第5章 経済学体系の成立と学知としての消費者概念の形成
5.1.3. 消費と社会秩序
5.1.3.1. 奢侈的消費と消費者概念
奢侈の概念に関して、ステュアートはその語の『経済の原理』における定義を次のよう に与える。すなわち、
人間の労働または創意によって生産された物で、われわれの感覚や嗜好を満足させはす.......................................
るものの、われわれが満足に食べたり、十分に着たり、.........................
天候の不順にしっかり備えをする...............
のには必要でなく、また、われわれに傷害を与える恐れのあるすべてのことから身を守る........................................
のにも必要でもない物を消費すること.................
(Steuart,[1767]1967=1998:29)。
奢侈概念をこのように規定した後に続けて、ステュアートはその奢侈論の議論としての方 向性も明確に規定していく。そうすることによって、『経済の原理』が与えた定義内容の行 論上の適宜性を確定することを企図する。勤労社会における奢侈的な生活様式の自然的な
伸張を論証するステュアートは、その論理的帰結の有用性をめぐる議論が、奢侈の社会的 機能という点に限定して検討されるものであることをあらかじめ明示するため、その議論 の範囲を確認してこのように述べる。
私の主題は道徳論ではないのだから、奢侈..
という用語を政治的な意味以外には考える必 要がない。すなわち、仕事を生みだし、富者の需要を満たす者たちにパンを与える原理と 考えればすむのである。このような理由から私は、奢侈について、濫用とか官能的とか不 節制とかいう観念を表わすことのない、上の定義を選んだのである(Steuart,
[1767]1967
=1998:30)。
ステュアートが述べるように、奢侈とは、必需品の範疇には入らない余剰な勤労の産物 を消費することである。つまり、奢侈とは奢侈的な消費の行為を指している。そして、こ こでの消費とは、前出の相互的欲望が制度として確立された市場交換を通じての購買とい う貨幣的消費のことであることは、明らかであろう。というのも、ステュアートのいう奢 侈が、社会において仕事を生み出すことになるのは、その背景論理として、当然に相互的 欲望の機制が作用していることを前提としているからである。したがって、ステュアート が人々を奢侈的であると述べる場合には、それはつねに購買行為としての消費がその焦点 となっており、一方で、その購買対象である財については、少なくともそれが明確な必需 品とはみなせない限りにおいては、その品目は取り立てて問題とはならない。ステュアー トみずからが述べるように、奢侈への注目は、それが快楽の対象を調達するための行為で ある購買ということをステュアートが問題としたいがためである(Steuart,[1767]1967=
1998:282)。ステュアートが奢侈論として問題とするその中心的論点は、購買という消費
の行為が、諸個人の必要という行為動機の限度を超えて行なわれることの論証という点に 見出せる。それは、自由社会の人々の間に強固な相互的欲望の関係性を保持して、社会の 富裕化の道筋を示していくための体系である経済学にあって、その整合性をつなぎとめる ために必要なひとつの重要な論理環なのである。こうした奢侈論の議論的文脈を踏まえる ならば、「人は、虚栄や自負や見栄からでも、あるいは消費を促進するという政治的な意図 からでも、快楽に転換する恐れとか不節制に陥る傾向とかはなしに、きわめて奢侈的...にな りうる」(
Steuart
,[1767]1967
=1998
:283
)とするこの立言の意味するところも明瞭と なる。すなわち、自由な勤労社会では、奢侈的消費という購買の実現的契機が存在するこ とで、必要という欲望の許容量を、少なくともその可能性においては無限に超えて貨幣的 消費を助長・拡大していくことができる論理性が奢侈により担保されているということである。その上、この同じ奢侈的消費の過程は、必然的にそれに比例した貨幣の流通を伴う ことから、ステュアートから次のような言をも引き出すこととなる。
誰でも奢侈的になれば、われわれの理解するこの言葉の意味では、必ず勤労者にパンを 与え、競争と工業と農業とを必ず促進するのであり、またあらゆる奉仕に対する適当な等 価物の流通を必ず引き起こすだろう。この最後のものは自由を保障する女神であり、穏や かな依存関係の源泉であり、そして自由な社会の結合をもたらす適切なきずなでもある
(Steuart,[1767]1967=1998:282)。
この奢侈的消費の担い手は、有効需要を作り出し、貨幣の流通を促進させ、新たな就労 の機会を創出するという機能において、自由な勤労社会である近代市民社会にあっては、
