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犠牲の動機

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 186-192)

第 9 章 身代わりと犠牲 1 のファン タジー・タイプ

9.1 犠牲の動機

一方的な加害を惨めに耐え続けるような受動的な「被害」と違い、すべての「犠 牲」と呼ばれる尊い行動には必ず犠牲行為者本人の「主体性」という決定的な要素 が存在する。つまり、誰か特別な人物、何らかの特殊な事情、あるいは何らかの絶 対的な価値のある理念のために、犠牲主体が自ら進んで苦境に踏み込んでいかなけ ればならない。この節では、四作におけるそれぞれの「犠牲」の動機に注目する。

結果的に一つの能動的な選択に見える「犠牲」行為であるが、その触発要素は必 ずしも「主観的・内発的」であるとは限らない。言うまでもなく、「道徳的規範」や

「社会的規則」などのある程度の受動性を帯びた客観的・外発的要素も行動主体の

「犠牲」行動に影響を与える可能性が十分に存在する。一方、このような外的な要

1「復讐のファンタジー・タイプ」と区別するため、同じく「復讐劇」に属する『趙氏孤児』と『仮 名手本忠臣蔵』の二作に対して、この章は個々の復讐の参加者による個人的な「犠牲」に注目し、

「復讐」の全過程――復讐の切っ掛けや終結を含む一つの事件としての復讐――を論じることは しない。

2 以下は『忠臣蔵』と略す。

素が一旦行為者によって受け入れられると、それはまた主観性と能動性を獲得する ようになる。例えば、ある道徳的規範が特定の個人に内面化される際、その個人は 能動的に規範に要求されるように振る舞う、あるいは振る舞おうとする。この意味 で犠牲の動機はある程度の曖昧性を帯びていることは否定できない。本論文の主旨 に沿い、より精確に四作における犠牲の動機を分類し、比較するために、ここでは あえて動機の発生段階における性質に焦点を当て、「感情的・個人的」という内発的 要素を主観的・能動的動機と、またそれと対応する道徳や社会的規範による「超感 情的・超個人的」な外発的要素を客観的・受動的動機と定義し、分類した上で分析 を進める。

9.1.1 中国式の犠牲の動機

狭義、広義の差を問わず、『竇娥冤』と『趙氏孤児』の二つの演目においては複数 の「犠牲」が描かれている。それらの犠牲を見てみると、その複数の犠牲動機に以 下の二つの共通性を窺うことができる。

まず、行為者の最終的な犠牲はある種の対立や衝突の結果となっているが、それ らの対立や衝突は決して単なる個人レベルの私怨や現実的な利益に起因したもので ない。そうではなく、犠牲主体の犠牲へと導く対立はすべて、ある外発的要素――

具体的に言うと、道徳的要素――の介入によって初めて成立するものである。

『竇娥冤』において、竇娥と桃太守に代表された官府との対立は張氏親子に仲介 され、存在している。張氏親子が登場した後、竇娥はまず「婦道」という道徳操守 を謳い、その求婚をきっぱりと断る。その結果として毒殺事件が起こり、竇娥と張 氏親子の衝突は官府まで持ち込まれる。そこで、思いもよらず官府に拷問された竇 娥はまた「孝道」という道徳的基準に沿い、姑の蔡婆を拷問から守るために無実の 罪を認め、死刑に服する。この意味で、張氏親子や官府との対立を経て、最終的に 死にたどり着いた竇娥の犠牲は、最初から「婦道」と「孝道」という二つの道徳的 基準に方向付けられているのである。

