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二点目は探偵小説・推理小説に対する興味や関心である。‘探偵小説’という評論による と当時安懐南は探偵小説を読むことが趣味の一つであったというが、この評論の中で彼は それの持つ魅力・特徴や西洋の有名な推理小説作家を紹介しつつ、「人生の猟奇的修養読本 であり、また恐怖心理の遊戯に過ぎない」大衆文学としての探偵小説を「一歩前進させて これを徹底的に芸術化し、一つの優れた文学にまで上昇、進展させ」203ることを提案して いる。これとほぼ同じ主張が第三点目である純文学と大衆文学との統合という考えで、‘通 俗小説の理論的検討’という評論の中で安懐南は「純文学(純粹文學)の場において『読者 の興味を考慮して通俗性を持とう』という話や、大衆文学の場において『娯楽性(재미)以 外にも芸術性を獲得しよう』という話がしばしば持ち上がるが、さもありなんことだ。〔…〕

〔純文学に〕通俗性をというのはそこに娯楽性の要素を注入しようという話である。観念の 法則の中で幾度となく彷徨していた純文学が〔…〕大衆文学の多様な事件性を獲得しようと いうことである」204と述べ、両小説形態の特徴を生かした新しい小説の在り方に強い関心 を示している。これら三つの言及はいずれも「真の本格小説」に関する一連の議論から発 生したものであると見なすことができ、また

1930

年代後半における安懐南の作家的関心の 変化と拡大を窺い知ることのできる評論として注目に値するものである。

1. 3 1940

年代以降

安懐南夫妻の間には

1939

11

23

日に次男の秉ピョンウ ンが生まれていたが、

1940

7

28

202 実際にはこのような作品は発表されなかったと見られる。なお安懐南は別の文章で「恋愛至上主義の人 物を創作してみようと、安禄山と楊貴妃をモデルにして目下材料収集中であります」‘文人メンタルテス ト’前掲書、p.89)と述べていることから、この歴史小説を恋愛小説としても書こういう壮大な計画があ ったことが窺い知れる。また彼のこの時期の随筆を見ると、「短編小説「没落」と「波紋」二編の構想につ いて思いつくままにノート」しておいたり、「長編小説『少年体育団』の構想をしておいたノートを調査」

したりしたという記述があるが(‘紫煙と読書’前掲書、pp.179~180)、これらの小説も全て未発表作で はないかと思われ、筆者はまだ確認できていない。

203 안회남(1937)‘(隨筆)探偵小說’“조선일보”(安懐南(1937)‘(随筆)探偵小説’“朝鮮日 報”)19377 1937716日付

204 안회남(1940)‘通俗小說의理論的檢討’“문장”(安懐南(1940)‘通俗小説の理論的検討’“文 章”)29号 194011月 pp.150~151。本評論内において安懐南は「純粋小説」「大衆小説」「通俗 小説」の三つについて、「純粋小説」とは我々の常識の水準を上昇させるもの、「大衆小説」は我々の常識 の水準に追従するものであり、「通俗小説」は常識の水準を低下させるものだという考えを述べている。こ れに対しては「1930年代に出されたどの大衆文学論や通俗小説論においても見ることのできなかった」

「明快な対比」であるという評価がなされており(チョ・ナミョン(2004)前掲書、p.192)、こうした文 学史的評価は安懐南の1940年代前半期の評論活動の水準が決して低いものではなかったことをよく物語 っていると言える。

79

日には長女秉ピョンス ク、1942年

12

31

日には次女秉ピ ョン エが誕生した。当時安懐南は

1939

年に初 の作品集“安懐南短編集”(学芸社 1939年)及び第二の作品集“濁流をかき分けて”(永昌書 館 1942年)が出版されて文壇の注目を集めていたが、一方で京城を離れ忠チュンチョン清南ナ ムの燕ヨ ング ンチ ョニ ミョ ンという所へと居住地を移している。その理由は日本による疎開令に従ったためともさ れるがはっきりしない205。1940年代前半期の彼の小説世界も

1930

年代後半と同様、自身 の帰郷体験に取材した‘田園’“農業朝鮮”33号 19403月)、恋愛小説‘恋人’の続編で ある‘濁流をかき分けて’“人文評論”24号~5号 19404月~5月)、幼少期に故郷で過ご した頃の回想譚である‘動物集’(“春秋”19号 194110月)など身辺小説的な小説と、

百貨店の店員から練炭製造所の作業員へと転身する若者を描いた‘春が来れば’“人文評論”

34号 19414月)など本格小説的な小説の二つの作風が混在している状況と見てよい。

評論や随筆も毎月とはいかなくなったものの、作品評論・月評や自身の私生活に関連する 短文などを地道に発表し続けている。だがこの時期の彼の評論・随筆の特色として着目せ ざるを得ないのが、いわゆる「親日」的な幾つかの文章に関してである。

自主的に行ったものであるにせよ不本意ながらそうしたものであるにせよ、当時の朝鮮 人文学者の多くが時局の変化に伴って対日協力・戦争協力を強制され、「親日」的と見られ る文学作品を幾つか発表していった。安懐南もその例外ではない。まず本論文では議論の 対象外とするが、彼の「親日」的小説としては‘海へ行く’“半島の光”19439月)、‘嫁’