その富裕化のための鍵を握っている。それでは、ステュアートの体系において、奢侈的消 費の担い手としては、どのような諸個人あるいは階級が想定されているのであろうか。小 林は、そのおもな担い手を、貨幣を保有する富者であると見る。例えば、『経済の原理』が 展開する近代社会の論理にあっては、その不可欠な因子として富者の存在を前提している 点を重視することで、この富者概念のうちにはフリー・ハンズである商品生産者をも含む点 を確認しながらも、やはりここでの奢侈とは生産者大衆のそれではないと結論づけている
(小林,1977:251-253)。小林によれば、ステュアートの体系が描出する近代社会の論理 とは、自由独立の商品生産者を主体とするところのその勤労を動力として、さらには富者 の奢侈を不可欠の誘因としながら展開していく構造をもつ。この論理の中では、生産者大 衆による奢侈は、誘因としては副次的であるにとどまらず、さらには勤労の誘因に対する 阻止的要因でさえあるとされる(小林,1977:257)。ステュアート自身が為政者の役目と して、とりわけ、自国における「富者の消費性向、貧者の勤労の意向、さらには前者と後 者とにたいする流通貨幣の比率」(Steuart,[1767]1967=1998:341)につねに留意して おく必要性について述べたことを知るとき、確かに、この小林の主張は、首肯し得るもの であろう。
ただし、「貧者はいつまでも貧者ではない」(小林,1994:54-55)と小林も認めているよ うに、ステュアートの奢侈論は、その担い手としての可能性を貧困層である勤労大衆に見 出す議論を排除するものではない(7)。勤労階層である大衆の中からも、その勤労の対価で ある貨幣としての等価物を保有することから、もとは富者の欲望の対象として考案した奢 侈的な諸財を次第に自分自身の欲望の対象としていく者たちが現われる。さらに詳言する ならば、それは、社会的に下層に位置する諸個人が、その勤労者としての側面において、
貨幣稼得というその貪欲や野心から案出した奢侈的な諸財を、今度は、その消費者として の側面において、虚栄や自負や見栄といった社会的な必要に由来する競争心に促されて消 費を行なう中で貨幣を手放していくという貨幣流通をめぐる繰り返しの過程にあって、身 分制の社会的階序を上向していく諸個人の姿を表わすものである(8)。この勤労大衆層によ る有効需要の形成論理を見ていく場合には、その奢侈論との関係において、もうひとつの 論点として、ステュアートによる必需概念の定義づけのもつ消費論的意義についても検討 する必要がある。次にそれを見ていこう。
ステュアートは、必需の概念を
2
つに区分して、それぞれを生理的必要物と政治的必要 物と呼ぶ。このうちまず生理的必要物については、「生理的必要物の観念を伝えるものは、余剰なものを少しも含まない程度の................
、十分な生活資料.......
である」(Steuart,[1767]1967=
1998
:283)と規定している。この状態は余分な財の享受を少しも含まない水準の生活にお いては最高の段階であって、それは、最低限の生存水準にあることを意味していないこと に注意しなければならない。次に政治的必要物については、それは諸個人が置かれている 社会的関係性、あるいは文化や教育などの水準といった規定要因に基づいてその内容が決 定されるもので、当該個人の身分と密接な関連性をもつ。換言するならば、この政治的必 要物とは、ステュアートなりの消費の対人効果についての言述として理解できる。ステュ アートの説明を引けばこのようである。すなわち、人間の本性はその欠乏との関連でみずからになんらかの欲求を起こさせる。その欠乏は 人間の生理的な仕組みから生じるものではないが、その効果についてみればそうした場合 とまったく同じである。欲求は人間の精神の作用から生じ、習慣と教育によって形成され るのであるが、ひとたび通例化してしまう........
と、別種の必要を生みだすのであり、区別する ために私はそれを政治的なもの......
と呼ぶ。/この政治的必要.....
は、その対象として、ある種の 生理的に贅沢な.......
品目を有しており、これがいわゆる社会的な身分..
に差をつけるのである
(Steuart,[1767]1967=1998:284)。
ステュアートによれば、諸個人の身分(意識)とは、その出生や教育や習慣により決ま るものである(Steuart,
[1767]1967=1998:284)。そして、ある個人の政治的必要物は、
その身分に見合う(もしくは保つに)分相応なもの、あるいはその向上志向性に照らして 世間一般の是認が得られる程度での穏当な上級さを示すものから構成されるはずのもので、
その必要の基準は一般的な世論によってのみ決定されるため、そこになんらかの厳密な境 界線を引くことは不可能であるということになる(Steuart,[1767]1967=1998:285)。