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だが本作品の全体を通して見れば、‘借用証書’とは逆に「私」の性格は積極的で強気な 性格よりも陰気で消極的な面の方がより強調されて描かれている。上の引用に続く箇所を 見てみると、「私」は結局祖母に頼みを聞き入れてもらえず、泣きながら祖母の家を飛び出 した。敬愛が台所へと身を避けるのを目撃し、「追っかけて行って彼女を捕まえ〔…〕もし 私を愛していると言ってくれたら、〔彼女を〕連れてこの家を出ていって」やろうかと思った。

しかし「これだけはどうしてもすることができなかった」358とある。代わりに「私」がで きたのは敬愛の母に対して切々と思いのたけを述べることだけであった。

この出来事があってから数日後、敬愛と精米所の男との結婚が正式に決まったと自分の 母から聞かされた「私」は絶望状態に陥るが、その時の様子は以下のように描かれている。

この場面は本作品の最も末尾に当たる部分である。

(54)〔…〕또다시눈물이비오듯 흘러내렷다나의주위에잇는사람이모두가 나의마음을알지못하고 모욕 하고조소하는사람들이며 경애를위하야서도 나는조곰도울필요는업는것이라고 스스로반성을그려 도보나 할수업섯다 나의힘과마음으로는 도저히어떠케할수업는 애정의비애인것이다 사랑의눈물인것 이다

나는한동안이나 책상을향하야 일어나안젓다가 별안간「후―」하고 입으로불어 불을껏다〔…〕자리 에누어이불을끄러 얼골까지덥헛다 정신이혼동한게 무슨풍병에걸려눕는것가탯다 경애의남편될사람 의얼골이나의 눈에작고만 나타나보엿다 그사람의얼골을 아무리힘써 이상화(理想化)하엿스나 작 359 험상스런사람으로만보혓다〔…〕

나는할수가업슴으로 번둥거리다가 다시일어나서 불을켯다 골치가뻥하엿다 생각나든모든것이 다시

マ マ푸리가되고 눈물이또흘럿다 나의하는꼴이 나로서도 가엽고얄구젓다 그래서 등쟌ㅅ불을바라다보 두뺨에는눈물이흘으는대로 웃는 척하고 힘껏얼골을찡그려봣다〔…〕

〔…〕再び滝のような涙が流れ落ちた。私の周囲にいる人が皆私の気持ちを分かってくれず、侮辱し嘲 笑しているように思われた。敬愛のためにも私が泣く必要は少しもないのだと自省してみてもどうする こともできなかった。私の力と心では到底どうすることもできない愛情の悲哀なのだ。愛の涙なのだ。

私はしばらくの間机に向かって立ったり座ったりしていたが、突然「フー」と口で灯を消してしまった。

〔…〕床に横になり布団を引き寄せ、頭まで被った。心が乱れ何か風病にかかって寝込んでいるようだ

358‘愛情の悲哀’前掲書、1932121日付

359 文脈から「작고」(小さくて)の意味ではなく「자꾸」(しきりに、ひっきりなしに)の意味と考えられ る。ここでは「一向に」と意訳した。

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った。敬愛の夫となる人の顔が私の目にしきりに浮かんで見えた。その人の顔をいくら努めて理想化し ようとしても一向に険悪な人のようにしか見えなかった。〔…〕

私は寝転がっていたが仕方なく起き上がり灯を点けた。頭がぼうっとした。思い出されていた全てのも のが再び繰り返されまた涙が出てきた。私のしていることが自分としても哀れで奇妙なことに感じられ た。そして私は油皿の火を眺めながら、両の頬の涙は流れるのに任せ、笑う真似をして思いっきり顔を しかめてみた。〔…〕360

この場面でも「私」は「滝のような涙」を流して号泣しているとあるが、冒頭部と同じ く悲しい出来事があるとすぐに憂鬱になって泣いてしまうこのような姿から、彼が極端に 陰気で感傷的な性格の人物であることは明白である。作者はこの場面を意図的に作品の末 尾に配置することで、そういった「私」の性格を読者に向けて強く印象づけようとしたと 考えられよう。またここで「私」は何の根拠もなしに「私の周囲にいる人が皆私の気持ち を分かってくれず、侮辱し嘲笑しているように」妄想し、灯を消し布団を被ってまでして 暗い雰囲気を作り、この失恋の体験を「愛情の悲哀」、「愛の涙」と過度に誇張された語句 を使って言い表している。この部分も(52)と同じく失恋という自らの不幸な体験に対し

