第3章 奢侈是認論と消費者概念の脱道徳化
J. アップルビーによれば、無際限の欲望をもった消費する動物としての人間像は、1690 年代以降の経済思想の文脈から現れてくるという(Appleby,1976:509)。無限の欲望と
3.1.3.2. マンデヴィル消費論の主要トピック
マンデヴィル消費論の今日的な敷衍可能性については多岐にわたるであろうが、その中 でも、消費社会論との関連からより重要性をもつと考えられる2つの論点をここでは取り 上げてみたい。その2つとは、奢侈的消費論と顕示的消費論である。
まずは奢侈的消費論について述べる。マンデヴィルの奢侈的消費論は、ケインズによっ て、『雇用・利子・貨幣の一般理論』の中で重商主義期の奢侈擁護論の系譜に位置づけられ た(Keynes,[1936]1971=1983:360-364)。それによって、その後の経済思想史における マンデヴィル奢侈的消費論の解釈の方向性も決定づけられてきたといえる。ケインズは、
自身の雇用量決定論との関係において、マンデヴィルの奢侈的消費論を、過少消費説に立 つ有効需要論の先行的議論のひとつとして数えたのである(14)。
だが、マンデヴィルの奢侈的消費論に政策論的な意図はない。それゆえ、ケインズ的な マンデヴィル解釈は、
J.ロビンソンなども指摘するように、いささか無理がある(Robinson,
1962=1966:25)。奢侈擁護論の系譜から、政策論的な含意を引き出そうとする意図のた
め、それはマンデヴィル消費論の全体はもちろんのこと、奢侈的消費論に関しても、その 主眼点を外した一面的把握に止まっている。「私悪は公益」という、反合理主義的個人主義 を基点に展開される市民社会的繁栄をどのように考えるかというマンデヴィル体系の主眼 は奢侈的消費論においてもぶれることはない(中野,1999:11)。そうしたマンデヴィルに
とって、奢侈とは市民社会の一社会現象であり、奢侈的消費による有効需要および雇用の 創出は、政策論的な見解ではなく、あくまで社会論的前提であったといえる(Robinson,1962=1966:27)。社会に奢侈が遍在しているということは、その社会が富裕であること
の証としてマンデヴィルは捉えていた。マンデヴィルは『ダイオンへの手紙』において、「奢 侈とは人間の悪徳に支えられているが、多数の国民を強大かつ富裕にし、同時に礼節をも 身に付けさせるためには絶対不可欠の条件である」(Mandeville,[1732b]1953:18)と述 べている。まして、「すごく人口の多い国家において、奢侈に耽るのがその上流層に限られ ており、ずっと大きな割合を占める大多数は、すべてをささえる基礎としての最下層、大 勢の労働貧民であるならば、外国品が国家を破滅させるはずがない」(Mandeville,[1714]1988=1985:228)と論ずるマンデヴィル思想が、奢侈的消費を奨励あるいは積極
的に擁護したものでないことは明瞭である。したがって、マンデヴィルの奢侈的消費論は、
奢侈擁護論であるというよりも、奢侈是認論であるとするのがより適切な評価であろう。
一方、道徳論的な議論ともマンデヴィルの奢侈的消費論は無縁である。マンデヴィルは 奢侈のもつ市民社会における社会的機能(有用性)を論じたのである。マンデヴィルの奢 侈的消費論は、いわば道徳論的批判の論理的根拠に対する反駁であった(15)。マンデヴィル は主要な3つの論点を挙げて、それらを反駁している。3つの論点とは、奢侈の基準(概 念規定)の曖昧さ、奢侈による国民的窮乏化、奢侈による人間性(国民性)の柔弱化につ いてである(Mandeville,[1714]1988=1985:101-113)。
まず、マンデヴィルは、奢侈という語の定義において、それを「人間を生き物として存 続させるのに直接必要でないものはすべて奢侈である」(Mandeville,
[1714]1988=1985:
101)と規定し、この定義の厳格さを少しでも緩和するならば、それはきりがなくなるであ
