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6.1 『熊谷陣屋』に関する先行研究

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 115-120)

現段階で、中国における『熊谷陣屋』に関する研究はまだ行われていない。日本 においては、『一谷嫩軍記』の作品自体に対する評価は高いものの、『熊谷陣屋』の 関連研究はさほど広範囲ではなされていない。そして、その数の多くない研究の中 には、浄瑠璃と歌舞伎の本来の性質の差異から『熊谷陣屋』の歌舞伎化の過程と変 貌を考察するもの2がかなりの比率を占め、劇の筋に注目し、そこから悲劇性を見出 す試みは稀である。

数少ない内容研究の中には、『熊谷陣屋』の悲劇的性質に関する鋭い見解も存在し ている。水原信子(1996)は、論文「浄瑠璃における身代わり――一谷嫩軍記・熊 谷陣屋の段を中心に」3において、陣屋の段を例にして、浄瑠璃における身代わり設 定の共通性――運命や社会の仕組みに翻弄される悲哀感――に辿り着いた。河竹登 志夫(1967)は、その著書『比較演劇学』の中で、「日本近世悲劇の家族悲劇的性格 について」という一章を設け、西洋悲劇と比較する立場から『熊谷陣屋』の悲劇性 を論じている。しかし、今の時点で中日比較文学の視点から『熊谷陣屋』を考察す る研究はまだ見当たらない。

1 河竹登志夫、『比較演劇学』、南窓社、1967

2 諏訪春雄、「自由と制約――『熊谷陣屋』論」(『歌舞伎-研究と批評』、(2)、1988)、上村以和於、

「熊谷の変貌」(『歌舞伎−研究と批評』、(2)、1988)など。

3 水原信子、「浄瑠璃における身代わり―― 一谷嫩軍記・熊谷陣屋の段を中心に」、『古文学の流域』、

新典社、1996

この章では、これまでの先学の研究成果を基本的に受け入れつつ、中日比較文学、

中日比較悲劇という新たな角度から着目する。中国の悲劇作品との比較を意識にお きながら、具体的には、『熊谷陣屋』における身代わり設定をめぐり、身代わりの動 機と悲哀感情の表出の形を中心に分析を進める。

6.2 『熊谷陣屋』のあらすじ

『熊谷陣屋』は身代わりというモチーフを核とした一篇の推理劇として成立して いる。

時は春。陣屋の前に桜が咲き、その傍に、「此花江南所無也。伐一枝者可剪一指。」

の義経が書いた制札が立てられる。劇は熊谷の妻、相模が陣屋へ到着する場面によ って正式に幕を開ける。息子小次郎の初陣を心配し、陣屋まで駆けつけた相模は、

梶原の郎党番場忠太に追われて陣屋に逃げ込んだ藤の局と遭遇する。藤の局から熊 谷が敦盛を斬ったことが知らされる。

そこに熊谷が陣屋に戻り、息子の様子を気遣う相模に、小次郎の初陣の手柄や、

自分が敦盛を討った功名話を語りかける。それまで隠れていた藤の局が、怒りを抑 えきれず切りつけてくる。熊谷は局を慰め、敦盛の最後の様子を物語る。

すると、奥より大将義経があらわれ、この場で敦盛の首実検が行われる。熊谷が 差し出した首を見、義経はよくぞ討ったと満足するが、実際のところ、その首は敦 盛のではなく、小次郎の首である。熊谷は、義経が「伐一枝者可剪一指」(一ひとえダきラば.

