(23)〔…〕4/17 朴泰遠과 鄭芝溶과 安懷南과 金起林을 모두 만났다. 朴泰遠君의 談話와 安懷南君의 沈默이며, 鄭芝溶君의 辯과 金起林君의 꼬집는 말이 좋은 敵手였다. 文壇會合으로는 몇 해 만이었다. 愉快히 罷했다.〔…〕
〔…〕4/17 朴泰遠、 鄭チョン芝・ ジ溶ヨ ン、安懐南、金キ ム起・ ギ林リ ムの四人に会った。朴泰遠君の談話と安懐南君の沈黙、
鄭芝溶君の弁と金起林君の皮肉がよい相手どうしであった。文壇会合としては数年ぶりであった。愉快 に終えて別れた。〔…〕231
また中国朝鮮族の革命家・作家である金キ ム・ハク学チョル鉄が
1989
年に受けたインタビューを記録し た以下の文章の中にも安懐南の名前が見られるが、上と同様の和やかな生活を送る彼の様 子が回想されていることが分かる。(24)〔…〕日本で解放〔終戦〕を迎えて長崎からソウルに帰って、そこに1年間いたんですよ。私ね、ソ ウルにいたころ大学病院の小児科に入院したんですよ。なぜかというと、その小児科の科長が、南労働 党の党員なんですよ。李イ ・ビョン炳男ナ ム(1914~?)、彼は後に北に行って保健大臣になったんだ。その人がいた 関係で小児科に入院したわけです。北にいた妹を読んで2人で入院したんですよ。そこで小説を書いた んだ。そこが私の本拠になったわけです。多くの人がその小児科に訪ねてきた。たくさんの人にそこで 会ったんだ。〔…〕その時、私と会った人はほとんど粛清された。李泰俊、李イ ・ウォン源朝ジ ョ(1904~55 文学評 論家。解放直後、38 度線を越えて北に入って労働党中央委員会宣伝・煽動部副部長をしていたがアメ リカのスパイとして処断された)、金キム・南ナ ムチョン天(1911~55? 小説家。文学評論家。朝鮮プロレタリア芸術 同盟に加担。解放後、越北するも失脚)、韓ハ ン・ヒョ暁(1912~? 文学評論家。朝鮮プロレタリア芸術同盟中 央委員。解放後、越北するも失脚)、安ア ン懐・ ヘ南ナ ム(1910~? 小説家。解放直後、越北)ら、皆そう。彼ら とスキヤキをつつきながら雑誌社主宰の座談会をやったこともある。コーヒー店で会をやったこともあ る。林和夫人、池河蓮と知り合ったのもその会で。〔…〕232
231 이병기(1966)“가람문선”신구문화사(李秉岐(1966)“嘉藍文選”新丘文化社)p.148。「嘉カ藍ラ ム」 は李秉岐の号である。
232 大村益夫(2003)『中国朝鮮族文学の歴史と展開』緑蔭書房 pp.381~382。引用中のルビと( )は 全て原文ママである。なお、池チ ・河ハ リ蓮ョ ン(1912~1960?「池河連」とも書く)は植民地期末期から戦後にかけ て活躍した女流作家で、林和の妻となった人物としても知られている。
92
‘農民の悲哀’発表後、同年の
1948
年に安懐南はいわゆる「越北」をしたと見られる。その時期は
8
月頃と推定されているのみで具体的には判明していない。彼は当初、朝鮮文 学家同盟のメンバーの中で先に「越北」していった左翼系の文人たちを批判していた。し かし南北朝鮮諸政党社会団体指導者協議会の南側の代議員を選ぶ南朝鮮人民代表者大会に 出席するため北に渡っている途中で8
月15
日に大韓民国の単独政府が樹立し、南側では今 後意のままに文学活動ができなくなったと考えて、やむを得ず北側に留まることになった のだと見られている。その後9
月9
日に建国された朝鮮民主主義人民共和国において、当 初安懐南はたいへんな厚遇を受けて過ごしていたという。さらには北朝鮮の国会に当たる 最高人民会議の代議員となり、‘雪の上に足跡が’など三つの短編を“朝鮮女性”1950年4
月号に発表したとされる233。その後彼は朝鮮戦争中に従軍作家として一度ソウルに現れて いる。この時に安懐南に会ったのが白鉄で、強制労働を免れるために朝鮮文学家同盟の身 分証が欲しいと彼が頼んだところ、安懐南は快諾してくれたのだという。朝鮮戦争後の安懐南の経歴もほとんどが不明である。平壌の文学芸術出版社から出され た“文化芸術”やその後身の“朝鮮文学”の目次に
