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初めに(45)ではこの評論を書いた目的について述べられている。安懐南にとって恋愛 とは決して蔑視することができず、してもならない「神聖な」価値を持つものであるが、

彼の目から見た最近の朝鮮の若者たちはダーウィンやフロイトといった先人らの言説や理 論をほとんど理解できないまま無条件に受け入れ、恋愛を単なる「性欲」、「放縦」、「玩具」

としてのみ捉えて軽薄な言動を繰り返している。こうした「嘆かわしい」若者たちを更正 するのが本評論の目的であるが、彼が「真の恋愛」とは何かについて説いているのが続く

(46)である。ここでも彼は西洋人の名前を幾つか挙げているが、これらの人物の経歴や 業績が本当にそうであったかはともかくとして、彼らは皆情熱的な恋愛を展開し、失恋し たとしてもその体験を後に文学や社会的事業の成功へと結びつけた偉人として取り上げら れている。こうした主張を根拠としてイ・ミヒャン(2001)は安懐南を個人的な恋愛以上 に共同体に対する献身的・利他的な恋愛を重視する「民族主義愛情観」を主張した人物の 一人として分類している327。しかし彼の「全世界の人類よりも私の恋人一人をより愛し、

より貴重なものに思」っているという前掲の発言、及び次の(47)の内容を見ればこの見 解が必ずしも正しくないことは明白である。

(47)において安懐南は朝鮮の若者らに対し、先人らの考えを生半可に吸収したり、それ に盲従したりするよりも、自分自身の恋愛体験により重きを置くべきことを訴えている。

そして自らの直接的な恋愛体験から得た「賢明な理知と強靭な意気と沸き立つ情熱」さえ あれば人は十分に「素晴らしき人物」となることができると述べられ、また「真の恋愛」

は「真の生活」をもたらし、「真の生活」が「常に素晴らしい人間」、即ち「真の人」へと 結びつくのだとも主張されている。個人個人が「真の恋愛」から「真の生活」を経て「真 の人」へと変貌を遂げることにより、その結果として付随的に優れた文学作品の創作や社 会的事業の成功といったものが伴ってくるというのが彼の主張であり、ここにおける安懐 南の視点は民族・国家・社会といったもの以上に個人に向けられていると言えよう。また

「真の恋愛」や「真の生活」といった語句の使用から判断して、彼の恋愛観は先の先行研 究概観で見た

1920

年代の同人誌文人らの恋愛観と極めて類似し、彼らから多大な影響を受 けていると見ることができる。

326‘青春と恋愛’前掲書、pp.85~86

327 イ・ミヒャン(2001)前掲書、p.63

143

1938

年の‘恋愛と結婚と文学’に至ると、安懐南の視点は恋愛をする主体である個人、

ひいては彼自身の内面へとより向けられるようになる。

(48)〔…〕나의 一生을通하야 가장重大한것은 戀愛와 結婚과 文學マ マ이것들은 지금에이르러 서로 똑가트다 어느것이 덜함이업시 모두나에게잇서서는 最高의것이다.

나는戀愛에對한것과 마찬가지의 情熱로 文學을 해야한다고 밋는다. 幼稚한 소리일른지 몰은다 아니누구는 戀愛는 눈꼽째기갓고 그보다 몃倍의偉大한情熱로 文學만을 崇尚하는것을 안다 그러나 戀愛도 文學以下는 아니다 勿論 結婚도그러하다.

文學에잇서서 至高至純해야함과가티 戀愛에잇서서도 마찬가지여야 할것이라고 나는 생각한다 우리는 맨처음 情熱에서 出發한다 그러니까 거기에는 背反이 잇슬까닭이업다 破綻이생길 이치가업다 戀愛나 結婚이나 文學에對한 態度가 처음과 달러진다는것은 當者의罪過이다 적어도 情熱이 불가티 뜨거웟다가 어름처럼 시거젓다는 것은 잇슬수업는 일이다 萬若 그러타면 事實 그것은 可笑로운짓이다. 戀愛나 結婚에서失敗하는것을 나는 文學에서失敗하는것보다 못지안케 侮蔑한다 또文學에對한 態度가 不純한것 亦是 戀愛나 結婚에對하야 眞實하지안흔것과 마찬가지로 卑劣한 行動이다 우리는 情熱에서 비로소 出發하는것이고 처음불가티 뜨거웟던 情熱이라면 그것이 식지안코 끗끗내 불가티 뜨거운 情熱만이 貴重한것이다