「私」が妄想を膨らませ、極端に悲しみに暮れている場面と読むことのできる箇所であり、

「私」が作家自身と同様に妄想癖の強い人物として設定されていることを窺わせる場面と なっている。

本節の最後に取り上げる‘私と玉女’も初期の恋愛小説に含めるべき作品である。主人 公「私」(나)の職業を直接特定することのできる記述は本文中に見当たらないが、「図書館 へ行き一日中勉強をして、こうして夕方に家へ帰る」361という生活を送っているとあるの は安懐南が高等普通学校中退後、作家を志して図書館で勉強していたという経歴とよく一 致している。また「昨日の夕食を抜き今日の朝も抜き、今や昼時もとうに過ぎ夕方に近づ いてき」362ても何も口にできず、「他人の食卓を調べ回ってばかりいる」363ほど食べ物に困 っているという状況も登壇前の彼自身の経済的状況を彷彿とさせるものである。

360‘愛情の悲哀’前掲書、1932121日付

361 안회남(1933)‘나와玉女’“신여성”(安懐南(1933)‘私と玉女’“新女性”)72号 1933 2月、p.105

362 안회남(1933)‘나와玉女’“신여성”(安懐南(1933)‘私と玉女’“新女性”)71号 1933 1月、p.117

363‘私と玉女’前掲書 71号 19331月、p.118

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「私」は図書館で勉学に励む傍ら、肺を患いながら極めて貧しく暮らす姪の玉女とその母 親の暮らす家に通って二人の世話をしている。彼は図書館から家に向かって帰る途中、「ま るで自分が故郷から離れ遠く海外へ行き、ある見知らぬ通りを彷徨している、マドロスの ような奇妙な哀愁が生じてセンチメンタルになることがよくある」364とされている。また

「図書館にいても彼女の可哀そうな姿が私の見つめる本棚の上に浮かんでおり、孤独な我 が家に帰る途中の今でもひどくセンチメンタルな気分になってしまうのは、その大半が玉 女に対する憂いと私の無力さ、この世で生きる甲斐などないと嘆く気持ちから起きたもの なのでしょう」365という心理描写からも、「私」が極めて感傷的、「センチメンタル」で悲 観的、陰気な性格の持ち主であることが分かる。またその風貌も激しい飢えから常に元気 のない姿をさらしつつ、海の上の「マドロス」のようにいつも独りで街を彷徨している貧 弱で病的な姿を容易に思い浮かべることができる。

しかし本作品の他の箇所を見ていくと、‘愛情の悲哀’と同様に愛する玉女と彼女の老い た母に対する「私」の積極的な姿勢・態度や情熱的な恋愛感情が表れている部分もまた見 出すことができる。「私」が玉女の家に訪ねてきてくれたことを喜び、空腹である「私」の ために朝食を分けてくれた彼女の母に対する感謝と玉女への同情の心から、その食事が完 全に腐っていたにも拘わらず我慢して食べてしまう場面366がその代表的な例である。また 他に次の場面からも、「私」の玉女に対する恋愛感情がいかに強く情熱的なものであるかを 窺い知ることが可能であり、合わせて彼の恋情の特徴がよく表れている部分としても注目 される。

(55)〔…〕「옥녀 옥녀! 나는그를사랑한다」

그와나와의 친척관게는 물론 문제가업는일이엿습니다 그러케불상하고 무서운병으로신음하는 玉女 그玉女를 사랑하는것입니다. 오는봄찜해서는 나의속을모다 그에게토파하고 사랑을고백할것입니다.

그리고 그를위하야 더한칭マ マ싸홀것입니다.

봄! 나는우둑하니서서 생각하엿습니다. 玉女와나를 위하야 그것이얼는 차저오기를비럿습니다.

아까玉女가 봄이오면 올러가양지짝에안즈리라고말하든 건너편언덕을 바라보앗습니다. 물론거긔는 흰눈으로가득하엿습니다. 밤이얼마나깁헛는지 치운거리에는 행인하나 업섯습니다. 나는 길을가다가 발을멈추고서서 나의압흐로 끗업시 그리고 곱게깔닌 눈우에다 성큼허리를굽히고

364‘私と玉女’前掲書 72号 19332月、p.105

365‘私と玉女’前掲書 72号 19332月、p.107

366‘私と玉女’前掲書 71号 19331月、p.119

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