第3章 奢侈是認論と消費者概念の脱道徳化
B. スピノザ、マンデヴィルらとの近接性を示すものであるとする(Novak, 1963 :66-67)。
3.2.2. 奢侈と社会秩序の紊乱
3.2.2.1. ジェントルマン層の放恣と奢侈的消費
デフォーは歿後出版となった未完の論考『イギリス・ジェントルマン大鑑』の書き出し で、ジェントルマンを2種類に分けている。生得(the born)ジェントルマンと生育(the bred)
ジェントルマンの2つである(Defoe,[1890]2006:3)(8)。デフォーの意図は、この両者 の対比によって、生育ジェントルマンのジェントルマンとしての呼称の正当性およびその 社会的な重要性を論証することであった。
デフォーは生得ジェントルマンの真のジェントルマンとしての資格の不完全さを指摘す る。「生得ジェントルマンは、ジェントルマンたるに相応しい教養や振る舞いを身につける 限りにおいて、有益な人間である」(Defoe,
[1890]2006: 3)とデフォーは述べる。つまり、
デフォーの述べる真のジェントルマンたるの資格にとって重要な基準とは、その生まれに 由来する諸利点ではなく、当該人物の個人的な資質や能力に由来する利点のことである。
それらは教育や有徳な資質を有しているということに関連する個人的利点である(Defoe,
[1890]2006:86-88)。デフォーは、
「ジェントルマンは社会的な有用性を有していなくては ならない。そうでなければ、肩書きのみどんなに優れていてもなんの意味もない」(Defoe,[1890]2006:25)としている。
デフォーの生得ジェントルマン論とは、こうしたジェントルマンの資格基準である個人 的利点を欠く当世の生得ジェントルマン層に向けた批判である。デフォーは学識や道徳性 の欠如が、ジェントルマンとしての地位の形骸さを招くものであることを指摘する。家柄 や血筋の高貴さのみをもっぱらに言い立てるジェントルマンに対して、デフォーはこのよ うに要請する(9)。すなわち、
美徳や学問、教育、経験、学殖などが生得ジェントルマンをジェントルマンたらすた めに不可欠であることを認識されたい。それらを欠くとき、先祖伝来のジェントルマンの 称号は、たんなる名目に成り下がるということを。それは暗くくすんだ惑星のようなもの で、恒星のように自ら光輝くこともなければ、軌道の位置取りが悪いため恒星の光を反射 して輝くこともない(Defoe,[1890]2006:5)。
デフォーはその成長過程での然るべき教育の有無が生得ジェントルマンのその後の人生 をどれだけ違ったものにするかについて述べる。学識を身につけた生得ジェントルマンは、
成長して国政に携わり、君主や国民をたすけて国家の誉れとなる。他方で、学識を欠く生 得ジェントルマンは、長じて国政に携わることもなく、「快楽に耽り、その存在する意義と はあたかも家名を後代に引き継ぐことのみであるかのようである。その青春は放蕩と怠惰 と安逸の中に過ぎ去り、無思慮と浮かれ騒ぎと放蕩のうちに老いていく。後にはこの同じ 虚ろな生を繰り返すためだけの財産を残すのみ」(Defoe,[1890]2006:8)である。さらに デフォーは、ジェントルマンとして生まれたものは、教育をむしろ忌避すべきであるとの 風潮が蔓延していることを痛罵する。無学であることは不幸なことであるのに、それを自 ら選択することは愚であり、ましてや無学を誇るなどということは極悪の極みであった
(Defoe,[1890]2006:238)。それはデフォーにしてみれば、まったくの謬論であった。
デフォーは、ジェントルマン層が今日の窮状にある原因についても、その教育の欠如を 第一の理由としている(10)。デフォーは今日の窮状へと至る原理を9つの段階に区切って推 論する。以下、デフォーの推論順にその要点(7つ)を示すとこのようになる(Defoe,
[1890]2006:176-177)。
1.学殖や教養がないため、貴族やジェントリ層は国政においてないがしろにされる 2.ために、御し易く愚鈍となり、軽んじられている現状に憤慨することがない 3.ために、そうした現状に馴致させられ、結果として自己の利益を毀損していく
4.けだし、その愚鈍や無学なことが今日の困窮の原因である
5.学識の欠如は奢侈を助長し、奢侈による窮状が堕落を招き、国家の自由を危うくする 6.無知は自制・倹約・廉直などの美徳を涵養せず、家計と国家にとっての無用物となる 7.無知は野卑の本性を暴露して宮廷や議会の物笑いとなり、都合よく政治に利用される
上記にもあるように、デフォーにとって、こうした無知で無学な生得ジェントルマンは 社会に奢侈を蔓延させる元凶である。ジェントルマンが奢侈を蔓延させる原因は二重であ る。ひとつは自らの経済生活を管理する能力や関心がないことからジェントルマン層の生 活は放恣となり奢侈に流れることであり、もうひとつはジェントルマン層の行為が社会的 な模範であり、下の諸階層の人々がそれを模倣することで社会全体に奢侈の風潮が拡大す ることである(11)。デフォーはジェントルマン層が自己の生活や資産の管理に無頓着である ことを、勉学をないがしろにすることに次ぐ謬見であるとしてこう糾弾する。すなわち、