最初 나에게는 戀愛가잇섯다 結婚과文學 以前의時代이다. 萬人이 異口同聲으로 戀愛는 人生의全 部가 아니라고한다 올흔 말이다 그러나 結婚과文學 以前의時代 아무것도업는 그때에 잇서서는 愛가 正히 人生全部가 아닌가한다 靑春으로서의 第一步가 이때일것이다. 인제그것이 人生으로서 全面的으로成長하여 結婚의時代가 오고 文學의世界가 펼처지는때 비로소 人生의 全部엿던 戀愛는 人生의全部가 아닌것으로 變化하는것일것이다 그려マ マ나 처음에는 이것이 누구에게나最高의感情일것 이다. 무엇보다 가장 노프게치는 至上的態度라는 意味이다. 나는 나의生活에잇서서 그것이 人生의 第一步로 眞正하게찍히여진것을 感謝한다. 〔…〕

나는最高感情의戀愛에서 最高感情의 結婚을 이루고 또 이러한 眞正한 生活의 情熱을 통하 文學(藝術)의世界를 攝取하는것을 理想으로 한다. 至高至純한 生活의感情이잇서야 至高至純 文學의感情이 딸으고 生活의完成이 잇슨後에야文學의 完成이 오는것이라고 밋는바이다.〔…〕

〔…〕私の一生を通じて最も重大なものは恋愛と結婚と文学である。これらは今では互いに全く同等の ものである。どれ一つとして欠くことはできず、皆私にとっては最高のものである。

私は恋愛に対する情熱と同じ情熱で文学をせねばならないと信じている。幼稚な言葉かも知れない。

いや恋愛とは雀の涙ほどのものであって、それよりも数倍の偉大な情熱で文学のみを高く尊重すべきだ

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と考えている者もいる。しかし恋愛も文学以下のものではない。もちろん結婚もそうである。

文学において至高至純であらねばならないのと同じく、恋愛においても同様であらねばならないとい うのが私の考えである。我々は初め情熱から出発する。それ故そこに裏切りなどあろうはずがない。破 綻が生じるわけがない。恋愛や結婚や文学に対する態度が最初のものから変わってしまうのは本人の罪 過である。少なくとも火のごとく熱かった情熱が氷のように冷めてしまうことなどあり得ないことだ。

万一そうなってしまったとしたらそれは可笑しなことである。そのため恋愛や結婚に失敗することを私 は文学において失敗することに劣らないほど侮蔑している。また文学に対し不純な態度を取ることもや はり恋愛や結婚に対し真剣でないことと同様に卑劣な行動だと考える。我々は情熱があって初めて出発 できるのであり、最初の情熱が火のように熱いものであったなら、それは冷めることなく最後まで火の ように熱い情熱であり続けるはずで、そうした情熱のみが貴重なものなのである。

最初私には恋愛のみがあった。結婚と文学以前の時代である。誰も彼もが異口同音に恋愛が人生の全 てではないと言う。正論である。しかし結婚と文学以前の時代、何ものも存在しないその時においては 恋愛が正に人生の全てではないかと思う。青春の第一歩がこの時であるだろう。そして人生として全面 的に成長し、結婚の時代が来て文学の世界が開かれるその時になって初めて、人生の全てであった恋愛 は人生の全てではないものへと変化するのだと思う。しかし当初は恋愛が誰にとっても最高の感情のは ずである。何ものにも増して高く見なされる至上的態度という意味である。私は我が生活において恋愛 が人生の第一歩として真に刻みつけられたことに感謝する。〔…〕

私は最高感情の恋愛において最高感情の結婚を成し遂げ、またこうした真の生活の情熱を通じて文学

(芸術)の世界を摂取することを理想と考えている。至高至純な生活の感情があってこそ至高至純な文 学の感情がそれに伴い、生活の感情が成し遂げられて初めて文学の完成がもたらされるのだと信じてい るのである。〔…〕328

やや誇張に過ぎる感は否めないが、上の文章の中で安懐南は恋愛・結婚・文学という三 つのものに対する自分の価値観や態度を表明していると言える。世間の人々は恋愛を文学 よりも数段劣るものと考え、軽視しているかも知れないが、現在の彼にとってこれら三つ

328‘恋愛と結婚と文学―作家的最高感情の問題―’前掲書、1938920日付。本評論は有島武郎が1920 年に発表した「惜みなく愛は奪ふ」『有島武郎著作集 第十一集』叢文閣 1920年)における「太は じに道ことば あつたか 行おこなひがあつたか、私はそれを知らない」「私はより高い大きなものに對する欲求を以て、知り得 たる現在に安住し得るのを自己に感謝する」(有島武郎(1980)『有島武郎全集 第八巻』筑摩書房 p.126、

129。ルビは原文ママ)といった表現との類似性を指摘することができる。有島の名前は本評論の他の箇所

(922日付)のみならず前掲の‘青春と恋愛’の中にも見られ(‘青春と恋愛’前掲書、p.84)、彼の文 章の一部が実際に引用されている部分もあるため、安懐南と有島武郎との関連性や影響関係という点も今 後の重要な研究課題と言えるだろう。