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出生から

1920

年代まで

本論の第

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章では第

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章以降において安懐南の小説作品を具体的に見ていくに先立ち、

まず本文分析の際の前提となる事柄として、作家の生涯と文学的活動について彼自身の評 論・随筆作品や前掲のユン・チェグン(1995b)、パク・ヘユン(2000)、(2001)などを参 考にしながら整理してみることにしたい118。ここでは本論文のテーマに直接的な関連がな い事柄でも、安懐南という作家の紹介も兼ねるという目的から、筆者が現在把握している 最大限の内容を盛り込むことにする。

安懐南は日本による朝鮮半島併合の年である

1910

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119、京城中心部の茶オ クチョン町 三番地(現、ソウル特別市中区茶ド ンに父の安国善と母の李イ ・ス クタ ンの長男として生まれた。本名 は必ピ ルス ンであり、幼少期には葛カ ルボ ム120という呼び名も用いられた。その半年余り後の翌年

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日には妹の玉オ クポ ムが生まれている。安懐南の経歴と文学世界について語る時、父親の安国善 という人物は決して欠かすことのできない存在であると言える。安懐南の父の家系はかつ て中央と地方の公職を歴任した人物を輩出してきた名門であった。そして安国善もまた、

若い頃に官費留学生に選抜され、1890年代に日本の慶応義塾と東京専門学校(早稲田大学)

で学んだ121経験を持ち、“禽獣会議録”122や“共進会”123を著した新小説作家としてたいへ

118 本章の内容はこれらの中でも特にパク・ヘユン(2000)を基にしたところが大きい。以下本章の終わ りまで特に明示していない部分については、本先行研究を参考にして筆者がそこに大幅な加筆と修正を行 ったものである。

119 安懐南の出生年については各研究書や論文によって1908年、1909年、1910年と誤差がある。これは 現在の日本などで一般的な満年齢ではなく、数え年による年齢を基にしてそれを西暦に換算しているため と考えられる。本論文では前掲のチョ・ナミョン(2012b)など最近の先行研究において最も一般的な1910 年という見解に依ることにした。

120 この呼び名をつけたのは父の安国善であるとされているが、それは生後三か月余りの安懐南の声がトラ のように聞こえると家族の者が言っていたことに由来するという(안회남(1937)‘瞑想’“조광”(安懐南

(1937)‘瞑想’“朝光”31号 19371月 pp.332~333、ユン・チェグン(1995b)前掲書、p.330)

「葛範」はハングルで「갈범」と書くが、この語には「(ヒョウと区別して)トラ」という意味がある。

121 安国善の渡日に関しては複雑な経緯があったことが明らかにされている。波田野節子(2013『韓国近 代作家たちの日本留学』白帝社 pp.6~7によると、「〔安国善の別名である 安アン・ミョンソ ンという名は〕仁イ ンチョンを出 発した一一三名の留学生名簿には見あたらず、受け入れ先の慶應義塾が作成した学籍簿「慶應義塾入社帳」

には入っている。そのわけは、彼が留学生とは別ルートで日本に渡ってきて、現地で官費留学生になった からである。時期は不明だが、安国善はほかの青年三名とともに日蓮宗の僧、佐野前ぜ んれ いの帰国に同行して 来日し、静岡県で勉学しようとしたがうまく行かずに、官費留学生たちに合流することを願いでて受理さ

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ん名の知られた存在であった。のみならず彼は政治・経済・法律・歴史などに関する多く の論説や著作・歴史書を残し、啓蒙運動家・政治家としても活動していた。このような父 の優れた作家的資質と名声は息子安懐南の一生に決定的な影響を及ぼすことになる。

安国善は

1899

年頃に日本留学から戻った後に警務庁に逮捕され、終身流刑の刑罰を言い 渡されて全チ ョル ラナ ムの珍チ ンに移り住んだ。その逮捕理由の詳細については明らかでないが124、 この地で彼が知り合った女性が後に安懐南の母親となる李淑堂であった。1907年頃と推定 される時期に安国善は流刑期間中であったにも拘わらず婚姻関係を結んだ李淑堂を伴って 島を脱出し、京城で教師の職を得て暮らし始めたとされている。彼女は盲人であったと言 われ、安国善が書いた小説を幼い安懐南が母親のために読み聞かせてやったという。以上 のような一連の経緯を現代の我々に伝えてくれるのが、安懐南の随筆‘私の母上’と‘先 考遺事’である。

(4)〔…〕하로아츰엔 내가 이世上에 出生하게 이르는 經路를 이야기하섰다. 그것은 勿論 젊었을때의 우리兩親의 로맨쓰이다. 아버님께서는 東京에서 留學하시고 돌아와 그時代 韓末의 한참 腐敗한現實을 痛歎한바있어 某種의 政治運動을 劃策하시었다가 드디어 綻露나서 지금의 全羅南道 저아래 珍島라는 絶海의 외로운 섬속으로流配된바 있섰든것이다. 우리어머님은 이珍島의

れたのである。学部大臣から要請を受けた外務大臣が駐日公使に指示を出して合流が実現しているところ から見て、この件には政府の要職にいた叔父 安アン・ギ ョ寿ン ス(一八五三~一九〇〇)の口添えがあったものと推測 される」(ルビは引用者)という。

