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あらすじでも見たように(66)の場面で無理をして外出してしまったことがきっかけと なって病気が悪化し、A はついに喀血して京城にある

S

病院に入院し、最終的には肺病が 肺癌に変わるという事態となった。以来聖淑に対する彼の恋愛感情は何の根拠もない非論 理的な妄想や盲信へとますます悪化していく。上にあったように水車小屋の少女を聖淑に 違いないと考えたり、彼女が夢に出てきたという理由だけで二人がともに肺病で、かつ互 いに愛し合う仲だと信じ込んでしまったりしているのがその典型的な例であるが、次のよ うな箇所を見ても彼の主張する言葉の中に論理的な矛盾や飛躍が生じていることは明らか である。

(67)〔…〕성숙이와 나와는멀리떠러저 잇다 하나나는조타 그리고 나는조금만잇스면죽는다 그래도나 는조타 이것은마찬가지인것이다

내가죽은후에는 성숙이를사랑하지못할가 아니아니 사랑그자체는 결단코시작도끗도업는것이다 내가 그와서로 멀리 리별해잇스며사랑하는 것이 가능한것과 마찬가지로 나는죽어서도 오히려그를사랑할 수가잇다

내가세상을살지만못할뿐이지 나는그를영원히생각하고 사랑하는것이다〔…〕

〔…〕聖淑と俺とは遠く離れている。でも俺はいいんだ。それに俺はもう少しで死ぬ。それでも俺はい いんだ。どっちにしたって同じことなんだ。

俺は死んだ後には聖淑を愛せなくなってしまうのか、いやいや、愛それ自体は決して始まりも終わりも ないものだ。俺が彼女と互いに遠く離れていながらも愛することが可能なのと同じように、俺は死んで もなお彼女を愛することができるのだ。

俺がこの世に生きていられないというだけのことだ、俺は彼女を永遠に思い愛し続けるのだ。〔…〕412

ここで

A

が述べている「愛それ自体は決して始まりも終わりもないものだ」や、「俺は死 んでもなお彼女を愛することができるのだ」という発言は明らかに非論理的で矛盾や飛躍 を見せている部分と言ってよい。ここでも

A

は自分がもう幾らも生きていられないという 悲壮感・絶望感や、聖淑に対する過度な妄想や空想と恋愛感情の強さからひどく感情的に なって興奮しており、冷静で理性的な思考が妨げられてしまっているものと見て取れる。

1931

年の春が過ぎ夏へと移っていく中で

A

は身体的に極度の衰弱を見せるようになった。

412‘寂滅’前掲書、1932126日付

179

かつては

K

らの仲間の中でも「理知的」、「天才的」で最も「文士型」であったという

A

の 理性的な風貌は、「骨と皮ばかりの肋骨、首筋の上に赤く出た静脈」が看護をする

K

の目に 留まるほどにまでなった413。そして「人としての温かみや面白みのある情の深さ」が失わ れ、「毎晩死体のように真っ直ぐに横になり〔…〕目を大きく見開き、天井ばかりを穴の開 くほど見つめている」という姿に

K

は「鳥肌が立ち」、「ああ恐ろしい、恐ろしい、その顔、

その目、A は既に人ではないのだ」と戦慄を覚えた414。このような身体的な崩壊の過程と 合わせ、上で見たような過剰な妄想と盲信に端を発する精神的な崩壊の過程を経て、あら すじでも見たように

8

26

日の真夜中、

A

P

の見ている横でいきなり立ち上がって両腕 を広げ「ああ聖淑さーん!」と叫び、口から「滝のような」血を吐きながらついに悲劇的 で壮絶な死を遂げたのである415

以上のように、本作品の主人公

A

は多様な性格の側面を同時に持ち合わせている人物で あるが、これと関連して重要なのが友人である

K

P

A

という人間をどのように評価し ているかという点である。悲惨な最期に至った彼の性格を

P

が「モノマニアック」、「変態 的」、「精神病者」などと極めて否定的に評価していたことは前に述べた通りである。しか し一方で

K

P

の評価を受け入れ賛成しつつも、その独特な性格を肯定的に見ようとする 姿勢を所々で見せている。先の引用(63)において最後に「そして私自身としても

A

のこ のような性格をそれほど嫌っているというわけではなく」と付言されていることはその一 例である。また作品の冒頭で

K

A

を「最も尊敬する友人」416と呼んでいたり、Pに反発 して「でも俺は

A

のああいうのをお前みたいにそんなふうに批評したりはしないな。A が 普通の人よりもずっと立派で偉大だからなんだと思う」417と述べている部分もまた、A に 対する

K

の肯定的評価を端的に表している箇所と言える。

K

A

に対するこのような肯定的評価の背景には何があるのだろうか。あくまでも推測 に過ぎないが、それは

A

が病床で死を待つ身の上となり、体が日増しに衰弱していく絶望 的な状況の中で、根拠のない妄想に陥り論理的破綻を引き起こす事態に至っても、それで もなお二度と会えない聖淑を一途に愛し続けた

