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富の均衡論と消費者概念

第5章  経済学体系の成立と学知としての消費者概念の形成

5.1.3.  消費と社会秩序

5.1.3.2.  富の均衡論と消費者概念

  ここまでは、奢侈論との関連において、ステュアート体系の中により一般的な消費者概 念の形成を跡づけてきた。ステュアートによるこの消費者概念の形成については、もうひ とつ別の系論からもその成立の論拠を析出することができる。その系論とは、ステュアー ト体系にあって、独自の展開を見せる富の均衡論のことである。

  ステュアートの富の均衡論とは、その振動を通して諸個人間の平等化を促していく動態 的な過程についての議論である。その中にあって、たえず新たにこの振動をもたらす要因 は消費である。それは、「富の均衡の振動の本質的な特徴は、個々人のあいだにおける富の 相対的な割合の変化である。・・・・・・消費は、それゆえに、均衡の向きを変えさせる唯一の 事情である」(Steuart,[1767]1967=1998:330)とステュアート自身が述べるように、

諸個人の消費を通じた富の平準化の論理である。

  ところで、この富の均衡論とは、社会における実際的な富の平等の実現を意味するもの ではないことに注意する必要がある。それは、あくまでも平準化への方向性をもつ社会的 作用力ということであって、したがって、現実的には社会での富の格差が解消されること はなく、富裕層による奢侈的消費と貧困層による勤労という階層間の相互依存関係の図式 が霧散してしまうことはない。ステュアートは、むしろ絶対的平等なる状態の現実性を否 定してこう述べる。

事実としての絶対的平等なるものは、人間の社会にあてはめてみれば、不合理な想定で ある。倹約が蓄積をし、浪費が蕩尽をしてはいけないのであろうか。これらの相反する気 質は、それだけで、平等を維持するために最良の規制をただちに無効にしてしまうに十分 であるし、また、平等が一定の段階にまで進むと、それに代わって流通が生み出しうる限 りでの大きな不平等が実現せざるをえないのである」(Steuart,

[1767]1967=1998

334)。

それゆえ、富の均衡の振動とは、社会全体としての機構において、「奢侈が恒常的に維持さ れる道」(竹本,1995:38)を示すものであり、事実上の平等を機会として導くための方策 となるものである。ステュアートは進んで、奢侈には平等化の作用が付随することを指摘 する。というのも、「奢侈は不平等の結果ではありえても、決してその原因とはなりえない。

退蔵と吝嗇とは大きな財産を作るが、奢侈はそれを分散させて、平等を回復する」(Steuart,

[1767]1967=1998:296)からである。

竹本は、こうした奢侈的消費にまつわる平等化の作用を富の均衡の振動として提示した ステュアートの議論について、それを「階級の入れ替え論(社会的対流化論)」(竹本,

1993:

858)として把握する

10。それは、ステュアートが想定するように、勤労者は質素であり、

富裕で無為の人間は贅沢であることを仮定するならば、「富の均衡における変動は常に勤労 者にとって有利に、そして無為の消費者にとっては不利になる傾向をもっている」(Steuart,

[1767]1967=1998:376)ことに由来する論理的帰結である。富裕層と貧困層とは、奢侈

と勤労という相互依存の関係性におけるそれぞれの役回りをこなす中で、貨幣的消費の累 積的結果として、両者の経済的地位は富の均衡にあって徐々に逆転し始める。そうなると、

両者の役割もまた逆になって、奢侈の担い手は、新しく富を蓄え富裕になった諸個人が務 めることとなり、入れ替えに勤労者となった人々の奉仕に依存しつつ、その消費によって さらなる振動を生起させていく。この振動過程は無際限に展開していくのであるが、先述 のように、それを社会全体として眺める場合には、その担い手を交替させながら、富裕層 の奢侈と貧困層の勤労としての相互依存の関係を制度として成功裡に機能させていくので

あり、この過程が進行していく中の異なる時点のいつかで、社会の成員はそれぞれが“交 互に富裕に”なる機会的な可能性をもつのである(Steuart,[1767]1967=1998:475)。

  ステュアートは、こうした事実上の平等化の機制を円滑に機能させていくための鍵を、

社会全体における潜在的な有効需要に相応した勤労の創出という点に見る(Steuart,

[1767]1967=1998:335)。勤労の創出は、奢侈的消費というかたちで、富裕層での富の退

蔵を浪費として調整し、反対に貧困層での退蔵がその浪費の結果を再調整することになる。

ステュアートによれば、これこそが、「貧乏を防ぐにも、過大な富を防ぐにも、最も効果的 な方策である」(Steuart,[1767]1967=1998:335)ということになる。

したがって、富の均衡の振動というこの同じ過程はまた、社会の中流層の台頭を招来す る論理性を胚胎するものである。社会全体において、浪費と節倹とは調整し合うことによ り、社会階層間の経済的な格差はその幅を縮小する傾向を示すからである。平等化の作用 の中で、社会階層の上下は、ちょうど「井戸のなかの桶が、互いに擦れ違ってしまう前に 出会うのに似て」(Steuart,[1767]1967=1998:335)、その距離を縮め合うようになる。

近代市民社会の形成論理において、確かにその始まりにおける富者とは、おもに地主とし ての貴族階級であったといえる。地主階級の奢侈的消費が社会の有効需要の大部分を担っ ていたのである。しかし、市民社会の展開は、そのうちに内包されていた相互依存の論理 の制度がその反復性において諸個人の行為に対する規制力を強めていくにつれて、社会階 層間格差の縮小および階級間での富の均衡の逆転などの結果をもたらすこととなった。そ れはまた、奢侈と貨幣流通とが消費と結びつくことから、広く社会における奢侈的消費と 貨幣的消費との一般化が進行していくこととなった。J.-J.ギレンは、「地主貴族階級が漸進 的に、より一般的な消費者階級に混ざり合い、相互的欲望の制度的圧力の中でその階級的 役割を衰退させていくことになる」(Gislain,1999:179)と述べている。このような市民 社会の展開の中で、社会成員であるすべての諸個人が、勤労の対価としての貨幣稼得に励 み、欲望充足の場面では購買(貨幣的消費)としての貨幣使用を通じた有効需要の担い手 としての立場を獲得していくようになった。ステュアートによる富の均衡論は、こうした 諸個人について、彼らがその社会的役割において消費者と勤労者との立場を、その行為の 自由の帰結において社会階層の階梯を周流しながら、また同時に、その意図しない帰結と しては、そうした役割からそれに付帯する社会的地位などの諸属性との緊密な結びつきを ほどきながら、そのときどきにおいて担っている、その行為主体としての姿を浮き彫りに している。それゆえ、この富の均衡論の議論的文脈においても、ステュアート体系がその 論理の要請する整合性のうちに、より一般性をもった分析概念として、ひとつの社会的役 割を表象する消費者概念の成立を可能にするものであることが確認されるのである。