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第 3 章 農業経営の変容と所得分配への影響:山西省パネルデータによる考察

第 1 節 本章の分析課題

中国の急速な経済発展は都市部のみならず、農村部の社会経済構造に対しても大きな変 容をもたらしている。かつては農業生産が中心であった農村部においても、非農業部門の 躍進によって農外就業機会が増大し、沿海地域や都市部への労働移動も年々、増加の一途 を辿っている。このような農村の就業構造の変化は、農家の農業経営のあり方や家計内の 労働資源配分に変容をもたらしている。

農村部では農家内の基幹労働力の農外労働への就業と、それに伴う農外収入を主とする 兼業農家の増加、そして農外就業機会のある世帯とそれ以外の世帯との間の所得格差の拡 大といった現象がみられる。1996年末に実施された第1回農業センサスによると、全農村 世帯のうちの約4割が兼業農家と非農業戸によって占められるなど、農家の兼業化は着実 に進行している(全国農業普査弁公室2000)1

そして、序章で議論したように、農業の構造調整を推し進めるためには、生産性が相対 的に劣る農家や農業労働者の農業部門からの退出を促進することが不可欠である。この農 家による非農業への就業において重要な役割を果たしているのが、教育投資による労働の 再配分効果である。この教育の労働再配分効果を理論的かつ実証的に分析した代表的な研 究としては、Fafchamps and Quisumbing(1999)が挙げられる。また、大塚・黒崎編(2003)

では、途上国における教育と経済発展との関係について、様々な地域のミクロデータを利 用して実証する。他方、中国農村を対象とした実証研究としても、Jamison and der Gaag

(1987)、Wu and Meng(1997)、Yang(1997)、趙(1997)、寳劔(2000)、Zhang et al.(2002)、

Yang(2004)、南・牧野・羅(2008)など、数多くの研究が積み重ねられてきた。

これらに農村・農家調査に基づく実証研究によると、中国では農家の非農業就業機会の 獲得において、教育水準などに代表される人的資本の蓄積が大きく影響していることが指 摘されている。また、人的資本投資は農業の生産性に対して直接的な影響を持つのではな く、むしろ農業部門から非農業部門への労働再配分を促進する効果を持っているというこ とも明らかにされている。したがって人的資本投資は、農業部門から離れ、経済的に恵ま れる非農業部門に就業する蓋然性を高め、世帯の厚生水準を引き上げる機能を果たしてい

11回農業センサスでは、兼業農家は「農業兼業戸」と「非農業兼業戸」の2つの世帯から構成される。前者 は「主たる職業が農業である世帯構成員が非農業就業世帯員より多い世帯」で、後者は「主たる職業が農業で ある世帯構成員が非農業就業世帯員より少ない世帯」のことである。また、「非農業戸」とは、「世帯構成員 全員の主たる職業が非農業である農村世帯」のことである。

ると考えられる。

その一方で、農家による非農業就業と農業経営類型(専業農家、兼業農家)との関連に ついて、中国を対象に実証分析を行った研究はそれほど多くない。史(2000)と史・黄(2001)

では、山西省と浙江省の固定観察点調査と呼ばれる農家パネルデータに基づき、農業経営 の面では収益性の高い農作物への転作が進展していること、農家自営業全体としては収益 性が相対的に低い農業経営から、非農業(工業、輸送業、サービス業など)へのシフトが 進展していることを統計的に示した。馬(2001)では四川省の固定観察点調査データ(1986、

90、93、96年)を利用してフロンティア農業生産関数を推計した結果、農家の兼業化が農 業生産の技術的効率性に有意な負の効果をもたらしていることを実証した。またGlauben et

al.(2008)も、浙江省の固定観察調査点データ(1986~2002 年)を利用して、家族労働の農

外就業の有無と農業労働者の雇用の有無で農家を 4 つのグループに分類し、多項ロジッ ト・モデルの推計でよって決定要因を明らかにしている。

さらに池上(2005)では、2時点(1990年代前半と2000年代前半)の農家パネルデータ

(内陸地域の平均的な4ヵ村)を利用して、経営面積規模でみた農家階層間の変動を考察 するとともに、階層間での農産物の単位収量や農産物販売収入の違い、そして農業経営の 満足度や規模拡大意欲の差について検証する。本分析の結果、1990年代には世帯員数の増 減に応じた経営面積の周期的な変動という意味でのチャヤノフ的な農民層分解に近い状況 がみられること、全体として階層間における土地生産性や農業経営の性格面での差異は認 められないこと、農家全般的に農業経営規模の現状維持傾向が強まっていて、とりわけ最 下層の農家では自家農業に対する依存度が急速に薄れており、一種の農業離れの傾向がみ られることが示された。