A

の生涯に対し、Kが秘かに感銘を受け尊 敬の念を抱いていたからではないかと想像される。このような一生を送った

A

の信念を象

413‘寂滅’前掲書、19321128日付

414‘寂滅’前掲書、1932125日付

415‘寂滅’前掲書、1932128日付

416‘寂滅’前掲書、19321115日付

417‘寂滅’前掲書、1932122日付

180

徴する言葉が、「要するに現実というものは、目に見えるものだけではないのだ」418という 彼自身の言葉であろう。そして病床の

A

が「毎晩死体のように真っ直ぐに横になり〔…〕目 を大きく見開き、天井ばかりを穴の開くほど眺めている」ようにして、全力を尽くして見 ようとしていた目に見えない「現実」こそ、唯一の恋愛の対象であった聖淑の姿であった と見なければならない。

「現実というものは、目に見えるものだけではない」という

A

の信念が象徴的に描き出さ れている場面が、彼と

P

との間で繰り広げられた「哲学上の実在」を巡る討論の場面419で ある。分量的に非常に長い部分であるため、二人の主張を具体的に見ていくことはここで はできないが、この場面で明らかになるのは

P

という人物が「脳」という物質が先に存在 するが故に我々は思惟し、その「脳」という物質から「観念」や「知覚」というものがで きるのだと主張する「唯物論者」であり、反対に

A

はあらゆるものは「観念」に過ぎず、「知 覚」というものがあって初めてそこから物質が生じるのだと主張する「唯心論者」である ということである。

P

が「脳」や「木切れ」、「肉の塊」といった目に見えるものを重要視し ている反面、

A

は「観念」や「知覚」、「精神」や「心的表象」といった目に見えないものを より優位に置く立場であることが鮮明になっている。両者のうちどちらの主張が正しいの かという点はさて置き、この場面における

A

の一連の主張は、「現実というものは、目に見 えるものだけではない」と普段から考えている彼の信念がどのようなものであるかを、読 者に説明してくれる重要な役割を果たしていると言えよう。

A

に対する

K

の肯定的評価が明確に表れている部分は作品の末尾においても見つけるこ とができる。Aが壮絶な死を遂げた日の翌日、8月

27

日に彼の亡骸に対面した時のことを

K

は以下のように回想している。

(68)〔…〕A가흙속으로무치기전 마지막으로 내가본그의눈 무엇을뚜러지게보고잇는그의눈 그것은빗 갈만이야 변하엿겟지 결단코죽지는 안흔것이다 광채를일허버린별들이 우리의 사람의눈에는 보이 지안허도 오히려어데인지 하날우에 잇는거와가티 우리가볼수업는어떠한 불가견(不可見)의세게 를 A는우둑허니 바라보고잇슬것이아닌가?〔…〕

〔…〕Aが地中へと葬られる前、私が最後に見た彼の目、何かを一心に見つめているような彼の目、そ れは色彩こそ変化してしまったように見えても決して死んではいなかった。光彩を失った星が我々人間

418‘寂滅’前掲書、19321128日付

419‘寂滅’前掲書、19321129日付~121日付

181

の目には見えずとも、それでも空の上のどこかにあるのと同じように、我々の見ることのできない何ら かの不可見の世界を、Aは〔今でも〕ぼんやりと眺めているのではないだろうか?〔…〕420

そして

K

は生前の

A

の姿を思い返しながら、「こうした影のような生活も、それ自体と しては最初から最後まで一つの価値があったのだ」421とした上で、一見何の価値もないよ うに見えた彼の人生にも何らかの意味があったのではないかという意見を

P

に投げかけて いる。このように

K

A

を肯定的に評価し「理知的」、「天才的」で最も「文士型」であっ たと考えて尊敬している態度は、‘一九三二年秋の感想’において安懐南が庚一という友人 に向けて、「私は君を一人の天才として認めている。庚一、君は天才だ。それでいて君は自 分が天才であることに気づかず他人に謙遜することしか知らなかった。また君は朴君や金 君〔朴豪と金裕貞を指すか〕と同じく最も善良で柔順な人であった。そうでありながらも君は 世間の悪毒に染まることがなかった」422と述べている言葉との類似性を指摘でき、本作品 が創作されるに至った背景を垣間見させる言及の一つとして注目される。

なお引用(68)に出てくる「光彩を失った星」、「不可見」といった表現は、この直前に 語り手の

K

によって紹介されているフランスの詩人シュリィ・プリュドム(Sully Prudhomme、

1839~1907)の「眼」Les yeuxという詩を受けてのものである。Kが

A

の墓前を訪れる度

に思い出すというこの詩の内容も、「現実というものは、目に見えるものだけではない」と 信じ、聖淑という女性の幻影を一心に追いかけながら死んでいった

A

の人生を象徴してい るものである。本作品の最終回である第

26

回には「眼」の全文が朝鮮語に訳されて載せら れているが、第

1

回にも同じ詩の第三連のみが掲げられている。以下にそれを引用するが、

このような部分を見ると作者が

A

という人物を妄想癖が強く目に見えないもの、抽象的で 観念的なものに対する執着の強い人物として、またそういったものを頑なに信じようとす る頑固で「モノマニアック」な性格の人物としてとりわけ強調して描き出そうとした創作 意図を読み取ることができるだろう。

(69)〔…〕아아 그들의눈은 인저아모것도 보지못하게 되엿슬가

420‘寂滅’前掲書、19321210日付

421‘寂滅’前掲書、19321210日付

422‘一九三二年秋の感想―庚一君に送る文―’前掲書、1932107日付