1961
年まで名前があるのを確認でき、さらに
1963
年出版の“1962文学作品年鑑”にも名前が見られることから234、「越北」以後 も長きに渡って作家活動を続けていたと言ってよいであろう。ただし政府機関紙“民主朝 鮮”の文化部長を務めたものの、1954年に北朝鮮政府による取り締まりを受けたという説 があり、また1966
年には「思想検討会」による取り締まりを受けたという説、アルコール 中毒者となり酒に酔って婦女に襲いかかるという事件を起こし「執筆禁止」命令を受けた という説もあるが、いずれも信憑性に欠けるものである。彼は既に死亡しているとされて いるが、死亡した年月日についても全く分かっていない。遺族が北朝鮮に生存していると233 原文は未確認である。
234 1949年の“文学芸術”第2巻第10号 に‘ソ連及び人民民主主義国家文学芸術の鑑賞(四) ベ・ゲ
ルババエブ〔베・게르바바예부、ロシア語か〕の第一歩’という評論を寄せている他、“朝鮮文学”1956 年9月号に‘絹織工の歌’という詩、同誌の1958年11月号、1961年5月号、1961年9月号にそれぞれ
‘水路工の話’、‘シャベル’、‘安全技師と職場長’という小説を掲載している(参照したのは대훈닷컴 편
(2005)“원전 조선문학 목차집 상”대훈서적(大訓ドットコム 編(2005)“原典 朝鮮文学 目次集 上”
大訓書籍)p.204、309 と대훈닷컴 편(2005)“원전 조선문학 목차집 중”대훈서적(大訓ドットコム 編
(2005)“原典 朝鮮文学 目次集 中”大訓書籍)p.42、122、133)。また、“1962文学作品年鑑”の巻末 に付された「1962年度文学作品主要目録」にも6月8日付の“文学新聞”に‘注油工’という小説を書い たことが記されている(정서촌 외 편(1963)“1962 문학 예술 년감”조선 문학 예술 총동맹 출판사(チ ョン・ソチョンほか 編(1963)“1962文学芸術年鑑”朝鮮文学芸術総同盟出版社)p.354)。いずれも本文 は未確認であるが、各作品の題名から察してどれも北朝鮮政府の政策や思想に沿った内容のものと推測で きよう。
93
も言われているが235、これも筆者はまだ確認できていない情報である。
1. 4 1930
年代安懐南小説の作品分類ここでは本章の最後に、第
3
章以降から分析する安懐南の1930
年代の各小説群をどのよ うに分類すべきかについて論じる。まず韓国の諸先行研究で行われてきた主な分類方法を 一つずつ概観した後で、安懐南自身が自らの作品をどのように分類・区分・整理していた のかに関して植民地期の文章を中心に幾つか取り上げる。そしてそれらの見解を基にし、本論文で行うことにする筆者なりの作品分類方法を定めることにしたい。
1930
年代初頭の登壇から戦後の1940
年代後半に至るまでの安懐南の小説群を分類する ことは決して容易な作業ではない。終戦を機に明確な境界線が引かれることは間違いない が、前章で述べた通り1930
年代後半以降はそれまでの身辺小説に加えて一連の本格小説群 が登場し始める時期である。そしてこの時期の各小説を両者のどちらに分類すべきかの判 断は、はっきりとした客観的基準がないために非常に困難な作業とならざるを得ない。こ の問題点を主要な論点として、最近の韓国の先行研究においても幾つかの意見対立や、研 究者ごとに異なる用語使用が見られるようである。比較的早い時期になされた作品分類としては序論でも取り上げたキム・ユンシク(1976)
による四段階の分類方法を挙げることができる。本先行研究によると第一段階は「植民地 期のいわゆる身辺小説に該当」する「自意識の側面」の強い作品群であり、第二段階は「終 戦直後のいわゆる徴用小説」で、代表作として‘火’がある。第三段階は‘暴風の歴史’
