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また此処に遊びに来い 私は―お前らに話がある のだ

たった一つ秘密に教えてやることが あるのだ

小山の上に立ち

この漂浪人は新聞を手に待っ ていよう141

1933

1

月に安懐南は文芸雑誌社である開ケ ビョ ク社に入社し“第一線”、“別乾坤”といった 文芸雑誌の編集に携わる傍ら、作家活動も継続していった。そして

1935

5

月には四歳年 下の鄭チョン・オクキョン卿という女性と結婚する。彼女も京城育ちで初めて会ったのは

1932

年の夏であ り142、安懐南の言葉によると二人は見合いによる結婚ではなく、父方の祖母が反対するの を押し切って恋愛結婚をしたのだという143。翌年の

2

9

日には長男秉ピョンフ ィが生まれた。正

141 안회남(1930)‘동산우에서서’“조선일보”(安懐南(1930)‘小山の上に立ち’“朝鮮日報”)

1930119日付。改行は原文ママである。安懐南の詩作品に関する詳細な分析・考察は筆者の今後の 研究課題であるが、現在本文を確認しているものを全て挙げると、以下のようになる。

‘동산우에서서’“조선일보”(‘小山の上に立ち’“朝鮮日報”)前掲書

‘센티멘탈리스트의客言’“조선일보”(‘センチメンタリストの喀言’“朝鮮日報”)1931320 日付

‘義妹―乙男이에게주는―’“동광”동광사(‘義妹―乙男へ贈る―’“東光”東光社)21号 19315 月 p.90

‘義妹에게푸는詩’“매일신보”(‘義妹へ贈る詩’“毎日申報”)1932410日付

‘偶吟短章―쓸데업는詩몃개―’“매일신보”(‘偶吟短章―無用な詩数個―’“毎日申報”)19325 1日付

‘사랑하는마음(詩四篇)’“매일신보”(‘愛する心(詩四編)’“毎日申報”)193264日付

‘結婚式(外二篇)’“매일신보”(‘結婚式(他二編)’“毎日申報”)19321225日付

‘겨울’“조선일보”(‘冬’“朝鮮日報”)19361112日付

‘自嘲’“조선일보”(‘自嘲’“朝鮮日報”)19361113日付

‘傲慢한놈’“춘추”조선춘추사(‘傲慢な奴’“春秋”朝鮮春秋社)34号 19434

‘동무와함께’“자유신문”자유신문사(‘友とともに’“自由新聞”自由新聞社)1946211日付 三つ目の‘義妹へ贈る詩’の「贈る」の部分は原文では「푸는」(すくい取る、あるいは解く、ほどく 意)となっているが、この詩が二つ目の‘義妹―乙男へ贈る―’とほぼ同一の内容であることを考えれば、

これは「주는」(直訳、与える、やる)の誤りではないかと推測される。安懐南の詩作品に対してはユン・

チェグン(1995b)前掲書、pp.334~335 などを除き、これまでほとんど言及が見られないため、今後一 層の研究の俟たれる分野だと言えよう。

142 안회남(1933)‘春宵의로만스 봄밤과處女’“신동아”(安懐南(1933)‘春宵のロマンス 春の夜 と少女’“新東亜”)318号 19334月 p.112

143 안회남(1933)‘寒夜月’“신동아”(安懐南(1933)‘寒夜月’“新東亜”326号 193312月 p.148

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確な日付は不明だが安懐南は長男の出生と前後して開闢社を辞め、朝鮮人資本による初の 百貨店である和フ ァシ ン百貨店系列の商社に再就職している144。しかし同年にはこの会社も辞職 してしまい145、新聞社を回り自分の書いた原稿を売りながら146以後は専ら文筆業によって のみ一家の生計を立てていった。後述するように、この

