第4章 奢侈概念の変容と消費者概念の脱社会階層化
4.1.2. 愚行としての消費
4.1.2.1. 消費と流行
人間の愚かさということを問題にするバークリにとって、消費は社会におけるさまざま な悪徳的行為をもたらすひとつの温床である。消費行為そのものについては、それがどの ようなものであっても最悪の社会的な害悪ではないことは、バークリも容認している。た だし、消費が原因で種々の愚行が助長されているとして消費を批判し、消費自体もその最 大のものではないとしても、やはり愚行には違いないという。バークリは『問いただす人』
の中でこう述べている。すなわち、
消費は、それがどんなにはなはだしくとも、最たる害悪であろうか。しかし、この愚 行が多くの他の愚行を生み出し、家庭生活の混乱、くだらない風習、無責任、あるまじ き母親、男女の別なく一般的な堕落などを招いているのではないだろうか(Berkeley,
1735-7=1971:208(3))。
それでは、人々の消費行為の方向性を決めているものは何であろうか。バークリによれ ば、それは欲望であり、この欲望の方向性を決めるものが流行である(Berkeley,1735-7
=1971:9)。バークリの用語において、流行というのは、社会成員(国民)の間に「広く 行渡った意志」(Berkeley,1735-7=1971:9(1))のことである。それゆえ、バークリの 社会政策的な提言は、この流行をいかに社会的な利益である公益という目的性に適うもの にしていくかということに焦点化されてくる。同じく修辞疑問のかたちで、「流行の形成過 程に介入することが、立法府の知恵というものではなかろうか」(Berkeley,
1735-7=1971
:10(1))と述べるバークリは、流行を政策的に一定の方向へと嚮導することで、諸個人の
欲望を正しい対象へと向けさせ、消費にまつわる愚行的な要素を除去することを目指した のである。ここにおいて、バークリの議論は、欲望の被操作性という点に関して、明らか にその操作可能性を仮定しており、この前提の上に、消費行為に対する介入主義の立場を 採っていることが分かる(Petrella,1966:278)。また、バークリは、「工業ならびに商業の動向とは、こうした広く行渡った意志により決 定されるのではなかろうか」(Berkeley,1735-7=1971:9(1))とも述べており、流行に より喚起された諸個人の欲望の行為的作用、すなわち消費が経済を牽引する側面をマンデ ヴィルと同様に捉えていた。しかし、マンデヴィルがこうした社会的な順機能を、消費を 含む悪徳的行為の中に見出し、この利点から悪徳的行為の容認を主張したのに対して、バ ークリはたとえそうした社会的な機能があろうとも、悪徳的行為を放置することはなく、
その矯正の必要性を説き続けた(2)。悪徳の輩を評して、「悪人は、一人残らず根っからの 悪人である。そうして、根っからの悪人というのは、死ぬまで悪人である」(Berkeley,
[1750]1994:561)と述べたバークリにとっては、悪徳的行為が社会全体としての福利に対
して有益であろうはずがなかった。先述のように、バークリにとって、消費それ自体はそれほどの悪徳的行為ではない。け れども、それは愚行である。この消費における愚行を避け、流行を操作するためのバーク リの具体的提言とは、行為動機に関わる部分での人間性の洗練化であり、ひいては宗教的 な敬虔さの回復ということであった。バークリは、「人々の間に良趣が普及することになれ ば、その人々の繁栄に大きく寄与するのではないだろうか」(Berkeley,1735-7=1971:
10(1))と述べている。つまりは、諸個人を行為へと向かわせるさいの起因である行為動
機に関して、その志向性に、より公益に整合した定向性を付与すればよいとの主張である。バークリは、「人間の行動とは、その信条の帰結である。それゆえ、国家を繁栄させるに は、良い信条というものを諸国民の精神に浸透させることを考えなければならない」
(Berkeley,[1736]1994:484)という。このとき重要となるのが、いわばバークリ行為論 における鍵概念といってよいであろう“偏見”の役割である。ここで、偏見とは、バーク リ自身によって、「精神がその根拠や論拠を知らずに保持する思念や憶見のことであり、精 査されることなく受容されるもの」(Berkeley,
[1736]1994: 486)として定義されている。
ただし、このように規定されるからといって、この偏見とは、決して謬見という意味では ない。偏見がその他の思念や憶見から区別される基準は、あくまでそれが、理性の活用に よる推論的な根拠からではなく、信頼に基づき受容され保持されているという点のみであ る(Berkeley,[1736]1994:488)。バークリによれば、偏狭な理知よりも、この信頼とい うこと、さらには信心という人間的な特性のほうが、むしろ多数の諸個人に良趣や敬虔さ を植え付け、愚行的消費を無くしていくためには必要である。というのも、「階層を問わず、
俗衆にあっては、習慣と流行とが理性の代わりをつとめているのではないか。それゆえに、
賢明なやり方でそれらが形成されるということが、きわめて重要なことではないか」
(Berkeley,1735-7=1971:11(1))というのがバークリの考えだからである。
4.1.2.2. 奢侈的消費と貧困
バークリの生きた時代のアイルランド社会は、貧困のただ中にあった。とりわけ、被支 配層である土着のアイルランド民の困窮は甚だしかった。バークリは、「アイルランドの一 般民衆ほど乞食じみた、みじめな、窮迫した、キリスト教徒ないし文明人が、この世にま たとあろうか」(Berkeley,1735-7=1971:47(1))と、こうした窮状を嘆いている(3)。 アイルランドの貧困の原因について、そのひとつが富裕層の外国品を対象とする奢侈的 消費にあるとバークリは考えていた。バークリにとって、そうした外国品を消費する生活 様式は、大半の国民が経済的貧困にあえぐ低開発国にあっては、不適切な流行であった。
