第 3 章 『竇娥冤』における悲劇 の構造 の構造
3.4 司法正義に対する態度
ここではまず、悲劇的対立の第一回目の審級上位化に注目してみよう。
北京大学法学院教授蘇力は「竇娥の悲劇――伝統司法の中の証拠問題」3という論 文において、法学者独特の視線で今までの演劇研究と全く違う方向から竇娥の悲劇 にアプローチした。彼によると、竇娥の悲劇は一人の不正な官吏による冤罪ではな い。むしろ、桃太守が訴訟費用を強要するのも、竇娥を拷問するのも当時の司法制 度の不健全さの所産であるため、竇娥の悲劇は桃太守に悪意のないまま起こった「典 型的な司法悲劇」である。言うまでもなく、このような今までの主流論調と余りに も食い違う論議は、すぐさま演劇界に波乱や反論を呼んだ。蘇力が主張した論拠は 歴史的な司法現実に偏りすぎで、文学作品としてではなく、完全に一つの「史実」
として『竇娥冤』を見ようとしているところは、確かに問題が残る。
しかし、彼は同時に伝統的な『竇娥冤』研究に「司法」という斬新な角度から示 唆を提供したともいえる。ここでは、人為的に創作された文学作品の中から、歴史 的司法制度の限界を無理に探し出すより、むしろ、描かれた登場人物の「司法」に 対する態度に注目したい。
「我又不曾药死你老子,情愿和你见官去来(あたしゃおまえの父さんを毒殺した おぼえはまったくないもの。いっしょにお役所に行きますわ)」の一文で分かるよう に、張驢児の誣告と脅しに対し、竇娥がなんの恐れもなく、「官休」を選んだ理由は
「我又不曾药死你老子(あたしゃおまえの父さんを毒殺したおぼえはまったくない
1 田中謙二編、『中国古典文学大系 52 戯曲集(上)』、平凡社、1971、p.162。
2 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.26。
3 蘇力、「竇娥的悲劇――伝統司法中的証拠問題」、『中国社会科学』、2005年第2期、pp.96−108。
もの)」のたったの一語である。劇のプロットから見て、分析を加えるべきものがな いこの「事実」が、角度を変えれば竇娥の司法系統に対する態度を鮮明に描き出し ている。ここで竇娥が強調したのは彼女にとっての主観的な正当性、言い換えれば この場合、張の父を毒殺していないという自分の中の「真実」だけで、公的な司法 裁判で必要とされる客観的な条件――証拠は彼女によって完全に無視されていた。
如果从桃杌或者其他非该事件经历者的立场上看,即从陌生人的立场上看,张驴 儿在公堂上提出的证据和理由都更有道理。最重要的一点是,死者是张的父亲。
一般说来,儿子毒死亲生父亲的可能性尽管不是没有,但这种可能性要比窦娥或 蔡婆婆毒杀张父的可能性要小得多。1
桃杌あるいは事件を経歴していないほかの人、つまり他人の立場から見れば、
張驢児が提出した証拠と理由の信頼度はより高い。最も重要なのは、死者は張 の父だということである。一般的にいえば、息子が実の父親を毒殺する可能性 はないとはいえなくとも、竇娥あるいは蔡婆がやった可能性と比べると遥かに 小さい。
蘇の結論には賛同しなくても、彼のこの論点には注意する必要があるだろう。
「我家的老子,倒说是我做儿子的药死了,人也不信2(おらの親父だぜ。せがれの おらが毒殺したというても、誰もほん気にしやしねぇ3)」事実はどうであれ、張驢 児の主張は人情にかなうところがある。それだけではなく、審理の過程において、
竇娥本人も「适值我婆婆患病,著小妇人安排羊肚儿汤吃4(ちょうどうちの婆さまが 病気にかかり、あたくしに羊䐗兒湯をつくらせました5)」といい、自分が問題にな るスープを作ったことを認めている。無論、これだけでは彼女が毒を入れた証拠に はならないが、少なくとも彼女にはそういうチャンスがあることを証明することが できる。当事者である張驢児と竇娥以外に、誰も「真実」を知らない、しかし、裁 判で提出できるような証拠は人情の面においても、情理の面においても、張驢児の ほうが優位に立つ。竇娥はこのような客観的な不利を完全に無視した上で、「官休」