1933

年頃から

1937

年初頭にかけ ての期間を安懐南の

1930

年代小説作品のうち、身辺小説の前半期に当たる期間として時代 区分することが可能である。

次に登壇以後

1937

年初頭までの期間における彼の文壇活動のうち、評論・随筆の分野に 関して整理してみることにしたい。安懐南の評論活動147は‘髪’の発表とほぼ同じ

1931

年 頃から始まったと見られる。1933年までに発表された彼の評論の特徴は朝鮮文壇の批判、

及び日本文壇の動向の紹介の二点に要約されよう。まず前者のほうであるが、例えば彼は

1932

10

月の‘文壇是耶非耶論’148において、今日の朝鮮文壇は「沈滞不振・混乱低調」

に、「両親に我々の恋愛を打ち明けて賛成を求めたところ、双方がほぼ承諾してくれたのだが、ただ祖母一 人だけが恋愛結婚反対を主張した。〔…〕祖母には全ての経済的手段が握られており、私の手は空っぽで彼 女の家もまた貧しいのだ」と語られていることから、安懐南の祖母は孫の結婚に際し、没落した家勢の回 復のためにも相手に経済的な豊かさを要求したことが予想される(安国善が既に故人であるため、「両親」、

「双方」とあるのは安懐南の母の李淑堂、及び鄭玉卿の父母の三名のことを指すと思われる)。その後、「結 婚の問題によって祖母と衝突し、母とともに「ユガクコル」〔유각골、地名か〕の一間を借り」て暮らして いた安懐南は、「ついに祖母の許しを得て結婚に成功し〔…〕家庭の問題の解決によって祖母の代から伝わ る若干の遺産を受け取ることとなった」(안회남(1939)‘謙虛―金裕貞傳―’“문장”(安懐南(1939)‘謙 虚―金裕貞伝―’“文章”19号 193910月 p.45、53)。そのため19371月に発表された‘瞑想’

では、「私は今祖母が別に持っていた家産によってさほど困窮しているわけではなくなった」と書かれてい る(‘瞑想’前掲書、p.339)

なお安懐南の結婚に関しては、“朝鮮文壇”誌に「安必承氏恋愛結婚」という小見出しで以下のように伝 えられている。

「良心的作家として評判のある安必承氏が五月、呂運享マ マ氏の司会の下で市内の天香園において結婚式を突 然盛大に挙行した。数日後、氏に会ったとある友人が、「かの婦人は以前に恋愛をしていたお方ですか、祖 母が強制結婚させようとしていたお方ですか」と尋ねたところ、安氏は笑みを浮かべつつ「その恋愛して いたお方ですよ」と答えたという。嗚呼愛の勝利者よ、そなたに幸福の訪れんことを。(筆者未詳)(193 5)‘朝鮮文壇新聞’“조선문단”(筆者未詳)(1935)‘朝鮮文壇ニュース’“朝鮮文壇”19358月号 p.177)

144「安懐南氏。和信地方係へ入社。同地方課長の朱チ ュ氏が詩人であるため社員も皆文人にするもよう。」

((筆者未詳)(1935)‘文壇消息’“조광”((筆者未詳)(1935)‘文壇消息’“朝光”))1 2号 193512月 p.132。「朱氏」は言論人・政治家・商工人などとしても活躍した詩人朱チ ュ耀・ ヨハ ンを指すと 推定される。ただし朱耀翰と安懐南との間に何らかの交友関係があったのか、あるいは他の者が職を探し ていた安懐南を彼に推薦してやったのかなどの点については不明である。

145「安懐南氏は和信を退職したもようで、文人としては豊かに暮らしていけないこの地における安氏の苦 衷が察せられる。だが和信を出たのは同時に、文学の道から逸れまいとする氏の情熱あってのことであろ う。逆境にありながらも朝鮮の文学のために力を尽くす氏に敬意を表す

る。」((筆者未詳)(1936)‘文壇消息’“조광”((筆者未詳)(1936)‘文壇消息’“朝光”)

26号 19366月 p.296)

146 안회남(1936)‘香氣’“조선문학”(安懐南(1936)‘香気’“朝鮮文学”)続刊第2集 1936 6月 p.49(後掲の引用(74)