ゆび

いつ

ぽんきるべし1)という法度書にこめた意、つまり「院の落し胤である敦盛を戦の犠 牲にしてはいけない。いざとなったら、自分の子を代わりにしろ」という義経の心 を察し、悟られぬようわが子小次郎を敦盛の身替りとしたのである。

息子を犠牲にし、世の無常を感じた熊谷は、ながの暇を乞うて出家の道を選ぶ。

6.3 身代わりをめぐる「動機」

言うまでもなく、劇の筋における最も重要なトリックは、討たれたはずの敦盛は 生きていて、熊谷が討ったのは実は自分の息子の小次郎であったという「身代わり」

の設定であり、この身代わりの局面は同時に悲劇のクライマックスにもなる。この 節では、『熊谷陣屋』における「身代わり」の設定に注目し、身代わりを「実施する 側」、身代わりを「命じる」側、そして、その計画から外され、その結果を受動的に 受け入れるしかない「受け入れる側」という三つの角度からその人々の動機と心情 を分析していきたい。

6.3.1 身代わりを「実施する」側の動機

身代わり悲劇のクライマックスは三段目の『熊谷陣屋』であるが、そのための伏線 がその以前から用意され、敷かれていることは河竹登志夫をはじめとする先学によ

1 祐田善雄校注、「一谷嫩軍記」『日本古典文学大系99 文楽浄瑠璃集』、岩波書店、1965p.231

って論じられてきた。

悲劇のクライマックスが成立するための伏線、いわゆる“仕込”は第一段に周 到に用意されている。義経は熊谷の一の谷出陣に当たり、弁慶に筆を取らせ、

短文を一つ認めた高札を渡す。その中には「此花江南所無也。伐一枝者可剪一 指」とある。1

『熊谷陣屋』は熊谷がこの謎をどう解いたのかとの物語である。三段目陣屋の場 になってはじめて真相が明らかになるが、この言葉は、天皇の血をひく敦盛を切る ならば一子――小次郎を切るべしの意を花に例えたもの、つまり、身代わりを立て て、敦盛の命を助けよという意味である。熊谷は義経の掛けたこの謎を解き、主の 本意を察し、命じられたままに敦盛の身代わりにわが子の首を討った。言い換えれ ば、義経と熊谷の主従関係に基づいた謎めいた「命令」はストーリー展開の原動力 になっていると言えよう。この意味で、河竹は、義経と熊谷の間に存在し、熊谷と 小次郎の間の「親子関係」にも優先する絶対的な「主従関係」を、「他のあらゆる人 間関係(夫婦も親子も)に優先するという絶対的な近世社会の非情な規律」2と呼び、

悲劇の根本動因と見なした。

確かに河竹が指摘したように、義経と熊谷の間に存在する「主従関係」は、『熊谷 陣屋』の外的な動因として認めなければならない。しかし、この外的な動因ととも に熊谷の行動を支えたもう一つの内的な動因の存在を見落とすこともできない。

あらすじで触れたように、「熊谷桜ノ段」で、梶原平次景高の郎党である番場忠太 に追われ熊谷の陣屋に逃げ込んだ藤の局は、そこで相模と遭う。熊谷が陣屋に戻る 前のこの二人の会話を通じ、二人が以前、深い関係であったことも観客の前に明ら かにされる。

まず、十六年前、藤の局が法皇に仕えていたころ、大内では、藤の局と相模二人 が主従の関係であった。それだけではなく、その時、まだ北面の武士であった熊谷 と相模との不義が発覚した際、二人を逃し、彼等を助けたのも藤の局であった。す なわち、熊谷夫婦には、旧主の藤の局によって助けられた恩義がある。言い換えれ ば、今の主――義経の至上命令以外にも、熊谷夫婦と敦盛の生母藤の局との間に昔 の恩情という繋がりがある。この恩義の存在ゆえにこそ、「義経も、「此の禁制の心 を喩し、若木の桜を守護せん者、熊谷ならでは外になし」とするのである」3。 これで分かるように、身代わりという熊谷の犠牲は単なる「主従関係」に基づく

「命令」という、外的で、強制的な理由だけによるものではない。藤の局による「恩 義」とそれに対する「恩返し」という内的で、自発的な動機の存在も見落とすこと はできない。

