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第5章  経済学体系の成立と学知としての消費者概念の形成

5.1.2.  消費と市民社会

5.1.2.1.  消費の欲望と自由社会

ステュアートの経済学体系は、自由な諸個人からなる社会成員の欲望を満たすための方 策を示し、種々の原因から生起する社会変動の過程を、国家という共益的な枠組みの中で、

できる限りの安定性の下に推移させていく方向性の手掛かりを提供する目的をもって築か れている。ステュアートは、理想として目指すところの社会像を以下のように述べる。

国家の経済が完全なものとなるのは、一般的にはあらゆる階級が、個別的にはすべての 人間が、社会から受け取る援助に比例して、社会に助力し、それを援助するようになった 場合である。これこそ、私の考える自由で完全な社会のあるべき姿である。それはすなわ ち一種の一般的な黙約であって、そこから相互的で比例の保たれた奉仕が、社会を構成す.......................................

るすべての成員のあいだに普遍的に生じてくる.....................

(Steuart,[1767]1967=1998:76)。

ステュアートの前提とする自由な社会において、諸個人間の社会的関係性に継続性を与 え、その再構築の制度化を支えることとなるもっとも重要な根本的原理とは、行為にまつ わる相互性である。それは自由な社会に安定的秩序と富裕とをもたらすための必要条件と なる。極言するならば、ステュアートにあってのポリティカル・エコノミーという学知は、

この諸個人間の関係的相互性を担保するためのものであるといえる。

この諸個人間の相互性ということの中で、ステュアートがその基底部分に据えるのが、

相互的欲望ということである。ここでの欲望における相互性とは、ステュアートの体系に あっては、二重の意味合いにおいて相互的であることに注意しておく必要がある。ひとつ

の意味合いは、自由な個人がその利己心に基づき何かを求める場合に、その行為の実現可 能性が他者の欲望の充足という行為連関上の社会的関係性により規定されるということで ある。もうひとつは、当該の欲望を喚起させた行為動機そのものが、多分に社会的要因に よる規定性を帯びたものであるということである。この後者の論点については後述に譲り、

ここでは、前者のみを考察していく。

  自己の欲望充足が他者のそれに規定されるということ、それは、自由な諸個人がそれ ぞれの利己心に従って行為をすることが前提になっている。ステュアートは、利己心とい う「この原理がもとになって、人々は千差万別の行動をとるのであり、しかもあらゆる行 動はそのあとになんらかの必然的な結果を生み出す。したがって、絶えず考慮しておくべ き問題は、およそ人類はしかじかの状況のもとではいかなる行動をとることが自分の利益 になると思っているのか」(Steuart,[1767]1967=1998:153)という点であるという。

こうした状況において、諸個人は互いに他者の利己心に訴えることから、自己の欲望を充 足させることを余儀なくされる。ここにおいて、他者の利己心に奉仕するための労働とい う契機が、自己の欲望充足のためにはつねに付随することとなる。自由な社会においては、

これら労働と欲望充足とは、経済活動という行為連関の営為にあって同じコインの表裏を 示すものとして不可分離な相関を形成する。また、同一主体についてみれば、それは相補 的な行為となり、社会関係の次元では交換過程における欲望の交差的な二重性を映し出す ものとなる。ステュアートのいう全般的な依存関係はここに生じてくる。ステュアートは、

「依存は社会の唯一のきずなである」(Steuart,[1767]1967=1998:219)とまで述べて いる。

ただし、依存関係をもって唯一の社会的紐帯であるとするステュアートにあって、人々 を労働へと誘引するその規定性は欲望の側にある。利己的な動機としての欲望が本位にあ って、その関係性を導く。ステュアートは、「人類に労働の意欲を起こさせるものは、農業 に刺激を与えるところの欲望の多様さと複雑さなのであって、農業そのものでもなければ、

食物の豊富さでもない」(Steuart,[1767]1967=1998:123)と述べ、欲望と労働に関し て、欲望にその行為動機としての先後関係での明確な優位性を与えている。したがって、

自由な社会の諸個人を安定的に束ね、富裕の途へと導くためには、相互的欲望という社会 的関係性の構造を強固なものにすることがなによりも肝要となる。

相互的欲望という関係性の制度化とそれに付随する労働への意欲とは、その自然の趨勢 として社会的分業を促進する。社会的分業の進行は、まずは生活資料の獲得をめぐるかた ちで、その生産者たる農業者とそれ以外の非農業者との間の分業として開始されるであろ う。依存関係では、あくまで欲望が本位的な性質をもつため、農業者の欲望が開花され、

充足されなければ、彼らによる生活資料の剰余的生産は行なわれないからである。ステュ アートは、非農業者のことをフリー・ハンズと呼ぶ(Steuart,[1767]1967=1998:29)。

このフリー・ハンズがそれぞれの生活資料を求めて、農業者の欲望を掻き立てるために労 働に従事することから農業が活発化していく。それは次に、フリー・ハンズの職業を多種 多様にすることにつながる。そうしてこの欲望の開花と労働との相互規定的な過程は、相 乗的な作用を発揮して一層の社会的分業を促していくのである。それはまさに、ステュア ートが、「人間は当時は他人の奴隷であったために労働を強いられたのであるが、今日では....................................