ろうと述べる。つまり、奢侈の内実とは、時代や場所、人々の身分その他の社会的属性な どによって、限定的に規定されるしかない歴史文化的な概念であるということである(16)。 奢侈的消費論の冒頭でこのように述べることによって、マンデヴィルは、道徳論的な、必 要と奢侈との従来の二分法的論点をいわば無効にしてしまうことで、議論の対象を社会的 機能に絞っている。経済的に豊かな市民社会では、その消費のほとんどが人間の生存に絶 対的に必要なものではないのだから、それを道徳論的な観点から批判することは的外れの 議論となるというのが、マンデヴィルの奢侈的消費に対する見方である。とすれば、マン デヴィルにとっての奢侈論とは、消費論の別称に過ぎなかったともいえよう。マンデヴィ ルの定義を前提とするならば、奢侈とは消費の特殊的な事象的外見のひとつであり、その 奢侈概念の厳格な用語法によって、奢侈と消費一般とは、もはやマンデヴィルの議論にあ っては実質的には区別し得ないものとなっている(Hurtado-Prieto,2004:17)。こうした マンデヴィルの奢侈是認論とは、従来の道徳的な行為の価値基準を覆すものであった(Goldsmith,1987:245)。次に、奢侈は国民的富を破壊するもので、社会(国家)を富 裕にするためには倹約をしなければならないとの主張に対しては、外国貿易を例にとりそ れに反対する。外国製の輸入奢侈財の消費は貿易差額上、イギリスに不利益をもたらして いるから、輸入奢侈財の国内消費を控え、余剰分を再輸出すればよいとする議論はその根 拠が疑わしいとマンデヴィルはいう。まず、余剰分の再輸出は輸送費用などの問題により、
不利益を被るであろうし、また貿易とは元来、相互的なものであるのだから、一国的な輸 出超過が続くことはありえず、それゆえ、外国品の消費制限などの措置は、長期的には自 国の立場を不利なものにすることで、かえって富を減退させてしまうであろうというので ある。最後に、奢侈は人間性を柔弱にして、そのために国家の防衛力を低下させるという
議論に対しては、そもそもそれは国民が奢侈であるかどうかの問題ではなく、悪政のため であるとマンデヴィルは述べている。さらに、暴飲・暴食などの過剰消費的な性格の奢侈 においては、確かに健康上の悪影響から人々を柔弱にするかもしれないが、しかし、奢侈 がもっとも顕著に示されるのは、建築や家具、馬車、服飾品に関連した財についてであり、
それらはいかに豪奢に消費されようとも、身体的な悪影響は認められることはないとする のである。すなわち、市民社会における奢侈とは、感覚的な快楽追求型の過剰消費行為と して現れるよりも、その多くはもっぱら感覚的にしろ、精神的にしろ、快楽よりも安楽を 求める類いのものであるため、奢侈が国民の柔弱化を招くとする批判は当たらないのであ る(17)。
マンデヴィルは顕示的消費についても論じている。もっとも、彼自身は顕示的消費とい う術語を用いているわけでなく、内容的に後年、
T.ヴェブレンが顕示的消費として論じた議
論とほとんど同種のものがマンデヴィルにも見受けられるということである。A.O.ラヴジ ョイは、今日の定本的位置を占める1924
年版『蜂の寓話』2巻本の編者であるF.B.ケイに
宛てた私信の中で、ヴェブレンの『有閑階級の理論』に見られる議論はほぼマンデヴィル に見られると述べて、ケイによる『蜂の寓話』出版の意義を認めている(Lovejoy,[1922]1924:452)。
マンデヴィルの顕示的消費論もまた、自己偏愛(self-liking)という人間本性から由来す る諸情念の作用により突き動かされ、限定合理的に行為する人間という、マンデヴィル思 想が前提とする人間モデルから説明される(18)。中でも、顕示的消費と深く関わりのある情 念は自負であるという。マンデヴィルは、自負とは「いやしくも理解力のある人間がみな 自分を過大評価し、そのあらゆる性質や境遇をことごとく知りつくした公正な審判者なら、
だ れ に も 認 め ら れ な い ほ ど の 美 点 を 自 分 に 想 定 す る 、 あ の 生 ま れ な が ら の 機 能 」