ジェントルマンは生活の収支を管理することを身分に不相応な仕事とみなすという、ば かげた、しかしときには致命的ともなる考え違いを犯しており、地所の賃貸や収入の管理 など、つまりは自己の資産管理の仕事を蔑視している。なんと悲惨な自負であろうか。貧 窮と不面目とに陥ること間違いなしである。(Defoe,[1890]2006:244-245)。
続けて、デフォーは、もちろん程度は家々においてまちまちであろうとの前置きをしつつ も、こうした無思慮な風潮が一般的であることはジェントルマン層の奢侈が顕著であると いう事実から確かめられるとしている。当世のジェントルマン家庭には「流行の奢侈品を 求めて濫費するため、金のかかる生活」(Defoe,[1890]2006:245)が普通となっている。
デフォーによれば、こうした奢侈的な生活をしてその収支を顧みることがないという事実 が、彼らに家計の管理能力が欠如していることを証しているということになる。
では、ジェントルマン層の奢侈的な生活とは、どのようにして始まったのであろうか。
デフォーは奢侈が蔓延してきた経緯を振り返っている。
デフォーは『レビュー』誌において、奢侈の始まりを「ジェントリの致命的な過ちの元」
(Defoe,
[1704-13b]2003-7:59(3))であるという。その奢侈的な慣習の始まりは、ヘンリ
ー7
世である。ヘンリー7
世は貴族やジェントリの特権を剥奪したり、自由や憲章を侵した りすることなく、ただ宮廷の姿(在り方)を華美で奢侈的なものに刷新してみせることで、結 果 と し て 彼 ら の 生 活 か ら 壮 麗 さ を 剥 奪 す る こ と に 成 功 し た の で あ る (
Defoe
,[1704-13b]2003-7: 59-60(3))。このヘンリー7
世の策略の成果は、その子ヘンリー8世の時代に結実することとなる。ヘンリー8世もその父に倣い、豪奢な宮廷の風潮を一層徹底化さ せていった。貴族とジェントリは恒常的に金のかかる生活様式を余儀なくされていき、勢 力を削がれた貴族とジェントリは、その俸禄や領地や官職を安泰とする必要から国王に完 全に従属することとなった。高慢なイングランド貴族を抑える唯一の方策は彼らを貧しく することであるということが、ヘンリー7世の策略の原理であった。ただし、国王が自ら武 力によってそれを行なうのではなく、餌をちらつかせて貴族自身がそうなるように仕向け ることが肝要であった(Defoe,[1704-13b]2003-7:63(3))。
貴族による濫費は経済を活発化することとなった。従来は軍事に費やされていた資金が、
いまや衣服や調度品や玩具など、くだらないものに向けられるようになった。その結果、
これら奢侈的な商品を取引する業種などが拡大した(Defoe,[1704-13b]2003-7:63(3))。
奢侈的な慣習の導入は、当初、外見には社会的な変化をもたらさないかに見えた。という のも、貴族の莫大な支出は旧来と同様に経済を潤していたし、ジェントリの濫費は正規の やり方とは違うかたちではあるがその体裁を保つことができたからである。ただし、そう いう中でも社会的な変化は着実に進行していたのであり、それは経済の構図を奢侈的な性 質のものへと再構成することで、イングランド社会の階序の基盤を徐々に揺るがしていく こととなる。このデフォーの論理は、D.ヒュームによる『イングランド史』の記述を思わ せるものである。
ジェントリの奢侈とは社会の悪徳である。しかし、ひとたびこうした奢侈的な生活が定 着してしまうと、ジェントリの奢侈的な消費を抑制することは、経済に悪影響を及ぼすこ ととなる。デフォーの時代のイギリス社会は、もはやこの段階に入っていたのである。ジ ェントリの道徳的に有害な奢侈的消費は、経済論の観点からは有益なものである。デフォ ーは「生活様式を改善しようとすれば、必ずや経済活動を損なう。悪徳を矯正しようとす れば、経済が沈滞する」(Defoe,[1704-13b]2003-7:64(3))として
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世紀イギリスの社 会原理における二律背反を論じている。この道徳論と経済論との間の相反に直面して、デ フォーの出した建策は中庸の消費という提案であった(Defoe,[1704-13b]2003-7
:63-65(3))。
デフォーによると、今日のイングランド社会における害悪のすべては、事物がその中庸を 通り越して過度であるという点に尽きるという(Defoe,[1704-13b]2003-7:64(3))。宮廷 の華美や豪奢は今日あまりにもその度が過ぎている。さらにはそうした奢侈に過ぎる慣行 は、国民全体に拡大してしまっているとデフォーはいう。したがって、仮に今すべての奢 侈的消費を止めさせてしまうと、経済への悪影響が計り知れないものがある。国民の多く がその就業を社会的な虚栄の産業に依存している今、貧民の多くを飢えに直面させること となっても、なお奢侈という悪徳の抑制と維持とを推進する政策は、奢侈を放置する場合