一方、『趙氏孤児』の場合、程嬰をはじめとする義士らは例外なく、「忠臣」趙氏 の血筋を残すという「義」を貫くために立て続けに孤児救出の行動に参加していく。

義士らのこのような行動の背後には、二重の道徳的価値判断が隠されている。その 一つは、「趙氏一族」に対する評価である。義士らが孤児を助ける最大の動機(場合 によっては唯一の動機でもある)は、孤児が「善」を代表する「忠義の士」――趙 氏一族に残された唯一の血筋であるからだ。「善」であれ、「忠臣」であれ、「忠義の 士」であれ、言い方は違うが、同じく一つの道徳的価値判断の結果であるに違いな い。言い換えれば、ここで義士らはまず趙氏一族を対象として、一つの価値判断を 下している。その結果、趙氏一族は道徳的に完璧であると判断されたため、趙氏孤 児は救いの対象になり得たのである。つづいて、義士ら自身が評価対象となる二つ 目の道徳的価値判断が登場する。それは、「忠臣」趙氏一族の血筋を助けるのは、「義」

という道徳の一環として自分に課せられた「義務」であるという判断である。義士 らの個人的な立場はそれぞれであるにもかかわらず、孤児救出の問題に関して彼ら の判断が一致しうるのは、彼らが一つの道徳的基盤を共有しているからだと考えら れる。このように、二重の道徳的価値判断に基づき、救出の対象と救出の義務が整 えられ、義士らの「犠牲」も必然的なものになってくる。

そして、このような道徳的要素の介入はこの二作で描かれた犠牲の動機の二つ目 の特徴を形成する。それはつまり、犠牲の動機における感情的要素と超感情的要素

――言い換えれば、道徳的要素――の力関係の不平等である。『竇娥冤』においても、

『趙氏孤児』においても、犠牲主体の犠牲は、例外なく道徳的価値判断という超感 情的な動機に駆動された行動である。その過程において情理的に存在可能な個人 的・感情的要素の介入は意図的に回避されているように見える。換言すれば、この 二つの演目において、個人的な感情や感受より、道徳的価値のほうが絶対的な優位 に立ち、道徳的判断こそが悲劇主体の行動を決定する基準として認められている。

感情的要素に対する道徳的価値判断のこのような圧倒的な優位性は、二作に一つ の共通した傾向を作り出す。実際のところ、二つの演目に登場する悲劇主体の行為 や判断は普遍的な道徳的要求と完璧に一致するが、現実的な側面においては必ずし も彼らが抱くはずの自然な個人的感情と合致しているとは限らない。

まず『竇娥冤』を見てみよう。この劇におけるストーリーの展開は張氏親子に介 入されながら、悲劇主体である竇娥の蔡婆に対する態度とも密接に関連している。

すべての始まりは張氏親子の言い寄りに対する竇娥の反対である。「婦道」という女 性の守るべき「道徳」を旗印として、竇娥は再婚を断固断る。また、再婚を承諾し た蔡婆に彼女は皮肉めいた戒めを与えた。

第3章「『竇娥冤』における悲劇の構造」、3.3「対立・衝突に対する態度」におい てすでに引用した竇娥の以下の台詞をもう一度見てみよう。

遇时辰我替你忧,拜家堂我替你愁;梳著个霜雪般白䯼髻,怎将这云霞般锦帕兜?

怪不的女大不中留。你如今六旬左右,可不道到中年万事休!旧恩爱一笔勾,新 夫妻两意投,枉教人笑破口。

(中略)

想当初你夫主遗留,替你图谋,置下田畴,早晚羹粥,寒暑衣裘,满望你鳏寡孤 独,无捱无靠,母子每到白头。公公也,则落得干生受。

(中略)

你道他匆匆喜,我替你倒细细愁:愁则愁兴阑删咽不下交欢酒,愁则愁眼昏腾扭 不上同心扣,愁则愁意朦胧睡不稳芙蓉褥。你待要笙歌引至画堂前,我道这姻缘 敢落在他人后。1

まがつ神避け 良き日をえらび/香華ととのえ ぬかずく仏壇/霜なすまげを櫛 けずり/あかねなす錦の帕ひれが さだめしよくお似合いでしょ/なるほどおなごは 年たけて 家においてはならぬもの/あなたはいまや六の身/まこと人は中 年に 到れば すべておしまいです/ふるき恩えに は たちまち帳消し/あらたな 夫おとが意気投合/これじゃ 世間の物笑い

