7.1 『仮名手本忠臣蔵』に関する先行研究
7.4 忠臣たちの復讐:「仇討ち」
7.5.1 コミュニケーション手段としての死
7.5.1.3 本蔵の死
娘小浪の嫁入りを認める代わりに、本蔵の首を所望すると小浪母娘がお石に迫ら れるところに本蔵が現れる。お石へ散々悪態をつき、それにたまりかねた力弥に槍 で突かれる。ここに登場する由良之助は、留めを刺そうと槍を取り直した力弥を止 める。
これにより、本蔵にとっての「死の場面」も成立することになる。この二人の間に 行われるコミュニケーションを見てみよう。
一別以来珍しゝ、本蔵殿.御計略の念願とゞき.婿力弥が手に掛つて.さぞ本 望でござらうの3
これは力弥を止めた由良之助が傷ついた本蔵に向けた最初の言葉であり、本劇に
1 加藤秀俊、「沈黙の言葉・死の言葉―忠臣蔵のコミュニケイション」、『思想の科学』、1960年12 月号、p.34。
2 のちの7.5.2「「死」の価値――責任を取るための手段としての「死」」で詳しく論じるが、本論
は「死」がコミュニケーションを加速させ、その効率を高めることができるのは、「死」が弁解 者の責任に対する清算と見なされているからであると主張する。
3 長友千代治(校注・訳)、「仮名手本忠臣蔵」、『新編日本古典文学全集 浄瑠璃集』、小学館、2002、
p.125。
おいて、本蔵との最初の言葉でもある。図星であった由良之助のこの言葉に本蔵は 目を開き、「大いにおしゃべり」をし、由良之助の心底を見抜いた上で、師直に賄 賂を贈ったことから、判官を抱きとめた原因とそうした自分に対する後悔まで、今 まで言わなかったことを一気に打ち明ける。彼のその長い告白は、この一文から始 まっている。
主人の鬱憤うつぷんを晴さんと、このほどの心づかひ.遊所いうしょの出合ひに気をゆるませ.
徒党の人数にんじゆはそろひつらん.思へば貴殿の身の上は.本蔵が身にあるべきはず.
1
このように、由良之助が本蔵の力弥の手に掛かりたいという真意を見抜いている だけではなく、本蔵もまた由良之助の遊廓での遊びが実は芝居であることを見抜い ている。つまり、この初対面のシーンにおいて、現実的な立場の全く違うはずの二 人は、一瞬で互いの本意を見抜いたのである。その上、「思へば貴殿の身の上は.本 蔵が身にあるべきはず」の一語で分かるように、もし、師直に賄賂を贈らなかった ら、今由良之助の身の上にあることは全部、自分の身にあるべきはずだと、本蔵は 由良之助の今の立場や行動を完全に理解している。
ふつう、完全なるコミュニケイションとは、明晰なシンタックスにのった、論 理的な意味の交換によってはじめて可能だ、とされている。つまり、おしゃべ りを繰りかえさなければ、意味の明確な伝達はむつかしい、と考えられている。
(中略)だが、これだけ、互いに徹底的にコミュニケイションを深め、つみ上 げても、完全な理解、調整はできない。(中略)日常生活のなかでも、おなじ ようなケースはいっぱいある。「話せばわかる」というのは一面の真理だし、
話すことでよりよくわかるというのは事実だが、完全にわかり合えるかどうか は、疑問なのだ。2
しかし、「話さないでもわかる、という哲学、ないし可能性」は、由良之助と本 蔵の間に確実に存在している。「話すには及ばないから話さない」コミュニケーシ ョン――それこそ、加藤の言う「完全なるコミュニケイション」である。
かれらは、それぞれの個人を超越した、全く同一の意味母胎を共有しているが ゆえに、集約されたひとつのゼスチュア、あるいは眼くばせで、相手方の意味 を全面的に自分のなかにとりこむことができる。柳田国男が「世間話」のなか で指摘したように、古い共同体の成員どうしのコミュニケイションというのは そうしたものであった。ひとつひとつのことがらについて、文法規則にもとづ いた言語表出をするまでもなく、ただ、顔を見ただけで、相互のコミュニケイ ションは成立しえたのだ。共同体という超個人的な意味の貯水池のなかに身を ひたしていることで、ひとりひとりの人間は、わざわざモノを言う必要がなか
1 長友千代治(校注・訳)、「仮名手本忠臣蔵」、『新編日本古典文学全集 浄瑠璃集』、小学館、2002、
p.125。
2 加藤秀俊、「沈黙の言葉・死の言葉―忠臣蔵のコミュニケーション」、『思想の科学』、1960年12 月号、p.30。
ったのである。1
ここで、「貴殿の身の上は.本蔵が身にあるべきはず」という二人の間で行われる
「話さなくても分かる」ようなコミュニケーションはまさにこのような完全なるコ ミュニケーションといえる。
同時に、もう一つ注意すべきなのは、由良之助と本蔵の二人の立場である。本蔵 に抱きとめられ、無念の死を遂げた判官のために、由良之助は命を捨てる覚悟で復 讐を決意した。一方、その由良之助に娘の嫁入りの条件として、本蔵は自分の死を 要求された。たとえ「敵」とは言えなくとも、この二人は決して同じ立場ではない。
しかし、「話すには及ばないから話さない」という完全なるコミュニケーションは、
