第 2 章 文献レビュー
2.2 当事者の「つながり」と「知識」
2.2.4 当事者の知識-「弱さ」を越えて
これまで,当事者は,当事者間,自己,社会との間で,共通性,価値転換,対立・同化といった 観点でつながりをつくってきたことを示してきた。このようなつながりをつくる上での考え方や技法 は当事者の知識といえる。ここでは,それらを統合し,当事者はいかなる知識を用いてつながりを
つくるのか,というメジャーリサーチクエスチョンに答えるため,そして学術的に知識科学的知見を 積み重なるための分析の視点となる知見のレビューを行う。
(1) 体験的知識
当事者の知識にかんする知見としては,「体験的知識(experiential knowledge)(Borkman 1976)」が重要である。これは,セルフヘルプ・グループにおける知識として見出されたものであり,
医学的な専門的知識と対比してとらえられ,理論的というよりも実践的なもの,長期的というよりも
「いまここ」のもの,分割されたものというよりも全体的なものであるとされる(Borkman 1976)。保健 医療の分野においては,知識は専門的自然科学的知識である生物医学的知識と,病いの経験 などに端を発する体験的知識とが対比して語られてきた。医学的知識は専門家によって体系づ けられ発展し,そうした専門的知識は,多くの疾患の治癒を可能にしてきた。しかしながら,同時 に,専門家が素人を支配するようになる「専門家支配」の問題や(Freidson 1970=1992),不完全 な不確実性を伴う医学的専門的知識をあたかも完全なもののように扱うことの問題が指摘されて いる(中川 1996)。また,専門的知識である科学的知識はリアリティの問題への問いに答えるよう に組織されていないという限界を有しているとされる(武井 1993)。医療の分野においては,科学 的に細分化された医学的な専門的知識が重視され,全体を見据える視点が欠けていることが指 摘され(Bateson 1972=1985; Dubos 1959=1964),狭義の専門的知識をしのぐ全体性な複雑さを 踏まえた知識の意義が強調される。そうした問題提起を受けながら,専門的知識と対比して,「体 験的知識」の考察はなされてきた。Borkman(1976)は,体験的知識と専門的知識は相互に排他 的なものではなく,時に専門家も体験的知識を尊重するとしている。そして,体験的知識を,専門 的知識と比して劣っているものではないとする。また,体験的知識と同様に,専門家の専門性に 対して,「日常生活を送る上で生じたさまざまな困難や支援を要する出来事に対処していく能力,
体験者でなければ持ち得ない知恵,工夫,見方(標 2008: 148)」である「素人の専門性(lay
expert)」についてもその存在が強調されている(Prior 2003; 松繁 2010)。当事者の知識を検討し
た研究にて,「チーム医療でより積極的な役割を果たす患者の新しい概念としてナレッジ・エージ ェント(秋本 2010: 109)」が提示されており,これは「知識創造の主体(agent)であり,かつ知識共 有と協働を促進する仲介者(agent)(秋本 2010: 109)」であるとされている。こうした知見は,当事 者は当事者特有の知識でもって,多様な人々や組織との相互作用をとっていることを示している。
このように,保健医療の文脈の中で,知識は科学的,医学的な専門的知識と全体的,実践的 な体験的知識とに区分され,専門的知識の限界と,体験的知識の意義が語られてきた。Kiefer
(2006=2010)は,保健医療において,専門的知識,体験的知識の双方の意義を認めつつ,人類 学的調査にて見出しうる複雑で常に有機的に変化している社会システムに根づいている知識が,
自然主義的知識と比して証明や客観性において弱点はあるものの,問題を有効に理解し,他者 に説得するうえで有用であるとする。そして,浮ヶ谷(2004)が指摘するように,いわゆる当事者の 知識は,科学的知の様式によって退けられてしまい,専門知に比して明らかにされていない側面 があることが考えられる。加えて,当事者の知識としてとらえられる体験的知識は経験すればわか る素人(lay)の知識とも区別され,問題理解や解決の型(template)を発展させるものであり,ある 意味専門的知識のように洗練されているものであり,それらはセルフヘルプ・グループのみならず 様々な文脈で生じるものとされる(Borkman 1990)。
当事者の知識はその重要性や存在が認識されているものの,その実態については未知の部分 が多い。加えて,単に素朴に経験したからわかるということを越えて共有,洗練された当事者の知 識の検討が求められているところである。本研究の目指すところは,つながりをつくるための当事 者の体験的知識を見出すことといえる。
(2) 表現にかかわる知識
