デュルケームによる自殺の分類に基づき、本章で論じる四作に描かれた「犠牲」
としての広義の自殺とその変則的事例の「身代わり」を考える際、そこに存在する
「集団本位性」と「義務性」にすぐに気づく。すべての「犠牲」において、犠牲主 体の「自我」の存在はまずある超個人的な「集団価値」によって矮小化される。そ こで、犠牲主体はその「集団価値」を実現するために自分の存在を放棄する義務を 感じる。そして、その義務を果たすために彼らは献身的になり、「犠牲」を遂げる。
すなわち、犠牲主体の命は、ある特定の「集団価値」の絶対性を守るための対価と なったのである。
これらの「犠牲」の超感情的・超個人的な動機を思い出せば、そこに存在する集 団本位的な性質を簡単に理解できる。つまり、犠牲主体はその本人にとっての超感 情的・超個人的な外発的要素――道徳的な判断や要求、また主の命令――を、一つ の「集団価値」として理解し、またそれに服従することを、社会・世論から課せら れた義務として受け止め、犠牲行為を一つの「義務」として実行している。その結 果、彼らの「犠牲」行為の背後に顕在的な集団性・利他性が存在していることは理 解にかたくない。
しかし、その集団本位の犠牲には利他性しか存在しないのだろうか。言い換えれ ば、犠牲主体にとって、犠牲行為は顕在的な集団性・利他性以外に、個人性・利己 的な要素は全く存在しないのだろうか。
デュルケームは集団本位的自殺を定義するとき、「道徳は、個人が独立の利害関心 をもたないかぎりにおいてはじめて維持されるものである」と主張している。これ は一見、集団本位的自殺の利己性を全面的に否定するような言い方であるが、これ は自殺の願望が生み出される自殺の発生段階において、私的関心にもとづく行為で ある自己本位の自殺と区別するための定義だと理解したほうが適切であろう。
なぜなら、まずデュルケーム本人が主張したように、集団的価値である道徳に要 求され、最終的に「自殺」は犠牲主体に課せられた「義務」となった。そのため、
ここでの「犠牲=自殺=死」は犠牲主体の道徳義務の達成を意味している。この意 味で、犠牲の実行は、少なくとも犠牲主体本人の中では、ある目的の達成、あるい はある問題に対する解決を意味している。そこから達成感や完結感などの望ましい 感情が生まれるため、犠牲主体にとって、間接的ではありながらも、犠牲行為の中 には利己的要素も含まれていると考えられる。
また、本章の分析対象となる「犠牲」として「自殺」を考える際、前文で論じた ように、場合によって犠牲の動機には「超感情的・超個人的」要素以外に、「感情的・
個人的」という内発要素も同時に存在することがある。犠牲行為――自殺とその変 則的事例の身代わり――の実現によって、この「感情的・個人的」要素から生まれ た個人的欲求も満たされ、そこにも犠牲主体にとっての「利己性」が内包されてい ると解釈できる。
以上の論述では、本論文で考察する四つの演目における「身代わり」を含むすべ ての「犠牲」は実際的には、広義における「自殺」であり、また「集団本位的」と
「義務的」という「利他性・外発性」を軸とすると同時に、間接的な「利己的」要
素も帯びていることが証明された。次の項では、四つの演目に描かれた、それぞれ の「犠牲」の背後に潜む「集団性・利他性」、と「個人性・利己性」を主眼にし、中 日両国の「身代わり・犠牲のファンタジー・タイプ」における「犠牲の具体的形態 と価値」の差異を考察していきたい。
9.3.3 中 日 両 国 の 悲 劇 演 目 に お け る 犠 牲 の 具 体 的 形態と価値
9.3.3.1 道徳本位の「救い」の連鎖――中国式の犠牲
『竇娥冤』と『趙氏孤児』に描かれた登場人物による犠牲行為に注目し、そこに 含まれる「集団的・利他的」要素と「個人的・利己的」要素を取り出すと、以下の 結論にたどり着く。
まず、すべての犠牲行為は犠牲主体が集団的価値判断、つまり道徳に基づいて行 動した結果である。それゆえ、この二つの演目における犠牲行為の実現は、必ずし も犠牲主体の現実的な立場や個人的な感情、または主や上官などによる具体的な命 令の存在を前提としない。竇娥が無実の罪を認め、自分の命と引き換えに蔡婆を救 うのは、「孝」という道徳判断の結果であり、程嬰をはじめとする義士らが趙氏孤児 に助けの手を差し伸べたのも、趙氏一族との個人的なつながりよりもむしろ「忠臣 の血筋を残すべき」という「義」の判断からである。