このような二人の間で行われた。すなわち、この二人の間に存在する「個人を超越 した、全く同一の意味母胎」は、二人がそれぞれ属している現実的な立場とは関係 していない。二人の間には、今までのお家断絶ほどの悲劇に及んだ出来事とは全く 別の次元において一つの「共同体」、あるいは「意味母胎」が形成されている。そ れは、互いに短気で思慮浅はかな主人(若狭助と判官)を持ち、またその主のため に忠義を尽くした家来の間の暗黙の理解である。立場の違いがありつつも、二人は この意味で、似通った苦しみを味わっている。そして、彼らもまたそのことに気づ き、互いが共に苦しんでいるということを認めている。このような具体的、現実的 な立場を超えるような「理解」の上で、「貴殿の身の上は.本蔵が身にあるべきはず」
の一言から分かるように、「今の立場は違うが、その立場さえ変われば、私もあなた と同じ行動を取るに違いない」という、相手を完全に理解するコミュニケーション が成立している。さらに、自他関係の角度から見れば、本蔵はここで自分と由良之 助との間に本質的な区別が存在することを根本から否定しているように見える。彼 から見れば、今二人は一見違う主に仕え、また違う立場に立っているが、それはた だ境遇の巡り合わせの結果でしかない。そのため、目の前の立場が一致していなく ても、二人の間にはコミュニケーションを妨げる根本的な対立や違いは存在しない。
むしろ、運命や境遇に流され、惑わされる面において、二人は深く繋がっているの である。このように、この二人の間には、現実的な次元を超えるような横方向の感 情の流動が実現されうるのである。
続いて、「死」を目前にして本蔵もようやく自分の行為について弁解し始める。
まず、師直に賄賂を送ったのは、「心に染そまぬへつらひも、主人を大事と存ずるか ら」2であり、短慮な主を助けるために武士の本心に背いたことであると本蔵は主張 する。また、判官の行動を阻止するために彼を抱き留めたのも、「相手死なずば切腹 にも及ぶまじ」3という判断があったからであると彼は強調する。しかし、それは結 局本蔵の思い過ごしであり、判官は切腹を命じられた。判官が無念を抱きながら死 んだことを、本蔵は「一生の誤り」4と自覚する。それだけではなく、そのことは、
結局「娘が難儀」となった事をも意味する。娘のために、その葛藤を解決する方法 として、本蔵は「しらがのこの首.婿殿に」と決めた。
1 加藤秀俊、「沈黙の言葉・死の言葉―忠臣蔵のコミュニケーション」、『思想の科学』、1960年12 月号、p.31。
2 長友千代治(校注・訳)、「仮名手本忠臣蔵」、『新編日本古典文学全集 浄瑠璃集』、小学館、2002、
p.126。
3 同書、p.126。
4 同書、p.126。
こなたの所存を見抜いた本蔵.手に掛れば恨みを晴れ.約束の通りこの娘.力 弥に添はせてくださらば、未来永劫やうごふ御恩は忘れぬ.コレ手を合して頼み入る.
忠義にならでは捨てぬ命.子ゆゑに捨つる親心、推量あれ由良殿1
と本蔵は心底を吐露する。ここでは、「忠義にならでは捨てぬ命.子ゆえに捨つる親 心、推量あれ」と本蔵は言う。しかし、前に触れたように、「子ゆえに命を捨てる親 心」は私的次元の契機でしかなく、判官を抱き留めたのを「一生の誤り」と自覚す る本蔵が、ここで謝罪や後悔の意などの公的次元の契機について一切触れようとし ないのは不自然さがある。しかし、この場合でも本蔵と由良之助の間に、加藤のい う「完全なるコミュニケイション」が存在することを思い出せば、その不自然さを 理解することができる。つまり、本蔵が「私的次元にこだわって語る」だけでも、
その背後にある「公的次元」の部分は言わずとも由良之助は分かってくれると思う からである。
本蔵の告白を聞いた由良之助もまた、「所詮この世を去る人」という「死」の前提 の下に、底意を明らかにし、「未然を察して、奥庭の障子さらりと引き開くれば.雪 をつかねて、石塔の五輪の形を二つまで、造り立てし」2、討ち入りの覚悟を確実な 形で、自分親子の成り行く果てとして本蔵の前に示した。
そこへ、本蔵は
力弥り き やが妻になつたるは.女御にょうご、更衣か う いにそなはるより.百倍まさつてそちが身は、
武士の娘の手柄者.手柄な娘が婿殿へ.お引きの目録進上3
といい、懐中から師直の屋敷の案内図を取り出し、最後を迎えた。こうして、本蔵 は自分の死をもって娘の難儀を解決し、さらには師直の屋敷の案内図の進上によっ て、由良之助たちの仇討ちに助力した。この意味で、本蔵の死の私的な次元と公的 な次元という二つの契機が接合することができた。
判官、勘平、本蔵の三人の死を通して、この演目におけるコミュニケーション様 式における一つの特徴が明らかになった。それは、「死」はコミュニケーションの一 つの前提になっているということである。「死」という前提は登場人物を解放する。
言い換えれば、「死」はただ単に消極的な意味だけではなく、ある種の積極的な意味 をも同時に持っている。「死の場面」に入った途端、登場人物にとって弁解のタイ ミングが到来し、彼らは自分の心の底に溜めてきた弁解を一気に噴出させることが できるようになる。それだけではなく、死に際の言葉は最も「真摯」なものと認め られるため、「死」それ自体も一つの効果的なコミュニケーション手段になるので ある。
1 長友千代治(校注・訳)、「仮名手本忠臣蔵」、『新編日本古典文学全集 浄瑠璃集』、小学館、2002、
p.126。
2 同書、p.127。
3 同書、p.128。