本研究は当事者によるパフォーマンスなどの表現活動をフィールドとした研究である。表現にか かわる知見には様々なものがある。当事者と表現という観点でみれば,アウトサイダー・アートとい う形で当事者が新たな芸術的価値をもたらすという視点もあれば(服部 2003 など),病院環境に アートを取り入れる取り組みが医療現場でなされていることなどが示されている(アートミーツケア 学会編 2014 など)。また病跡学という分野にて「特異な性格や精神症状がその人物の創造性や 業績とどのように関連しているか(林 2005: 2)」と,病む人の創造性という観点が検討されている。
そして本研究フィールドとなる表現活動を通した調査もなされ,そこでは表現活動にて表される当 事者である人々の実践や考え方(杉本・伊藤 2010; 杉本 2011, 2013),スタッフなど表現者以外 の人々などの思いや経験(稲田 2014)が検討されている。しかしながら,知識としての検討,とり わけフィールドである病気の表現活動にとどまらない当事者の知識としての検討,また表現がい かに知識と関連するのかといった表現にかかわる知識の検討が課題として残されている。
表現にかかわる「知識」としては,「演劇的知」と表される知識が構想されている。「演劇的知」は ひとつの「〈知〉の新しい範型(中村 1983: 3)」の表現のされ方である。「演劇的知」と表される知識 は,科学の知と対比される知識とされる。つまり,「抽象的な普遍性によって分析的に因果律に従 う現実にかかわり,それを操作的に対象化する(中村 1992: 135)」科学の知に対し,「個々の場 合や場所を重視して深層の現実にかかわり,世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互 行為のうちに読み取り,捉える働きをする(中村 1992: 135)」知識とされる。そして科学的知の構 成原理が普遍主義,論理主義,客観主義であるのに対し,コスモロジー,シンボリズム,パフォー マンスを構成原理とする(中村 1992)。コスモロジーとは場所や空間を「一つ一つ有機的な秩序
をもち,意味を持った領界と見なす立場(中村 1992: 133)」であり,シンボリズムとは「物事をその もつ様々な側面から一義的にではなく,多義的に捉え,表す立場」,パフォーマンスは〈性能〉でも ただなにかをやるだけのことではなく,「身体性を帯びて行為し,行動する(中村 1992: 135)」意 味合いを含むものとされる。そして,パフォーマンスは身体性を帯びることで,自ずと「パトス的(受 動的,受苦的)な在り様(中村 1992: 135)」を含むものとなり,パフォーマンスは〈行動=能動(アク ション)(中村 1983: 259)〉と区別された,「パトス的な劇的行動(中村 1983 259)」ととらえられる。
「演劇的知」は,こうした構成原理を有する知の形態のひとつの表され方となっている。こうした 知識は「演劇的知」のみならず,「パトス(受動,受苦,痛み,病い)の知」「臨床の知」などとして示 されている(中村 1982, 1983, 1992)。これらはすべて「〈知〉の新しい範型(中村 1983: 3)」を示し ており,それらの違いは,「機械論モデルに対して演劇モデル(中村 1983: 3-4)」,「能動的知に 対してパトス的(受苦的,受動的)(中村 1983: 4)」,といった「重点の置き方のちがい(中村 1983: 4)」であり,「ほとんど同じ知の形態(中村 1992: 109)」とされる。
とはいえ,本研究のフィールドは「表現」や「パフォーマンス」の活動であり,演劇的知,パトスの 知が,「パフォーマンス」を構成原理とし,「演劇」がキーワードとなってくることは興味深いところで ある。「演劇的知」との名称にみられるように,こうした知識は本研究のフィールドとなる実践の「パ フォーマンス」「表現」といった特性と密接に結びついており,その関係は,まず「演劇」や「パフォ ーマンス」はパトスの知を構想するのに「有力な手がかり(中村 1992: 112)」となっていることが挙 げられる。たとえばインドネシアのバリ島において,忌避される魔女や悪魔を,退けるよりむしろ祭 り上げる実践を手がかりにして,パトス(受苦,情念,受動)から自己を守り,文化に活力を与える パトスの知が見出されている(中村 1983)。また,演劇の特質に新たな知識の体系をみることがで きる。演劇の特質は「人間と世界とを凝縮して重層的に捉え,描き出すこと(中村 1992: 116)」で あり,「等身大の日常的な人間ではなく可能的な人間を表現することによって,人間の隠れた本質 を捉えること(中村 1992: 116)」である。その特質により,機械論的モデルでは得られないものごと の理解の仕方を演劇から得ることができる。そして,劇的行動は,矛盾した方向性を持つようにみ えるが,パトスの知として理解可能だという。パトスの知を構想した中村(1992)は,劇的行動が,情 念に動かされた受動的行動とも,自己に責任をもった能動的行動ともとらえられ,「能動と受動と いう対比(中村 1992: 118)」で混乱する経験をしたが,その「能動と受動との一見矛盾した結びつ き」は「身体性を帯びた人間の行為を介したもの(中村 1992: 137)」との理解に至ったという。この ように「演劇的知」「パトスの知」は一見矛盾するような物事の結びつきを理解するものの見方とな る。