したがって、「われわれは、他国民向きにつくられた流行によって零落したのではなからろ うか。富める国民を模倣することは、貧乏な国民にあっては狂気の沙汰ではなかろうか」
(
Berkeley
,1735-7
=1971
:49
(1
))と問うたバークリの批判の矛先は、当然に、自国の 現状などは一向に顧みることなく、こうした富裕な生活様式を採用して奢侈的消費を行な う有閑階層へと向けられていく。『問いただす人』の中で、「下流層が勤勉で上流層が賢明 だという国家が、繁栄しないということはありえようか」(Berkeley,1735-7=1971:62(1))と述べたバークリにしてみれば、外国品消費という奢侈に耽り、アイルランド大衆 の窮状を放置する放埓な富裕層は、まさに愛国心のかけらももたずに、ひたすら愚行的消 費を繰り返す人々であった。
バークリは、外国製の奢侈品の消費に対しては、一貫してきわめて厳しい批判を行なっ ている。もっぱら外国品を消費するだけの有閑階層に対して、「奢侈によって外国品を消費 しつつ、それらと交換するための国内品を勤勉によって生産することのない人は、それだ け自国に損害を与えていないか」(Berkeley,
1735-7=1971:24(1))と問い、さらには、
そうした人々を同じく『問いただす人』の中で“公害”や“公衆の敵”と呼ぶなど、バー クリの批判は手厳しい(Berkeley,1735-7=1971:24,49(1))。挙句の果てには、そうし た輩はすべてアイルランドからいなくなってしまったほうが、国益のためではないかとさ え述べている。すなわち、
わが国のお上品な紳士淑女は、財産を食いつぶして外国風の奢侈になじみ、その弊風 を自国のいたるところにまき散らしているが、彼等はいっそ一人のこらず移住して外国 で暮らした方が、この島国のためになるのではなかろうか(Berkeley,1735-7=1971:
146-147(1))。
こうした有閑階層への厳しい批判は、社会の富裕化という目的に政策の方向性を限定し た場合に、有閑階層の行なう外国品への奢侈的消費がバークリの政策的基準に抵触するも のであることを示している。その基準とは、勤労(勤勉)の助長ということである。バー クリは、「勤勉な国民が貧困になったり、怠惰な国民が裕福になったりすることが、過去、
現在、未来にわたって、あるであろうか」(Berkeley,1735-7=1971:7(1))として、富 裕化への鍵、つまりは富の源泉が、人々の勤労であることを認める。バークリにとっては、
「金ではなく勤労こそが国を繁栄させるもといであることは明白」(Berkeley,1735-7=
1971:256(3))であったのである。ちなみに、バークリの想定する富裕の内容とは、「生
活必需品および安楽品のすべてが豊富にあるということが、本物の富裕ではないか」(Berkeley,1735-7=1971:250(3))との言からも分かるように、物質的な豊富さのこ とであり、そうした豊富な消費財を勤労の果実として享受できるような安楽な生活の一般 化のことである。
もっとも、バークリは奢侈的消費の全般を批判しているわけではない。確かに、バーク リは、奢侈とは反対の生活態度である節倹の生活様式が、社会の富裕化に資するものであ ることを認めている。バークリは、「節倹の生活は、政治体に滋養を与え強壮にする。こう
して政治体は発展的に継続していく。やがて、衰退と滅亡の自然的原因たる奢侈による腐 敗がもたらされるまで」(Berkeley,[1721]1994:326-327)と述べて、奢侈的な生活こそ が社会衰退の兆候であるという。しかし、その一方では、「安楽な生活が欲求を生み、欲求 が勤勉を生み、そして勤勉が富を生むのではないか」(Berkeley,1735-7=1971:39(1))
とも述べており、節倹のみを無条件的に励行するような立場は採らない。むしろ、バーク リは、貧困層の人々が安楽な生活習慣という偏見をもつようになれば、勤労を引き出すこ とが可能であると主張し、積極的に、豊かな消費生活が社会の底辺部にまで普及すること を擁護する。バークリはこう述べる。すなわち、
欲求を作り出すことが、人々の間に勤勉を生むもっとも確実な方法ではないか。そし て、もしわが国の農民が、牛肉を食べ、靴を履くようになったとすれば、彼らはもっと 勤勉になるのではなかろうか(Berkeley,1735-7=1971:12(1))。
バークリが奢侈的消費を批判するのは、それが勤労を伴わない場合である。その理由は、
のちに詳述するように、バークリが社会・経済政策上の優先項目としてつねに念頭におい ている目的性というものが、社会(国家)全体に関わる福利である公益ということだから である。それゆえ、「少数者の虚栄と奢侈とは、国民の利益と競合させるべきものであろう か」(Berkeley,1735-7=1971:56(1))と問うバークリにとって、勤労という公益的な 要素を伴わない一方的な奢侈とは、政策的な大目的に合致しない私益優先の悪徳的行為の ひとつとみなされたのである。
また、バークリは、消費財はその必要の緊要性が高いものから順次に調達されなければ ならないとして、まずは必需品の確保、その後に便益品、最後に奢侈品が考慮されるべき であるとしている(Berkeley,1735-7=1971:24(1))。その背後には、「十分な食物と暖 かな衣服とがあれば、下層民は労働への能力と意欲とをもつようになるのではないか」
(Berkeley,1735-7=1971:151(2))との、バークリの労働観がある。このように、社 会の勤労を担う多数の下流層についても、等しくその富裕化の恩恵を享受させるほうが、
より社会の富裕化を促進することになるという政策思想は、のちの高賃金擁護論へとつな がるものである。それは、従来の支配的な労働観からの脱却を示すものであり、バークリ の労働観は、