自分の欲望の奴隷であるために労働を強いられているのである............................

」(Steuart,[1767]1967=

1998

:37)として、古代における奴隷制社会と

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世紀の自由社会とを比較してその相違を 明確に表わしたように、近代の自由社会の枠組みとは、その一面においては確かに、欲望 の開花とその充足のための労働という、相互的欲望の制度を可動させていく自生的秩序と しての文化装置のことなのである。

5.1.2.2.  貨幣的消費と勤労社会

  相互依存の関係性が形成される中から生じた社会的分業は、社会に勤労が導入されるこ とで不断に助長され、より複雑に発達していくこととなる。この意味において、近代の市 民社会は、ステュアートによって、自由社会としての側面と並ぶもうひとつの面において、

勤労社会として把握されている。ステュアートはこのように述べる。すなわち、

社会のきずなとして役立つのに必要なこの依存を破壊せずに自由を最下層の人々まで あまねく拡大させたものは、勤労の導入であった。勤労は、あらゆる奉仕に対する適当な 等価物の流通を伴い、この等価物が、富者に対しては、彼らが貧者の隷属または依存から 刈り取ることを期待できたすべての利益を得させるのであり、そして貧者に対しても、最 もゆるやかな奴隷制ないしは最も穏やかな隷属のもとで彼らが享受することを望みえた はずのあらゆる慰安を得させるのである(Steuart,[1767]1967=1998:219-220)。

  この勤労社会では、フリー・ハンズの職業が多様化する。社会的分業の発達とは、欲望の 多様性を示すものであるからである。フリー・ハンズの職業は、この欲望により規制され る。というのも、ステュアートによれば、「彼らの職業は、農業者の余剰から、しかも社会 の欲望に適応した労働によって、生活資料を獲得するためのものであって、そのゆえに、

この職業はそれらの欲望に応じてさまざまであり、欲望はまた時代の精神に応じて多様で ありうるからである」(Steuart,[1767]1967=1998:29)。

ステュアートは社会への貨幣の導入契機を次のように説明する(3)

欲望が増大してくると、物々交換は(明白な理由によって)ずっと難しくなる。このた めに貨幣が導入される。これはあらゆる物に共通の価格である。それは欲望を感ずる人々 の手にあっては適当な等価物であり、したがって、勤労によって自分の欲望を満たすこと ができる人々の目的にかなうように、首尾よく工夫されたものである(Steuart ,

[1767]1967=1998:167)。

フリー・ハンズにおける職業の多様化は、勤労への見返りである適当な等価物の種類を増 やし、欲望の開花をもたらす反面、欲望が複雑化していく中で相互的欲望の成立の機会を 強く制約する要因ともなる。したがって、勤労社会はまた、必然的に貨幣経済を前提とす る。ステュアートのいうように、勤労にはそれに対する等価物が付随するのであるが、こ うした勤労と等価物との交換過程は、社会における諸個人の欲望が多様化し、社会的分業 が進展していくにつれて、おのずと交換可能性が高く、一般的な価値としての通用性をも った等価物を要請してくるからである。ここにおいて、貨幣は、価値一般という抽象的な 尺度の概念性を表徴する一般的等価物の仮託体として有用となるのである(4)

貨幣がひとたび成功裡に社会に導入され、その使用(流通)が定着すると、諸個人が自 分の欲望に実効性をもたらすためのものであった労働という行為に関して、その貨幣稼得 としての意義が重要性を帯びてくるようになる。相互的欲望という文化的な関係性の下で 欲望の充足を目指す諸個人は、いまや市場として制度化された交換経済の網目の中で、等 価物の譲渡という義務の遂行と引き換えに、みずからの消費を行なう必要性に迫られる。

そのとき、すべての市場的な取引の場面において通用する一般的な価値を有する等価物は 貨幣のほかにはないため、市場での交換を通じて消費を行なおうとすれば、そこには必ず 貨幣による支払いという購買力の裏づけが伴わなければならなくなる。それはまさに、「需 要する者は提供すべき等価物をもたなければならない。全機構の起動力となるのは、この 等価物なのである」(Steuart,

[1767]1967=1998

:107)とステュアートが述べたとおり、

消費をするためには、貨幣を保有していなければならないということである。ここにおい て、ステュアートが近代社会の社会成員として措定する自由な諸個人のうちには、その行 為の主体性ということのうちに、貨幣使用により欲望充足を図る消費者的役割と、その消 費のための等価物の保有を貨幣の稼得により実現しようとして労働する勤労者的役割とが、

共に市場参加のためのふたつの行為類型として、統合的に把握されている。ステュアート は、貨幣稼得―貨幣保有―貨幣使用という貨幣をめぐる一連の市場交換過程の中で、勤労