第3章 奢侈是認論と消費者概念の脱道徳化
B. スピノザ、マンデヴィルらとの近接性を示すものであるとする(Novak, 1963 :66-67)。
3.2.3. 消費と社会秩序の再構築
3.2.3.2. 消費の階序とジェントルマン支配
することが期待される。下層の人々や後進の人々はみな生育ジェントルマンの生活様式や 態度などを模倣することで、ジェントルマンを中心とする社秩序が再構築される。デフォ ー思想とは、こうしたジェントルマン層の有徳性に基づく統治の再構築を志向するもので ある。もちろんデフォーの想定する生育ジェントルマンとは、実質的な中流層の台頭とい うことの是認論でもある(Shinagel,1968:96)。しかし、あくまでデフォーの理想とする 社会秩序の在り方とは、新たに台頭してきた中流層が、やがてはその人格や財力などの優 越性から自然なかたちで社会を指導するジェントルマン層としての地位を確立していくこ とで生成されてくる社会的な枠組みのことである。この点で、デフォーの社会思想には、
ジェントルマン支配の再建を志向するという側面が確認できる。
見えてくることとなる。
デフォーは、「正直であるから、その人が富裕になるわけではない。その逆で、その人が 正直なのは、富裕であるからである」(Defoe,[1704-13a]1938:302(8))と述べる。貧し さが盗みを生むともデフォーはいう。デフォーにとって、人間とは、まさに衣食足りては じめて礼節を知る存在である。そのことからすれば、道徳性の問題とは、その議論の基底 部分において経済論が不可欠とされる。社会が腐敗し、悪徳行為や犯罪などが蔓延するの は、経済が沈滞していることがその原因であるとデフォーはいう(15)。経済の沈滞が人々 の生活を困窮させ、「困窮ということが、人々の心から、交友の情や愛情、正義の感覚、そ し て 道 徳 と 信 仰 に 関 わ る 一 切 の 義 務 感 と い う も の を 除 去 し て い く 」(
Defoe
,[1704-13a]1938:302(8))のである。この点において、デフォーにおける道徳論は経済論
との接合が要請されることとなる。既述のように、デフォーにとっての真のジェントルマン階層たる基準とは、諸個人の資 質や能力、経済的成功にかかわる問題であり、そうした行為帰結の上に後天的に獲得され る社会的地位のことである。出身に関する血統、家柄、出生地などはあくまで付随的な条 件であり、当該個人が実際にジェントルマンの地位を獲得するための有利な特性ではある が、そのための必要条件ではない。この点において、デフォーの議論における経済論の第 一義性が看取できる。つまり、ジェントルマンが社会の行為規準として、道徳性やそれに 由来する統治性を体現できるのは、その経済的成功に基づく富の優位性を保持しているか らである。T.K.ミーアは、「経済活動の活発化と社会秩序の遵守との間には相関があること をデフォーは確信しており、それについて再三論じていた」(Meier,1987:90)点を指摘 している。デフォーはこう述べる。すなわち、
確かに腐敗した基準であるが、家柄の判断基準はその富がすべてとするのが時代の風潮 である。したがって、今日では資産や家財道具など家柄の付録物について語らずに血筋の 高貴さや古さを語ることは、その場の軽蔑と嘲笑を買うことになる(Defoe,
[1706]2005:
59(3))。
デフォーはまた、「諸国家は強大さをもって評される。そして今日、その強大さは富によっ て計られる」(
Defoe
,[1704-13b]2003-7
:117(2)
)とも述べる。こうしたデフォーの言から は、デフォーにとって社会秩序の構成力とは、富という経済力に由来する統治性に帰され るものであるということが分かる。このように、デフォーのいう諸個人の有徳性とは、経済力の裏づけがあってはじめてそ
の発揮のためのひとつの条件が備わることとなる。ただしそれはただ富裕な境遇にあると いうことで自然に備わる条件ではない。もしそうであるとすれば、デフォーのいう生得ジ ェントルマンであっても、その生まれながらの富裕という条件が彼らを有徳な人間とする こととなろう。それでは、デフォーによるジェントルマンに関する区別は意味を成さなく なる。人間本性に由来する生存という欲望がつねに道徳性の基礎として存在する。確かに これがデフォーの想定する基本的な人間観である。この点からすれば、人間の道徳性とい うことに関して、デフォー思想における経済論の道徳論に対する優位ということは明らか である。しかし、そのことは人間本性の根本的な悪徳性をデフォーが認めていたというこ とではない。
デフォーのいう人間の悪徳性とは、諸情念の過剰に由来する程度問題である。ミーアは、
道徳論と経済論との相反をめぐるデフォーの議論は、それを詳細に検討して見ると、「デフ ォーのいう悪徳とは、そのほとんどが犯罪行為についてではなく、行為の放縦という意味 において使用されていることが分かる」(Meier,1987:88)ことを指摘している。デフォ ーによる以下の悪徳論は、このミーアの見解を支持するものである。すなわち、
人間である以上、だれもが自負や虚栄や自愛心をもっていよう。しかし、それが、他の 人々がもつのと同程度のものであり、また他の人々がそれを示す場合に同じように示すと いったことであれば問題はない。それらはむしろ美徳であろう。自負や虚栄や自己愛など が悪徳となるのは、それが過剰であったり、乱用されたりする場合においてである。そも そも、美徳と悪徳とは対のものである。それゆえ、善悪は必ず一緒に考えなくてならない。
どこまでが美徳であり、どこからが悪徳であるのか、それを考えることである。人間本性 とは、それを光と影の混合としてイメージすると分かり易い(Defoe,[1720]2007:61)
(15)。
悪徳性というものをある性質の過剰や乱用として捉えるデフォーの道徳論は、同じジェ ントルマン層に属する諸個人であっても、なぜ生育ジェントルマンのみが有徳であり得る かという問題に答えを与えている。その理由とは、富裕であるという条件は同じでも、そ の富裕になる過程において、経済的な成功を収めるために必要な勤勉や節倹などの資質を 身につけることができるのは、生育ジェントルマンに限られるためである。富裕であって も、その経済力を奢侈や放蕩などに浪費するようでは、社会の行為規準としての役割を担 うことはできないということである。こうしたデフォーの道徳論とは、中庸の徳論のヴァ リアントであるともいえる。いずれにしろ、デフォーにおけるジェントルマン支配の構図
とは、富裕という経済力、およびその経済力を獲得する途上で獲得された勤勉・節倹・信 用といった有徳な資質、この両方を兼ね備えた諸個人の集合である正真のジェントルマン 層が社会の中での牽引役を務めることで、その経済力の優位を規準とする階序が形成され るといった社会をその理念型とするものであったことが分かる。そして、このジェントル マン支配の社会にあっては、消費が、その秩序を形成するための枢要な機能を果たすこと となる。次にその論理を見ていく。