122 1908年に皇城書籍業組合から出版された寓話小説である。擬人化された動物たちの話を通じ、当時の

朝鮮の人々の醜悪な面や堕落した社会を批判して大衆を教化するという意図の下に書かれた。初版後わず か三か月で再版がなされるほど人気を博したものの、翌年に言論出版規制法による禁書措置が取られた。

本作品は安国善の代表作として知られているが、その文学史的意義や評価については以下の引用に代える ことにする。

「『禽獣会議録』は〔…〕当時の腐敗した社会現実全般への批判が込められている小説であるが、その本質 には儒教的な倫理観やキリスト教思想が位置している。したがって開化期に刊行された小説のうち、李ジ ョ の『自由鐘』とともに、政治小説的な要素が最も強い小説に挙げられる。

しかし構成上は、当時流行した「独立教会」「協成会」など演説会の記録のような感じを与え、小説とし ての形象化それ自体は不十分な水準である。それにもかかわらず動物寓話小説である『禽獣会議録』は、

夢遊録構造と寓話小説の風刺構造を共有した特異な開化期小説の一つとして価値が認められる。(権寧珉

(田尻浩幸 訳)(2012)『韓国近現代文学事典』明石書店 p.22。ルビは原文ママ)

123 安国善が 慶キョンサ ンブ クの清チ ョン ド郡の郡主を辞任し京城に戻った後の1915年に著した短編小説集である。「妓 生」「田舎老人の話」「人力車引き」の三編から成るが、「探偵巡査」と「外国人の話」の二編が警務総長 令により削除されたという内容の付記がある。“禽獣会議録”とともに安国善の代表作に数えられるが、そ の内容に関しては「「妓生」「田舎老人の話」には、作家の愛国啓蒙的な意志が示されておらず、「人力車引 き」では当時の総督政治を称賛する発言をし、現実批判意識が消滅して世界観が変化したことを示してい る」(権寧珉(2012)前掲書、p.21)とされている。

124 波田野節子(2013)前掲書、p.7 によると、慶応義塾でともに学んだ呉オ ・ソ ンという人物が政治家 朴パク・ヨ ンヒ ョ の政治資金調達に関わっていたためと見られている。

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土着氏의 딸로서 이를테면 『시마노 무쓰메』다 이流閉된 靑年政治家와 南國의 섬색시와의사이에

『灼熱의戀』이시작되어 나를 낳으섰다는것이다. 終生의 流刑이었다는데 日韓合併의大赦가 있기前에 그곳을 夫婦가 脫出하여 서울와서 숨어사섰다니 可히 戀愛活劇의 映畵를맨들기에 足한 스릴도있었을것이다〔…〕

〔…〕〔父が〕ある日私がこの世に生まれるに至るまでの経緯について話してくれた。それはもちろん 若かりし頃の私の両親のロマンスである。父は東京留学から戻った後、腐敗が極みに達した当時の韓末 の現実を痛嘆したことがあったため、ある種の政治運動を画策中、それがついに露見して今の全羅南道 の南方にある珍島という絶海の孤島に流されたことがあったのである。私の母はこの珍島の土着民の娘 で、言ってみれば『シマノムスメ』だ。流刑されたこの青年政治家と南国の島の娘の間に『灼熱の恋』

が始まって私を産んだというのである。終生の流刑であったというが、韓国併合の大赦が下るよりも前 にその地を夫婦で脱出して京城に戻り隠れていたというから、恋愛活劇の映画を作るのにも十分に足る スリルがあったであろう。〔…〕125

(5)〔…〕大東專門學校 其他에서 政治經濟를 講義하시며 育英에 힘쓰시다가 鄕家에 내려오시어 完全히 幽人이되어버리신 時節이있다. 『禽獸會議錄』은 어느때된것인지 알길이없으나 아버님께서는 이때 나의 母親을위하여 심심하겠으니 小說이나 읽으라고 하시며 『跋涉記』라는 上下二巻으로된 復讐譚과 『됴염라傳』이라는 哀話을 創作하여주셨다. 書堂에 다니어온후 每夜 내가 어머님께 이것을 읽어드리었다. 그뒤 이책들은 洞里 머슴들의손에서 녹아없어졌다.〔…〕

〔…〕〔かつて父には〕大東専門学校やその他の学校で政治経済の講義をしながら教育に力を注ぎ、そ の後故郷に下ってからは家で完全に隠遁生活を送っていた時期がある。『禽獣会議録』がいつできたも のなのかは分からないが、父はこの時母のために退屈だろうから小説でも読めと言って『跋渉記』とい う上下二巻の復讐譚と『トヨム伝』126という哀話を作り、書ダ ン127から帰ってきてから私が毎晩母にこ れらを読んでやっていた。後にこれらの本は村の作男らに読み回されてどこかへ行ってしまった。〔…〕

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125 안회남(1940)‘―小說家의어머니―나의어머님’“조광”(安懐南(1940)‘―小説家の母―私の 母上’“朝光”)66号 19406月 pp.203~204

126 原文の「됴염라傳」を直訳すれば「チョヨムナ伝」と書き表すのがより適切であろうが、ここでは権寧 珉(2012)前掲書、p.21 の表記に従った。

127 漢文などを教えた私塾のことを指し、日本の「寺子屋」に近いものである。

128 안회남(1940)‘先考遺事’“박문”(安懐南(1940)‘先考遺事’“博文”)19406月号 p.3。

「先考」は「(自身の)亡父」の意味である。