• 検索結果がありません。

社会的行為としての消費

第4章  奢侈概念の変容と消費者概念の脱社会階層化

4.1.3.  社会的行為としての消費

4.1.3.1.  欲望操作と文教政策

  バークリは、社会における私益と公益の調和を重視する。この場合の調和とは、バーク リにとって、種々の私益が公益との整合性を保ちつつ、諸個人の利益にも適っているよう な状態のことを指している。公益がつねに優先概念であり、私益は公益に寄与する範囲内 においてのみ、その追求が許される。したがって、バークリにおける行為の道徳的基準と は、当該の行為が公益に対してどのような関係性をもつのかという点が問題となる。バー クリは「愛国者訓」という手稿の中で、「愛国者はその私益を公益の中に求めるものである。

悪人は公益よりも私益を優先する。愛国者は自分を全体の中の一部とみなすが、悪人は自 分自身がすべてであると考えるものである」(Berkeley,

[1750]1994: 562)と述べている。

  バークリのいう公益の中には、その中心に宗教的なものが存在する。バークリにとって は、宗教こそが社会秩序の安定性をもたらすための紐帯としての機能を果たすものである。

バークリは、その著作のいたるところで当代の不信心化の風潮を嘆きながら、宗教的なる ものの復権を説き続ける。それは、宗教が「政治体の諸部分あるいは諸器官を統合する中 心であり、連結するセメントである」(Berkeley,[1736]1994:493)からである。

バークリが『アルシフロン』その他で、マンデヴィルやシャフツベリに代表される学説 を批判したさいに用いた用語は、自由思想家というものであった。もちろん、バークリは、

自由そのものを否定するわけではない。宗教あるいは広く一般的な文化(制度)的な偏見 といったものをいっさい拒絶し、自身の狭隘な理知的思考のみを知識や行為の基準とする ような、いわば放埓な自由主義論者の立場をバークリは批判しているのである。バークリ の目には、こうした自由思想家とは、宗教や政府など、社会秩序の維持に寄与する根幹的 な諸制度を支える要件である諸個人の偏見という土台を覆しかねないものであり、社会秩 序の安定性を紊乱する危険な思想傾向と映ったのである(Caffentzis,2000:122)。

  バークリはこのように述べる。すなわち、

人間本性のうちには2つの部分がある。より基底的部分である感覚と情念、そしてよ り上等な部分である理性である。理性は人間特有のものであり、それ以外は他の獣類と 共通のものである。概して低級な部分のほうがはるかに強力であり、理知的思考の出発 点はつねにここである。両者がせめぎ合う状況の中、かりに宗教というかたちの天佑が もたらされなかったとしたら、理性はほぼ例外なく駆逐され、人間は情念の奴隷となろ う。それはまったくもって悲惨で不面目な隷属状態であるが、これこそまさに宗教蔑視 のもとに提起されている自由というものの帰結なのである(Berkeley,

[1713]1955

216)。

ここには、人間性というものにおける情念の強力さを等しく認めながらも、その社会凝集 力を弱める影響力については、それを社会的制度の次元で緩和しつつ利用していこうとす るマンデヴィルに対して、ロック的な人間性を踏襲するかたちで、理性および信心の統制 力に拠った情念の主体内的な統御の可能性を前提するバークリの議論的立場が表れており、

両者の人間モデルの違いが明瞭である。

本研究ではこうしたバークリの社会観を、神学的ホーリズムとして呼んでおきたいが、

それでは、諸個人が自分たちを全体の一部であると認識するようにするには、どのような 政策的な導きが要請されるのであろうか。バークリの政策的提言は、公共精神の涵養とい うことである。この公共精神の諸成員への普及手段として有益なのが、政府機関による、

文教分野への財政支出という公的消費である(5)

  バークリは、諸個人に公共精神を取り戻させようとすれば、まずは真の宗教心に感化さ れることが望ましいという(Berkeley,[1721]1994:332)。この目的のために効果的なの が、評判や名声を愛するという人々の自然的な感情を美徳や大度といった気高い信条へと 向かわせることである。こうした気高い信条というものは、立派な橋梁や彫刻、碑文など、

公共の優れたモニュメントによって、あるいはまた高等の教育機関の設立によっても、鼓 舞されるものであるとバークリは述べる。それゆえ、こうした文教的な方面への政策的な 支援策が、公共精神の涵養のためには必要とされる。高尚な芸術である建築・彫刻・絵画 などは、ただ公共空間を装飾するだけではなく、人々の考え方や生活様式にも影響を与え、

優れた考えを数多く生み出し、われ先にと立派な行為を行なうよう諸個人を促す効果があ るとバークリは述べている(

Berkeley

[1721]1994

333

)。たとえこうした支出のために 現在の財政が逼迫するとしても、のちには、新技術を開発し、大量の雇用を確保し、貨幣 の自国内流通を維持することが期待される(Berkeley,[1721]1994:333)。そうして、な によりもこうした文教分野への支出自体が、公共精神の体現的事例となり、かつその呼び