そして、この二つの演目における犠牲行為には、現実面において、顕在的な集団 的価値判断に基づく「利他性」が存在している。さらに、この「利他性」は、ある 対象に対する犠牲主体側の自発的な「救出行為」という形をもって表されている。『竇 娥冤』の場合、竇娥の「服罪」は蔡婆を官府の拷問から救った。また、『趙氏孤児』に おいて、趙氏孤児の救出は義士らがした一連の犠牲の唯一の目的であり、その結果 である。言い換えれば、この二作において、犠牲は「救い」の代価として存在して いる。それだけではなく、ここでの「救い」は精神的なものではなく、極めて現実 的である。具体的に言えば、犠牲主体の命と引き換えにして、ある登場人物に「生 き続ける」機会が与えられたのである。
さらに、犠牲行為の「集団性・利他性」におけるこのような道徳的基調は、その
「個人性・利己性」にも影響する。その結果、犠牲主体にとって、犠牲行為の個人 的・利己的要素はまず、道徳的・精神的側面に集中している。犠牲主体ら本人によ る自分の道徳的優越感の表明、あるいは正当性に対する強調は、まさにその表現で ある。
自分の死は道徳的に義務づけられた「犠牲」であると信じているため、犠牲の決 断をした瞬間から、竇娥や程嬰をはじめとする義士らは一刻たりとも自分の犠牲行 動の道徳的崇高性を忘れることはない。この道徳的正当性に対する確信と強調は、
彼らに現実的な立場や身分を超えるような優越感を与えると同時に、彼らに道徳的 主導権も提供している。彼らはそこで他人に対して道徳的評価や判断を下す権利を 手に入れたのである。この道徳的優越感の存在は、『竇娥冤』における「天」という 超越性を帯びた存在に対する竇娥の詰問や譴責、そして『趙氏孤児』における上官 である屠岸賈や君主の霊公に対する義士らの態度によっても証明されている。一つ
注意する必要があるのは、この段階において、犠牲行為が犠牲主体にもたらした満 足感は、「便留不得香名万古闻,也好伴鉏麑1共做忠魂(たとえ芳よき名を万古に香らせ ることができなくても、鉏麑とともに忠魂になる)」2のような精神面のものであり、
現実面において、彼らが生きているうちにはその本人にとって一切の問題解決性や 有益性をもっていないことである。
しかし、そこで犠牲主体は「死後の報い」をも求めている。具体的に言えば、自 分の犠牲行動の道徳的正当性を盾に、犠牲主体は死後、自分の犠牲に対するある形 式の「報い」の存在を信じ、それをひたすら期待し、場合によっては要求するので ある。
竇娥は姑の蔡婆を救うために無実の罪を着せられた。処刑の前、彼女はまず蔡婆 に死後の自分を供養するようにと要求する。
念窦娥伏侍婆婆这几年,遇时节将碗凉羹奠;你去那受刑法尸骸上烈些纸钱,只 当把你亡化的孩儿荐。3
このいく年を婆さまに 仕えた竇娥をあわれんで/お節句めぐれば一杯の 冷た い水を供えてくだされ/あの世に逝ったご息子に 供養するとおもいなし/お仕 置うけたかばねにも 紙銭を焼いてくださりませ4
それだけではなく、死の直前に、彼女はまた天に向かって、三つの誓いを言い残 し、自分の無実を証明してくれるようと懇願していた。
そして、第 4 章で触れたように、『趙氏孤児』においては、義士らの参加に伴い、
復讐の欲求が最終的に孤児に渡された時、そこにあるのはもはや「趙氏一族」の恨 みだけではなくなっている。
趙氏孤児を救出するために犠牲となった韓と公孫それぞれの最期の言葉を見てみ よう。
你,你,你要殷勤,照觑晨昏,他须是赵氏门中一命根。直等待他年长进,才说 与从前话本,是必教报仇人,休忘了我这大恩人。5
(汝、汝、汝は、まめまめしく朝晩の世話をしてさしあげるべき。あの方は趙 一門の命の綱に違いなし。成年の暁に、以前のことを申し上げよう。かならず 敵に復讐をさせ、大恩人のこの私を忘れさせないように。)(韓)
畅道是光阴过的疾,冤仇报复的早。将那厮万剐千刀,切莫要轻轻的素放了。6
(光陰はたちまちに過ぎ去りて、恨みはほどなく報いらるべし。屠岸賈を千万 に切り刻み、やすやすと逃がすことなかれ)(公孫)
以上のような台詞で分かるように、孤児救出のために犠牲となった義士ら自身か
1 晋の力士、趙盾を殺すようにと屠岸賈に命じられたが、忠臣を殺すのを拒み、 槐えんじゅうにぶつかり自 害した。
2 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.74。
3 同書、pp.20−21。
4 田中謙二編、『中国古典文学大系 52 戯曲集(上)』、平凡社、1971、p.166。
5 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.74。
6 同書、p.84。