(“家庭小説”1943 12月)などを挙げることができる。「親日」的に感じられる文章は小説 のみならず評論や随筆においても顕著に見られ、例えば‘看秋’という随筆はとある地方 の農村を訪問した際に現地で見聞きした事柄を記録したものであるが、この中で安懐南は 汽車が通過していくのを沿線の農民たちは黙って見守るだけである一方、「児童らの多くは 帽子を脱いで振っている。それは学校の子どもたちが出征軍人を見送る際の礼儀であり、

よい現象だ」206という表現を用いている。また‘農村現地報告’207も黄フ ァン ヘにある農村の

205 安懐南自身の言葉によると「積極的に生産に参与し生きることに没頭するため」であり、「自分なりに は小作人になる覚悟をして」「贅沢をするために来たのではなく、生きるために生産手段を求めてきた」

のだとされている(안회남(1942)‘落郷記’“新時代”(安懐南(1942)‘落郷記’“新時代”22号 1942 2月 p.142)。実際に彼の一家は移り住んだ燕岐の地において、家の周囲に畑を作って野菜を栽培したり 豚を飼ったりするなど自給自足に近い生活を行っていたようであるが、これも意のままにいかなかったと 見られ、一時期安懐南は他の家族を残して単身で京城に戻り、とある「製薬会社の宣伝部」に職を得て「広 告文」を考える仕事をして収入を得ていたとも述べられている(안회남(1942)‘田園・都會’“신시대”

(安懐南(1942)‘田園・都会’“新時代”)210号 194210月 pp.114~115)

206 안회남(1940)‘晩秋隨筆 看秋’“인문평론”(安懐南(1940)‘晩秋随筆 看秋’“人文評論”)

211号 194011月 p.163

207 안회남(1941)‘農村現地報告 논에가득한물, 흙의指導者群像 黄海道農村을보고와서’“半島の 光”(安懐南(1941)‘農村現地報告 田に満ちた水、水 土の指導者の群像 黄海道の農村を見てきて’“半

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訪問記であるが、日本から導入された農業協同組合制度の下で大規模に農作業が行われて いる様子を記者として派遣された安懐南が称賛し、農村の理事である「西村」、「福田」な どの日本人を肯定的に評価しているというのがその内容となっている。この他にも‘世界 史の新舞台’208においては一か月前に始まったばかりの太平洋戦争について、「諸君、一年 や二年のことではない」と戦争の長期化を予想しつつ読者らに「覚悟」を要求しており、

数人らの寄稿による‘一日も早く見習うべき内地の習俗’209では「どんぶり鉢(사발)で飯 を食べずに飯櫃(밥통)と茶碗(공기)を使用すること」210という一言を寄せている。他の寄 稿者らが数行に及ぶ長文を載せているのに対し、安懐南の言及はごく短いものであるが、

「一日も早く見習うべき内地の習俗」という題名の下に何かしらの文章を掲載しただけで も、現代の読者から見れば「親日」的な行為の一環として受け止められる可能性があるだ ろう。そして‘徴兵制実施万歳’211という新聞記事においては、朝鮮人に対する徴兵制実 施に対して「先入観的に快いこと」であって「我々は慎重かつ厳粛に歴史的任務を全う」

せねばならないとし、「まずは古臭い朝鮮の伝統的な(퀴퀴한兩班的)文弱主義を捨てよ、教 師である前に学生である前に、文人である前に医者、新聞記者、学者であるよりも前に何 よりもまず男児であれ、勇ましい健民強兵としてこの地から頑固者(샌님)どもを一掃せよ、

半島の徴兵は半島の象徴である」と呼びかけた上で、「最終的に敵米英の帝国主義を粉砕す るのが我々の任務だ。それはまた必ずや達成されるであろう。朝鮮徴兵制度実施万歳だ」

という言葉で末尾を締めくくっている。

しかし安懐南の当時の言葉の中に、これらに反する「反日」的なものが全く見られない わけではない。‘今日の文学の方向’212は林和と予想される「学友」、「兄」に送った書簡体 形式の評論であるが、ここで安懐南は「文学の本質とは人間」であり、「文学とは文字化さ れた人間」であるという認識を示しながら、現在の朝鮮文壇には朴泰遠・李泰俊などの「芸 術派」と李箕永・韓雪野などの「傾向派」の合体が必要であって、対日協力的な「国民文 学」が要求される中でもこの二派の合一は必ずや必要であるという主張を展開している。

島の光”)4519417月号 p.21~23

208 안회남(1942)‘太平洋에의浪漫④ 世界史의新舞臺’“매일신보”(安懐南(1942)‘太平洋への 浪漫④ 世界史の新舞台’“毎日新報”)194218日付

209 안회남(1943)‘하로밧비 본바들 内地의習俗’“半島の光”(安懐南(1943)‘一日も早く見習う べき内地の習俗’“半島の光”)19435月号 p.15

210 朝鮮人はどんぶり鉢で飯を食べるべきでない、の意と解釈される。

211 안회남(1943)‘文化人의感激과기뿜 徵兵制實施萬歳’“매일신보”(安懐南(1943)‘文化人の 感激と喜び 徴兵制実施万歳’“毎日新報”)194387日付

212 안회남(1943)‘今日文學의方向 一學友에게드리는글’“매일신보”(安懐南(1943)‘今日の文 学の方向一学友に捧げる文’“毎日新報”)194346日付~11日付