水ともなるというのである。ただし、バークリは、こうした公共目的のための支出の効果 に関しては、広く長期的な視野に立って評価する姿勢が必要であることを注意している。

  公共精神を涵養された諸個人は、その行為動機的な意味合いにおいて愛国者としての志 向性を有することとなり、それは趣味の洗練化や欲望の高尚化をもたらす。その結果、諸 個人はその私益の方向性をつねに公益との関係に照らして考慮することとなる。こうした 行為の傾向性は、当然に消費の場面にあっても発揮されることとなり、そうなると消費に まつわる愚行的要素は確実に抑制されるということになる。こうしたバークリの議論は、

それを消費論の見地から解釈するとき、文教政策を介した公的支出主導型のひとつの欲望

(趣味)の上向的開花論として理解することが可能である。

4.1.3.2.  消費者と貨幣

  バークリにとって、貨幣とは、つねに何らかの目的性に対する手段である。例えば、諸 個人との関係では、その欲望充足のための市場における購買力という手段として、また、

社会政策との関係では、経済活動を円滑にかつ活発にするための手段としてという具合に、

つねにその手段的な機能を果たすものにすぎない。人々の勤労のみが富の源泉であると考 えるバークリにとって、「貨幣は、それが勤勉を鼓舞し、よく人々を相互に他人の労働の成 果にあずからしめるかぎりでのみ、有用なのではなかろうか」(Berkeley,

1735-7=1971:

8(1))との認識は、論理として自然のことであった。

  バークリにしてみれば、人々は手段としての貨幣を求めるのであって、貨幣そのものを 最終的な目的として欲することは本来、無意味な行為である。しかるに、もし貨幣それ自 体を目的として取り違えるようなことがあれば、そのときには、いかにそのために貨幣流 通が盛んになろうとも、そこに勤労は伴わず、貨幣の追求はまったくのゲームと化してし まう(Berkeley,[1721]1994:323)。バークリによれば、こうした事態にイギリス社会が 実際に陥った出来事こそ、南海バブルの顛末であったということになる。貨幣を自己目的 として追求するような倒錯した事態は、南海バブルに明らかなように、必ずや公益を損な い、そうしたゲームの勝者でさえも、結局は社会的な混乱の悪影響を被ることで、損失を 避けられない。

  バークリは、「貨幣を自己目的と考えるなら、それへの欲望は無限ではないか。だが、貨 幣の諸目的自体は限定されたものではないか」(

Berkeley

1735-7

1971

134

2

))とし て、貨幣に対する欲望は無際限に増殖するものであることを指摘する。貨幣におけるその 根本的な手段性を見誤ってはならない所以である。バークリは、重要なことは貨幣の本質 を正しく理解することであるとして、このように問う。すなわち、

貨幣についての正しい概念をもつことが重要ではないか。そして、真正な貨幣観念と は、力能の権原であり、またそうした力能を記録したり移転したりするのに適した切符 ということではないか(Berkeley,1735-7=1971:199-200(3))。

  ここで、バークリのいう力能とは、別言すれば、それは行為の遂行力のことであり、あ るいは欲望の実現可能性ともいい得るものである。したがって、本当に重要なのは貨幣そ のものではなく、そこに付帯する力能という社会的な関係概念にまつわる行為的な影響力

(支配力)ということになる。バークリは『問いただす人』の中で、「人々の最終目的は力 能ではないだろうか。そして、貨幣以外の一切の事物を望みのままに手にすることができ る人があるとすれば、その人は貨幣を大切にするであろうか」(Berkeley,

1735-7=1971:

8(1))と述べている。貨幣とは、それを所有する個人に、この力能としての社会的影響力

を付与する手段ということになる。つまり、貨幣は、こうした力能を保持する切符である ゆえに有用性を獲得している社会関係的な記号である。

バークリは力能に関して、「力能とは行為に基づくものではないか。そして、行為とは欲 望や意志に従うものではないか」(Berkeley,1735-7=1971:9(1))と述べている。さら には、「貨幣は力能を付与し権利を記録するところの切符であるから、かかる力能は行為に 移されてはじめて役に立つのではないか」(Berkeley,1735-7=1971:225(3))とも述べ ており、こうしたバークリの言からは、力能という概念が行為との強い関連性をもつもの であることが分かる(6)。ここにも貨幣の本性とは、本来的な手段性という点にあるとのバ ークリの貨幣観が明確に示されている。貨幣とは行為との関係にあって、目的−手段関係 を構成するものであるという理解がそこにはある。

  このように、バークリの見る貨幣とは、力能の仮託体としての切符にすぎず、力能を表 徴するひとつの記号である。バークリが、いわゆる金属主義的な貨幣観から完全に自由で あった理由もここにある。

他人の勤労を支配する力能が、真の富ではないか。また、貨幣とは、実のところ、そ のような力能を移転したり記録したりするための切符あるいは表示のことではないか。

そして、その切符の素材がなんであるかというのは、それほど重大なことであろうか

(Berkeley,1735-7=1971:17(1))。

こう述べるバークリにとって、貨幣とは、他人の勤労(あるいは勤労の成果物をも含めて