6.3.2 身代わりを「命じる」側の動機

熊谷以外にも、外的な「主従」と内的な「恩義」という二重の関係に縛られ、こ の二つの動機によって動かされた人物がいる。それは、身代わりのトリックを計画

1 河竹登志夫、『比較演劇学』、南窓社、1967、p.111。

2 同書、p.111

3 武智鉄二、「熊谷陣屋検討」、『定本武智歌舞伎 武智鉄二全集3 文楽舞踊』、三一書房、1979、

p.227

し、熊谷に命じた義経である。

義経が身代わりを命じてまで敦盛を助けようとする最大の理由は、言うまでも無 く、敦盛の血筋にあるだろう。

番場忠太に追われ、陣屋に逃げ込んだ藤の局の前に、相模が現れる。敦盛の身の 上の状況は、藤の局と相模の再会のシーンで明かされる。

まこと

に 一 昔ひとむかしは夢ゆめと 申もうすが。大内おおうちに御座 あそばす時とき。勤番きんばんの武士 佐竹さ た け次郎じ ろ う殿どのと馴初なれそめ。 御所ご し ょを抜出ねけんであずま東へ下くだり。お前様まえさまのお身の上を 承うけたまはれば。御くわい㜳胎たいのお身ながら 平家へ い けの御家門ご か も ん。参議さ ん ぎ経盛様方つねもりさまかたへ縁付えんづきたもふとの 噂うわさ1

このように、相模の話を通じ、敦盛は実は藤の局が大内にいた頃に妊娠したとい うことが知らされる。

この伏線があるため、「かく法王の実子たる敦盛なればこそ、義経が特に助命しよ うとするのであり、熊谷が義経の命令を絶対に遵奉するわけでもあるのだ」2。つま り、敦盛が後白河院の「ご落胤」であったがゆえ、彼は「江南所無」な花であり、

源平の争いを超越するような存在になるのである。この意味で、敦盛の血筋の背後 に隠された「君臣」という主従関係とその要求は、この劇の一つの前提になり、義 経が謎を掛け、兄頼朝との不和を冒し、熊谷に身代わりを立てさせる外的な動因と 言えよう。

しかし、これは果して身代わりのトリックの唯一のきっかけと言えるのだろうか。

身代わりの真相を知り、鎌倉にいる頼朝へ注進しようとした梶原は、弥陀六――

実は、かつて幼い頼朝・義経ら兄弟を助けた弥平兵衛宗清である――に殺される。

義経は宗清の本当の身分をを見抜いて、彼に声を掛けた。

そのむかシ其 昔 母はは

常盤と き わの 懐ふところに抱ンだかれ。伏見ふ し みの里さとにて雪ゆきに凍こごへしを。 汝なんじが 情なさけを以もつて親子お や こ 四人よ に ンが 助たすかりし嬉うれしさ。其そのときは我われ三歳さんさいなれ共ども面影おもかげは目さきに残のこり。見覚みおぼえあル眉間み け ンの ほくろナコリヤ。隠かくシてもサ隠かくされまじ。重盛しげもり卒去そつきょの後のつ行衛ゆ く えしレずと聞ききしが。堅固け ん ご で居たな満足まんぞくや。3

これによって、義経に対する平家の恩義という伏線が成立するようになる。その ため、この後敦盛が隠れた鎧櫃を宗清に渡すという義経の決断は、「義経が宗清に恩 を返す」4ための行動としても見られる。

1 祐田善雄校注、「一谷嫩軍記」『日本古典文学大系99 文楽浄瑠璃集』、岩波書店、1965、p.233。

2 武智鉄二、「熊谷陣屋検討」、『定本武智歌舞伎 武智鉄二全集3 文楽舞踊』、三一書房、1979 p.227。

3 祐田善雄校注、「一谷嫩軍記」『日本古典文学大系99 文楽浄瑠璃集』、岩波書店、1965p.248

4 水原信子、「浄瑠璃における身代わり―― 一谷嫩軍記・熊谷陣屋の段を中心に」、『古文学の流 域』、新典社、1996p.450

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 115-120)