ただし池上(2005)を除く上記の研究では、農家の農業経営類型の変化について、パネ ルデータの利点を利用した分析(固定効果分析や遷移表分析など)が行われていない。ま た、農家の非農業就業が農家所得や農業経営のあり方にどのような影響をもたらすのかと いう点についても分析が不足している。その一方で、教育投資の労働再配分効果は、人的 資本の低い労働者の農業部門での滞留という現象を引き起こすことが考えられる。また、

農作業の熟練という人的資本を体化した中高年者にとって、非農業部門への就業や離農は 大きな機会費用を伴う。そのため、中高齢者は非農業就業に消極的となり、農業就業者の 高齢化に繋がることが指摘されている(速水・神門2002: 21頁)。したがって、農家の属 性(教育水準、年齢、社会的ネットワークなど)の農業経営類型への影響についても、定 量的な分析が必要である。

そこで本章では、中国の農家に関する非農業就業に焦点をあて、専業農家から兼業農家 への農業経営類型の変容を考察し、その経営類型間の移動・選択を規定する要因を計量的 に解明することを主たる研究課題とする。その際、教育投資と農業生産要素(農地、農業 資本)の効果に注目し、教育投資の労働再配分機能と農業生産要素の非農業就業への抑制

効果を中心に分析を進めていく。

他方、所得格差に関する既存研究によると、郷鎮企業への就業による賃金所得や出稼ぎ による送金収入など非農業就業からの所得は、中国における農村内部の所得格差の主要な 要因となっていることが指摘されている2。ただし、クズネッツの逆 U 字仮説などで主張 されているように、所得水準の向上と所得格差には、必ずしも一貫した正の相関があるわ けではない。非農業就業機会の拡大に伴う余剰労働力の喪失や農工間賃金格差の解消、あ るいは農業産業化を通じた農業生産性の向上によって、所得分配の不平等度が改善される ことも考えられる。その意味で、所得分配の時系列的な推移を考察する際には、不平等度 の指標を推計するにとどまらず、所得格差の要因や農家が直面する経済環境と合わせて議 論する必要がある。

また、中国農村の所得格差に関する既存研究は、中国全体や省などマクロレベルの分析 が中心で、行政村レベルに焦点をあて、所得格差の時系列的推移を考察した研究は非常に 限定的である。そこで本章では、中共中央政策研究室・農業部農村固定観察点弁公室が実 施する行政村・農村世帯の定点観測調査である「固定観察点調査」をもとに、京都大学、

一橋大学、中国農業部農村経済研究センターの共同研究によって作成されたMHTS(Minor sets of High-quality Time Series)パネルデータを利用する(辻井ほか編2005)。

MHTSパネルデータとは、固定観察点調査の対象地域である約300の調査村(調査世帯 数は毎年2~3万世帯)から、世帯数が全調査世帯数の約20%になるよう、54の調査村に 所属する調査対象農家すべてを抽出し、パネルデータ化したものである3。MHTSパネルデ

ータは、1986~2001年という比較的長い期間にわたる農家データが利用可能であり、村内

の所得格差を分析するうえで極めて有用な情報である。本章では、MHTSパネルデータの なかから山西省の4つの行政村を選択し、農業経営類型の移動を規定する要因を明らかに する。さらに、村内の所得格差に関する所得源泉別の要因分解を行うことで、賃金所得や 自営非農業純収入といった非農業所得が農家所得の不平等に対して与える影響を定量的に 計測する。

本章の構成としては、第2節で利用するデータと調査対象地域の概況について説明する。

続く第3節では、農村世帯の農業経営類型に焦点をあて、その変遷パターンと開放性を定 量的に考察するとともに、農家の農業労働供給関数の推計を行う。さらに第4節では、所

2その一例として、全国レベルの農家調査(CHIP調査)を利用したGriffin and Zhao eds. (1993)、Riskin, Zhao and Li eds.(2001)、趙・Griffin主編(1994)、趙・李・Riskin主編(1999)という一連の研究や、CHIP調査よる分析 をベースに中国の所得格差の問題を都市と農村との関係から分析した佐藤(2003)、国家統計局の城鎮住戸調 査と農村住戸調査の双方を利用して所得格差の全国推計を行ったWorld Bank (1997)などがある。CHIP調査の概 要については、本論文第6章、Riskin, Zhao and Li eds.(2001)、寳劔(2004)、Gustafsson, Li and Sicular eds (2008) を参照されたい。

3固定観察点調査とMHTSパネルデータの概要については、辻井ほか編(2005)を参照されたい。なお、1992 年と1994年には調査自体が実施されなかったため、当該年度のデータは欠損となっている。また、中国国内で 実施される他の統計調査と比較した固定観察点調査、およびMHTSパネルデータの特徴については、寳劔

2004)に詳しい。