(中略)

おもえばそのかみご亭主が/婆さまのため 思案して/田はたを遺産に買いもとめ/

1 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983pp.11−12

朝な夕なのスープとお粥/四季の衣裳もみな足りて/後みなしごの 寄るべな き/母おやふたりが 水入らず/しらがの末まで いっしょに暮らすをのぞまれた/

おじいさま あなたの苦労も水の泡

(中略)

あのひとたちはうれしがり そわそわしてるとおっしゃるが/あたしゃ婆さまの ため こまごま気づかう/三三九度の杯も 興ざめてのど通るまい/契り固める ボタンとて かすむ眼でははまるまい/蓮はすのしとねもおちおちと あたま呆ほおけて 眠れまい/管絃の音にみちびかれ しずしず進もうつもりでも/あたしゃにらん だこの婚礼 人さまなみにはゆきかねる1

この時の竇娥はまるで道徳そのものの化身である。「满望你鳏寡孤独,无捱无靠,

母子每到白头。公公也,则落得干生受(母子ふたりが 水入らず/しらがの末まで い っしょに暮らすをのぞまれた/おじいさま あなたの苦労も水の泡)」の台詞から、彼 女は自分の死んだ舅の代弁者の立場にあり、蔡婆に亡夫のために「母子ふたりで」

生きていくことを要求している。ここにおいて、竇娥は完全に男性的な立場に立ち、

「婦道」を盾に、同じ未亡人である蔡婆を糾弾している。その言葉の辛辣さの背後 には、長年自分を育て、夫が死んだ後互いに頼り合って生きてきた姑に対する感情 や理解どころか、最低限の婉曲な言葉遣いさえ見当たらない。

しかし、官府で、自分が罪を認めないと蔡婆が拷問されると聞いた途端、彼女の 蔡婆に対する感情は一瞬、解放されたように表に現れ、姑の蔡婆を救うために自分 を犠牲にすると決めた。

竇娥の一連の行動を考えると、彼女の感情的表出や態度はつねにその場で求めら れている具体的な道徳的判断に服従していることに気づく。再婚に反対し、蔡婆を 辛辣に諷刺する時は「貞節」や「婦道」という道徳的規範が彼女の態度を左右して いるのに対して、蔡婆を守るため無実の罪を認めるのは、「孝」という道徳的要求に 対する服従の結果である。

一方、『趙氏孤児』における状況も極めて類似している。道徳的正当性こそが、義 士らの判断と行動に影響する最も根本的な要素である。その結果として、義士らと 趙氏一族の個人的なつながりは重要視されず、また、義士らの具体的な立場、さら にその立場から自然に生まれるはずの個人的感情も全部隠されているように見える。

程嬰をはじめとする義士らの立場設定はそれぞれであるが、趙氏一族との間には

「曖昧な」関連性しか存在しない点においては共通である。「趙氏一門」とは言えな いため滅門の惨禍から逃れた「草沢医士(民間の医師)」といい、敵側の将軍といい、

退官したもとの同僚といい、誰一人として趙氏の家臣ではない、また我が子や自分 の命を犠牲にしてまで趙氏孤児を助けるほどの個人的な恩義をも持っていない。

特に、嬰児救出の最初の段階に大きな役割を果たした韓厥に関する設定は代表的 である。趙氏の一門には入っていないが、「趙氏に優遇された」程度の個人的な情誼 がまだ存在する程嬰と違い、彼は敵役屠の配下という設定で登場したのである。屠 のもとで下将軍にまで昇進することのできた韓が、屠の「知遇の恩」をこうむって いることは情理にかなう。しかしここで、この個人レベルの感情的要素は「我於屠

1 田中謙二編、『中国古典文学大系 52 戯曲集(上)』、平凡社、1971p.155

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 186-192)