であり、「徴用小説」群の多くとは違い三人称の語り手の視点を採用することで、「ある程 度作品の要件を満たす」ことが可能となり、最後に第四段階の‘農民の悲哀’では「様々 な意味で問題」を抱えながらも「ノロ鹿の象徴性」に作家の卓越した技量を垣間見ること ができるとしている236。だが先にも述べた通り、このような植民地期の身辺小説→戦後の
「徴用小説」→‘暴風の歴史’→‘農民の悲哀’という四段階の分類は、戦後の作品群に 重点が置かれたものであることが明らかであるため、本論文には参考になりにくい分類方 法である。
次の分類としてはイ・トククァ(1988)によるものがある。彼はまず植民地期の作品に
235 エミール・ガボリオ(2011)前掲書 の表紙裏の翻訳者(安懐南)略歴による。
236 キム・ユンシク(1976)前掲書、pp.147~148
94
ついて、登壇作である‘髪’(1931年2月)から‘瞑想’(1937年1月)までの小説を「家族の 物語、友人との交際、恋愛物語などの素材を描いて」いる身辺小説と定義した。その後
37
年からは作品が「素材の拡張」を見せ始め、‘その日の夜に起きたこと’(1938年4月)、‘機 械’(1939年6月)、‘闘鶏’(1939年7月)などの「リアリズム文学」が出現するようになった としている237。これは植民地期の安懐南小説を区分する最も典型的かつ代表的な見解と言 えるが、上の幾つかの作品以外のものについては本先行研究内で特に言及が見られないよ うである。次にピョン・チョンウォン(1994)のものがあるが、ここでは「安懐南の作品活動期間 を時代状況と作家意識の変化に従って
3
期に分け」ている。本先行研究によれば、「第1
期 は安懐南が「朝鮮日報」に処女作である〈髪〉を発表した1931
年2
月4
日から1944
年1
月28
日238までである。この時期は植民地期を生きる人物らの、現実に対する態度が描かれ ている。第2
期は作家の徴用体験を基にした小説集『火』が発表された時期であり、1946 年1
月~1947年1
月までである。〔…〕第3
期は安懐南が文盟〔朝鮮文学家同盟〕に加入後〈暴 風の歴史〉と〈農民の悲哀〉を発表した時期で1947
年2
月から1948
年4
月までである。この時期は戦後の混乱した現実の中で生きる人物らの生き方が描かれている」239。これは 上掲のキム・ユンシク(1976)よりもさらに単純化された作品分類であるため、やはり本 論文においては参考になりにくい見方である。
またユン・チェグン(1995b)は植民地期の諸作品を「前期の身辺小説」・「親知小説」・「親 人小説」、戦後の「徴用小説」群などを「後期の身辺小説」・「心境小説」・「知人小説」とし、
特に‘暴風の歴史’と‘農民の悲哀’については「理念小説」・「階級小説」とも命名して いる240。これらも用語は異なるが、上のピョン・チョンウォン(1994)に近い分類方法で あると見てよい。
これらに比べてイ・カンオン(1999)は独特な分類方法を提示しているほうと言える。
彼はそれ以前の各見解を紹介する形で議論を進めているが、それによると第一に「1931年 の登壇から
8・15
まで一貫して身辺の私事に依存する(매달리는)作品を書いていたが、終 戦とともに一変して現実に対する告発と批判を階級意識を用いて描いていった」と見る見237 イ・トククァ(1988)前掲書、pp.105~107
238 この日が安懐南にとってどのような日に当たるのかは不明確であり、本先行研究内でも特に言及がなさ れていない。
239 ピョン・チョンウォン(1994)前掲書、pp.192~193
240 ユン・チェグン(1995b)前掲書、pp.344~345、359~360。「親知」や「親人」とは「親しい知り合 い」、「親しい友人」のような意味で用いられていると思われる。