える(Smith,[1776]1981=1978:299(3))。

竹本は、必需品・便益品・奢侈品という諸財の等級区分のうちに、スミスにおける富裕概 念がその規定要因として社会性を含むものであることを指摘する。体裁を保つための消費 財をいわば社会的必要として必需品扱いとするスミスの区分からすれば、そこでの生活の 富裕とは、「他人の眼という社会性をまとったものであって、たんなる消費財量であらわさ れるものではない」(竹本,2005:36)ことは明白である。豊かさの尺度のひとつに社会性 の要素を認めるこうした議論は、富の顕示性という問題に関して、消費行為における対人 効果の重要性をスミスが明確に認識していたことを示している。

いずれにしても、ここにおいて、消費を社会理論の文脈において論じるためのスミスに よる地ならしは完了した。マンデヴィルの『蜂に寓話』にあっては悪徳的行為としてその 動機上の道徳性を非難された奢侈的消費の行為が、スミスの議論においては、生活状態の 改善を目指す向上志向性という人間の一般的性向に基づくたんなる私益の行為とみなされ ることとなった(Hurtado-Prieto,2006:233-234、236-237)。このことが、スミスの消 費論に奢侈論争という道徳論的な問題圏から抜け出すことを可能にさせた。そして、スミ スが、顕示的消費というある種の“奢侈的”消費の問題を、奢侈論争という道徳論の文脈 から離れて論じることができた理由もこの点に求めることができる。次に、その顕示的消 費の議論を瞥見する。

スミスは、市民社会を成立させているもうひとつの原理として指摘した権威の原理につ

いて、諸個人が進んでその権威に服する要因として、年齢・心身能力・門地・富という4 つを列挙する(Smith,[1763]1982=2005:33-34)。ある人がいずれかの要因において長 じているとき、周囲はその人の権威に従うことになる。中でも、富についての優越性は、

とりわけそれを保持する人間に対して権威を付与するものである。人々は、ことさら富裕 という境遇に対して特別の同感を感じるからであるとスミスはいう。富ならびに富裕な地 位ということに特別に権威が付随する理由について、スミスは次のような説明を与えてい る。

われわれが想像力の力を働かすことによってややもすると描きやすい妄想の色眼鏡で もって高貴な人々の境遇を考察するならば、かような考察によって得られる観念は、完 全の状態ならびに幸福の状態に関するほとんど理想的な観念を代表するように思われる。

かような境遇こそは、われわれの欲望がめざす究極の目的そのものであり、われわれが 常に夢現のうちに、また空想をたくましうして描いて来たところのものである(Smith,

[1790]1982=1970:133)。

  階序的な身分制度や階層制的な社会秩序が確立され維持されるのは、こうした富にまつ わる権威に由来しているとスミスはいう(Smith,[1790]1982=1970:134-135)。富裕な 境遇は、高い身分と結びつき、それはそうした属性を有する人々に社会の上流階層として の社会的地位をもたらす。身分や地位のより低いものが上流階層に追従するのは、その見 返りになんらかの便宜や好意などを期待しているからではなく、そうした境遇に対して心 底からの賛嘆を示すからである。また、富にまつわる権威は、あるいはそれは事物の利便 性に関連して、自然の欺瞞から人間の想像力が作り出した富裕や高貴さという虚構の記号 性に対する賛嘆という側面ももっている。しかし、そうした自然の欺瞞は、社会のうちに 勤勉をもたらし、学芸や良趣を促進し普及させるなどの社会的機能をもつがゆえに、欺瞞 により惹起された行為はその行為帰結から見れば公益に適うものであるとスミスは述べて いる(Smith,[1790]1982=1970:388-394)。

  もっとも、こうした上流階層の富裕な境遇に対する賛美は、その一面において、道徳感 情の腐敗をもまた招いていく。スミスによれば、人間はみな、尊敬に値する人間になりた いと思うと同時に、他者から尊敬されたいとも願うものである(

Smith

[1790]1982

1970

149)。そして一般に、この目的を達成する手段としては 2

種類の方途があるという。

ひとつは知性や徳をみがくことであり、もうひとつは富や権力を獲得することである。し かし、この2つを比べた場合、後者のほうが、より他者の注意を引くというその顕示性の