(Mandeville,[1714]1988=1985:113-114)であるとする。消費者としての個人が、こ の自負に駆り立てられることで顕示的消費は現れる。そして、自負はさらに、人々の中に 羨望や虚栄を育むことで、いっそうの顕示的消費が促されていくこととなる。
マンデヴィルによれば、自負とは社会を富裕にし、繁栄させるためにはなくてはならな い要素であるにも関わらず、同時にこれほど社会的に嫌悪されるものもないという性質を もっている(Mandeville,[1714]1988=1985:114)。自負にあって、もっとも特徴的なこ とは、自負心が強い人ほど、他人の自負を黙許したがらないということである。また、人々 は、自分が自負心をもっていることは認めるけれども、個別の行為を説明する際には、ど のような行為であろうとも、それが自負から由来したものであるとは決して認めないので ある。マンデヴィルは、「当代の罪深い国家にあって、自負と奢侈は商売をたいへん促進さ
せるのだということを認める者は大勢いるが、もっと有徳の時代だと(たとえば自負がな いような時代だが)、商売がかなりの程度まで衰えるだろうという必然性は認めない」
(Mandeville,[1714]1988=1985:114)として、自負と経済的発展との関連性に対する 人々の撞着的議論の背景としてこの点を指摘するのである。
マンデヴィルは、衣服を例に取り自負の作用を詳述している。それによれば、衣服とは、
もともと、人間の裸体を包み隠すことで、気候などの外的環境からの諸害に対して身体を 保護する目的で作られた。そこへ、人間の自負が装飾という目的をつけ加えたというので ある(Mandeville,[1714]1988=1985:116)。衣服の装飾性への執着は、「度をこえた愚 かな虚栄」(Mandeville,[1714]1988=1985:116)であるのだが、人々はそれが虚栄と気 づいた場合でさえ、なおも抗し切れないほどに誘惑されてしまうのである。だれもが、衣 服と生活様式については、自分と身分や財産の点で同等な境遇にある他人の中で、もっと も賢明な人の生活に倣うべきであることを承知している。しかし、「とりわけ欲張りである わけでもない、普通の人々のうち、どれだけの者がこの分別を誇れるであろうか。われわ れはみな高望みをし、なんらかの意味でわれわれにまさっている者を、できるだけ早く模 倣しようと努め」(Mandeville,[1714]1988=1985:118)ているではないか、とマンデヴ ィルは述べるのである。
衣服のような外見に関連するものへの自負への誘惑は、都市生活においてさらに助長さ れることとなる。なぜなら、個人の匿名性こそが都市生活の特徴であるからである。人が 他人に知られていないところでは、概して服飾品によってその人間性までもが判断されて しまうということが起きる。服飾品によって、「それらが高価なことから彼らの富を判断し、
それらのあつらえ方から彼らの思慮を推測する」(Mandeville,[1714]1988=1985:117)
ということになれば、自然、人々はその分限を越えた身なりをするようになるであろうと マンデヴィルは論じている。
このように、顕示的消費論においても、マンデヴィルの視点は全階層的な消費者として の個人に据えられていることが分かるであろう。しかも、マンデヴィルにとっての顕示的 消費とは、社会階層的に下位の者たちの自負心に起因する、階層上昇的な現象として捉え られている。メイソンは、マンデヴィルの奢侈的消費論について、それが「奢侈とかステ ータスに関する感覚は相対的なものであることを指摘するとともに、絶対的もしくは相対 的な豊かさがつねに消費の制約として作用したとしても、・・・・・・人々は、彼らの制約の範 囲内で顕示的消費ができたし、・・・・・・また人々は自らの制約の範囲内で顕示的消費をする ことによって、あらゆる人にとって利益となる広範囲の財やサーヴィスに対する需要を生 み出し」(Mason,1998=2000:16-17)ていることを的確に捉えるものであったと述べて