147 以下、安懐南の登壇から1937年までの評論活動に関する内容は、主に拙稿(2012a)を基にして加筆 と修正を加えたものである。

148 안회남(1932)‘文壇是耶非耶論―新人이본旣成文壇―’“제일선”(安懐南(1932)‘文壇是耶非

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を極め、感動できる小説も評論もなく、「その大半が日本語出版物からそのまま「プリント」

してきたもので、作品といっても数編読んでみたところで前世紀の文芸理論の中を堂々巡 りしている」だけだとして痛烈に批判している。また新聞社の学芸部員であるという「某 氏」はその地位を利用して、「挿絵に詩に映画小説に「シナリオ」に随筆にと紙面を独り占 めし、片っ端から乱筆を振り回している」などとし、出版業界の「発表機関の独占「ギル ド」化」に対する不満も述べている。また安懐南の批判の矛先は金東仁や李光洙など、当 時既に「既成作家」あるいは「大家」と呼ばれていたベテラン作家に対しても向けられた。

金東仁に対しては‘凶作の文壇収穫’149においてその近作を幾つか挙げ、彼は作品を「構 成する力と主題を把握する態度」に欠けており、「平面的記述ないしは単純な筆記に流れ〔…〕

より動態的で立体的な表現を通じて〔作中人物の〕生活の中に入り込み、それに寄り添う描 写ができずに失敗し」ていると酷評している。また李光洙の歴史小説‘李舜臣’“東亜日報”

1931626日付~193243日付)に対しても、「この作は高水準のものとして我々が待 遇するには甚だ距離の遠い、興味本位の通俗小説で〔…〕小説と言うよりも一編の歴史的記 述、娯楽読み物に過ぎない」と述べて批判した150。それと同時に安懐南は自らと同世代の 新人にも、「「レベル」以下の小説でも前に幾つか発表した人ならば〔…〕すっかり大家然と している一方で、クズのような習作でも活字化すれば「俺が目下、彗星のように出現した 新進作家だ」と言って意地汚い欲を出している」者もいるなどとして嫌悪感を露わにして いる151

後者の評論に関しては‘日本文壇新興芸術派論考’152、‘日本文芸新興芸術派の代表的理 論’153として連載された文章が代表的である。これらを通じて安懐南は

1920

年代から

1930

年代初頭にかけての日本文壇の動向として、プロレタリア文学の勃興・成長と、それに対 抗する反マルクス主義的な新興芸術派の十三人倶楽部・新興芸術派倶楽部の台頭の過程に ついて概説した。その上で日本のプロレタリア文学作家らは「マルクス主義文学のイデオ

耶論―新人が見た既成文壇’“第一線”)210号 193210月 pp.93~99

149 안회남(1932)‘凶作의文壇収穫―一九三二年의朝鮮文壇總覽’“제일선”(安懐南(1932)‘凶作 の文壇収穫―一九三二年の朝鮮文壇総覧’“第一線”)212号 193212月 pp.104~112

150 안회남(1933)‘迷蒙文壇의回顧와展望―文壇은어듸로가나?’“매일신보”(‘迷蒙文壇の回顧と 展望―文壇はどこへ行く?’“毎日申報”)193315日付

151 안회남(1932)‘一九三二年가을의感想―庚一君에게주는글―’“매일신보”(安懐南(1932)‘一 九三二年秋の感想― 庚キョンイ ル君に送る文」『毎日申報』)19321013日付

152 안회남(1932)‘日本文壇新興藝術派論考―푸로派、旣成派와의對立―’“신동아”(安懐南(1932)

‘日本文壇新興芸術派論考―プロ〔プロレタリア文学〕派、既成派との対立―’“新東亜”214号 1932 12月 pp.70~73

153 안회남(1933)‘日本文藝新興藝術派의代表的理論’“신동아”(‘日本文芸新興芸術派の代表的理 論’“新東亜”)315号 19331月 pp.130~134