の道を選んだのである。
ここでわかるのは、竇娥が司法正義に対する期待は完全に自分の中の「真実」に 依拠しており、「真実」とは完全に一致しないが、客観的な証拠によって証明できる 司法的な意味での「事実」は、彼女にとって意味がないということである。張驢児 が主張した「事実」――ある意味で、合理的な疑いのない(少なくとも、少ないと いうべき)「事実」――を前にして彼女が少しも躊躇していなかったのも、処刑され るまえの最後の一刻になって、彼女と司法系統の対立をさらに上位な審級である
「天」に引き渡すのも、この「真実本位」の司法正義観があるからこそである。こ の意味で、竇娥が最後に、「天」に向って懇願したのは、現実の司法に対する「非現 実的」な司法正義の期待が裏切られた結果とも言える。
1 蘇力、「竇娥的悲劇――伝統司法中的証拠問題」、『中国社会科学』、2005年第2期、p.98。
2 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.16。
3 田中謙二編、『中国古典文学大系 52 戯曲集(上)』、平凡社、1971、p.161。
4 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.17。
5 田中謙二編、『中国古典文学大系 52 戯曲集(上)』、平凡社、1971、p.162。
3.5 「天」に対する態度
前述のように、婿入りをめぐる竇娥と張驢児の間の対立は立て続けに上級審級に 引き渡されながら、舅殺しの罪名をめぐる竇娥と官府の対立を経て、最終的に、不 公平な運命に基づいた、竇娥と天の対立になる。このように、竇娥をめぐるすべて の対立は彼女と「天」の対立に合流することによって、『竇娥冤』における悲劇的展 開の一つのクライマックスが迎えられる。まさにそれと同時に、これまでのすべて の対立・衝突とともに、悲劇そのものも「天」と密接に関わった形で、最終的な解 決に向かい収束していく。
その対立・衝突の具体的な解決法を見てみると、直接的、間接的という違いが存 在するが、いずれも「天」の意志に基づき、「天」によって実現されることが分かる。
処刑される直前、竇娥が言い残した三つの願望を彼女が死んだ後に全部実現させた のは、言うまでもなく「天」の超越的な力である。そして、彼女の亡霊に真実を知 らされ、最終的に公正な裁判をやり直し、竇娥の無念を晴らす竇天章も、「天」、よ り正確に言うと、人間界における「天」の代弁者――「天子」により絶対的な権力 が付与され、その意志の一人の実行者であるしかない。
このようなストーリー展開と対立の解決策が用意されていることの帰結として、
『竇娥冤』において、「天」に対する期待や信頼、またそれが裏切られるような状況 に置かれるときの悲劇主体の心理的葛藤や態度はきわめて鮮明なものとなっている。
そのため、この演目は中国古典悲劇における「天」の形象と「天」に対する態度、
いわば理想的な「天人関係」を考察するための貴重な手掛かりになると考えられる。
『竇娥冤』の第三折──「法場」の折──に竇娥が処刑される前に天を問い詰め る名場面がある1。
没来由犯王法、不提防遭刑宪、叫声屈动地惊天、顷刻间游魂先赴森罗殿、怎不 将天地也生埋怨。
有日月朝暮悬,有鬼神掌著生死权。
天地也只合把清浊分辨,可怎生糊突了盗蹠颜渊。
为善的受贫穷更命短,造悪的享富贵又寿延。
天地也做得个怕硬欺软,却原来也这般顺水推船。
地也,你不分好歹何为地;天也,你错勘贤愚枉做天!
哎,只落得两泪涟涟。2
王法おかす大罪を いわれもなく着せられて/おもいもかけぬ お仕置に遭う/ 濡れぎぬ叫ぶわが声は 天あめ地つちにこだまする/わが 魂たましいはつかの間に 飛びてむか わん森しん羅ら殿/怨みは深し 天あま地つちにさえ/朝な夕な日と月は 空にかかりて輝くに/ 生死の権を掌る 鬼神もありて見守るに/天地こそ清濁の けじめをつけてくれ
1 その部分は1995年人民教育出版社による『全日制普通高級中学校課程標準』が編訂されて以来、
一貫して『高級中学 語文』(現行2007年版『語文』必修第4冊:第一単元 第1課『竇娥冤』)
に収録されているため、『竇娥冤』の中で、最も代表的で最もよく知られた部分であるといえよ う。
2 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.19。
るべきに/なぜ盗とう蹠せきと顔淵を ごちゃまぜにされまする/善き行いを修むるが 貧に悩み若死にし/悪しきが富みて長生きする そりゃあんまり聞こえませぬ/
天あま地つちまでが強きを恐れ 弱きをいじめ給うとは/善きと悪しきを分かちえず 地 が聞いてあきれます/賢さときと愚おろかを裁きえず 天の名がすたります/ああ かよ わきものは泣きぬれるのみ1
「地也,你不分好歹何为地;天也,你错勘贤愚枉做天(善きと悪しきを分かちえ ず、地が聞いてあきれます。賢きと愚かを裁きえず、天の名がすたります)」の文は 明らかに、竇娥から天に対してなされた最も直接的で、最も激しい詰問である。
しかし、このような問い詰めは悲劇主体である竇娥の心理における突然の変異で はなく、それ以前に一連の伏線があり、その後もストーリーの展開とともに発展し ていく。以下では、天人関係の角度から、『竇娥冤』における竇娥の心理的変化の過 程を見ていきたい。
結論から言えば、竇娥による「天」に対する具体的な態度はストーリーの進展と ともに、天に対する服従、天への懇願、そして、天を問い詰め、最後には天人感応 するという四つの段階に分けることができる。
第一折で、三歳で母を亡くし、七歳で父と離別し、十七歳で人妻になり、二十歳 で未亡人となった竇娥は、自分の人生に起きた一連の不幸に対して、このような曲 を詠う。
满腹闲愁,数年禁受,天知否?天若是知我情由,怕不待和天瘦。2
胸にみちる すずろの愁い/よくも耐えし この幾いく年とせ/天は果たして知り給うや/
天もし知らば/さぞかし天も痩せ給わん3
この曲では、「天」が三度も繰り返されることで、天と人の相互関係が強調されて いる。ここで、「天」が擬人化、人格化される傾向が見られる。「天知否(天は果た して知り給うや)」、「天若是知我情由(天もし知らば)」、「怕不待和天瘦(さぞかし 天も痩せ給わん)」などの描写からは、「天」を一つの意志を持ち、「我」に対する感 情を持つ超越的な実体として看做していることが分かる。「天」に対してこのような 認識(あるいは期待)を抱くがゆえに、竇娥はつねに天が自分の感情や事情を察し てくれるという信念を持っている。
しかし、圧倒的な悲劇的現実に対面するとき、自分の苦難に同情し労わってくれ るはずの「天」が、どうして自分に耐え切れないほどの不幸に見舞われさせるのか という疑問は必ず出てくる。この疑問に対する答えとして、竇娥はまずこのように 言う。
莫不是前世里烧香不到头,今也波生招祸由。劝今人早将来世修。我将这婆侍养,
1 田中謙二編、『中国古典文学大系 52 戯曲集(上)』、平凡社、1971、pp.164-165。
2 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.10。
3 田中謙二編、『中国古典文学大系 52 戯曲集(上)』、平凡社、1971、p.153。