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8.3.3 「動機不純」な「心中」

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 172-176)

ここまでの論述をまとめると、以下のことが分かる。『曾根崎心中』において、心 中を導く要因として、二つの対立が存在している。それは、縁談話をめぐる徳兵衛 と平野屋との間の「義理・人情」の対立と、金の貸借をめぐる徳兵衛と九平次の間 に抱えられた「名誉毀損と回復」の対立である。川崎毓男(1974)は、「主人であり 叔父である久右衛門との関係に於いて、既に心中への方向づけがなされてはいたが、

九平次により徳兵衛の内部に心中へと赴く直接の契機がもたらされた」4と主張した。

1 山根為雄(校注・訳)、「曾根崎心中」、『新編 日本古典文学全集75・近松門左衛門集 2』、小 学館、1998pp.3334

2 同書、p.24。

3 土田衛、「世話悲劇の成立と変貌――歌舞伎とのかかわりから」、『国文学 解釈と鑑賞 特集 近 松――近世悲劇の原像』、 39(11)、至文堂、1974。

4 川崎毓男、「『曾根崎心中』の悲劇性」、『日本文藝研究』、264)、1974p.6

が、前に論じたように、厳密に言うと、九平次の登場はむしろ劇の展開を一般的な 恋人同士の「心中」と異なる方向に導いた。彼の登場を皮切りに、徳兵衛の「死」

の最も直接的な契機が、お初との「愛」がゆえの、縁談話をめぐる徳兵衛と平野屋 との間の「義理・人情」の対立から、着せられた「汚名」をすすぐことに変わった。

言い換えれば、九平次の登場によって、二人を「死」に導く「義理・人情」と「名 誉回復」という二つの動機は、はっきりと新しい力関係を示した。この意味で、徳 兵衛とお初の間の「愛」は全篇を貫く要素にはなっているが、「死」の決意段階にお いては、「名誉回復」の動機に取って代わられ、間接化、背景化され、結果的には、

弱体化されている。一言で言えば、九平次の登場によって、徳兵衛と久右衛門との 衝突は緩和されたのである。

重友毅(1961)は、愛の動機と名誉回復の動機をそれぞれ「心中」の第一と第二 の動機と名づけ、この劇における「心中」の動機の「複雑」性と「曖昧」性を以下 のように指摘している。

こうしてこの心中は、その動機に複雑といえば複雑、あいまいといえばあいま いなものが含まれているのであるが、しかも一旦決意が堅められ、それが行動 に移されると同時に、それを直接に導き出した第二の動機、すなわち死によっ て身の潔白を証するということ、ならびにそれへの同情ということは、まった く忘れ去られたものとなり、代わって第一の動機、すなわち平野屋の妨げによ って危うく割かれようとした愛を全うしようとすることが大きく生かされて、

それがすべてを支配するものとなっているのである。1

つまり、縁談話をめぐる、徳兵衛と平野屋の間の「義理・人情」と、金の貸借を めぐる、徳兵衛と九平次の間の「名誉回復」の二つの動機の力関係は劇の展開とと もに変化し、また劇を展開させていく。更に具体的に言うと、この劇は「義理・人 情」の線から展開し、そしてまたこの線への回帰をもって収束している。「名誉回復」

をめぐる展開は、むしろ中途で、しかも現実の題材である「情死事件」と全く関係 なく、作者個人の意図によって創造され、介入してきたものである。しかし、この 介入してきた要素がかえって、「死」というこの劇における最も重要な決断の支配的 な動機になった。この意味で、ここでの「結果的な相対死」は、実際のところ、「動 機不純」なものともいえよう。

そして、ここで考えなければならないのは、この介入してきた二つ目の動機にど のような意味があるのかという点である。近松が主人公にこの動機を与え、そこか ら彼らにどのような行動をさせ、またどのような態度を取らせたのか。この問題に 対する考察は、次の節に譲りたい。

8.4 「名誉回復」をめぐる態度

この節では、「死」の決意段階において、支配的な動機となった「名誉回復」をめ ぐる悲劇主体の態度を詳しく見ていく。

あらすじで分かるように、まず、徳兵衛に金の返済を強く要求される九平次は、

1 重友毅、「『曾根崎心中』の根本問題―近松における心中評価」、『法政大学文学部紀要』、(7)、1961、

p.87

金を借りたおぼえもないと否認し、かえって証文偽造の罪を徳兵衛に押し付ける。

九平次の奸計を知った徳兵衛は言う。

さて巧んだり巧んだり.一杯食うたか無念やな.ハテなんとせう。この銀かねをの めのめと、たゞおのれに取られうか.かう巧んだことなれば、でんどへ出ても おれが負け.1

徳兵衛のこの「証拠なければ、理も立たず」2という態度によって、この演目のこ れからの発展の方向は、ある程度付けられたといえる。何故なら、この一言で、彼 はすでに問題解決のもう一つの可能性――公的な司法裁判による問題を解決する可 能性――を完全に否定したからである。

九平次の奸計が初めて分かったこの時点で、徳兵衛はすでに「こうもたくんでや ったことゆえ、公儀へ訴え出たとても、おれの負けになってしまおう」と決め付け ている。徳兵衛からみれば、真実はどうであれ、印判の遺失届けを出した後、証文 を書き、判を押すという九平次の巧んだ企みがあれば、自分の持っている証文も「偽 造された文書」という自分に不利な「証拠」に過ぎず、公的な裁判でも勝算がない。

この意味で、徳兵衛にとって、公的な司法正義は完全に「証拠本位」であるとも言 える。「真相」と「絶対正義」ではなく、彼自身も法廷で証拠によって証明できる「司 法真実」とそれに基づく「司法正義」しか期待していない。この事件の直接の被害 者として、彼の「司法」に対する期待は自分を絶望させるほど「現実的」であった。

これによって、公的な司法手段で自分と九平次の対立を解決する道は完全に閉ざさ れ、徳兵衛に残されたのは「私的」な解決法だけである。

そのため、徳兵衛は、

腕先で取つてみせう。コレヤ.平野屋の徳兵衛ぢや、男ぢやが合点がつてんか.おのれ がやうに友達を、騙かたつて倒す男ぢやない。サア来い3

といい、九平次一行に立ち向う。考えてみれば、この演目の一つの見せ場であるこ こでの徳兵衛と九平次の争いは、実は極めて無謀な行為でもあるといわざるを得な い。まず、「かう巧んだ事なれば、でんどへ出てもおれが負」と自覚している以上、

徳兵衛自身でも、ここでの喧嘩が根本的な問題解決――騙された金を取り返す――

に繫がるとは思わないはずだ。そして、自分一人だけで、一度に五人を相手するな ど、勝ち目のないのは、公的な裁判に持っていくのと同じで、はじめからすでに分 かりきったことである。それにもかかわらず、彼がつかみかかっていった原因は、「平 野屋徳兵衛じゃ男じゃが合点か」の一言に潜んでいるだろう。この時点で重要なの は、喧嘩に勝つということより、九平次に立ち向かうこと自体である。徳兵衛にと って、この喧嘩の結果はどうであれ、ここで九平次一行に立ち向かいさえすれば、

1 山根為雄(校注・訳)、「曾根崎心中」、『新編 日本古典文学全集75・近松門左衛門集 2』、小 学館、1998p.27

2 同書、pp.32−33。

3 同書、p.27

九平次の誣告を否認することになり、男としての面目を維持することになる。徳兵 衛が勝ち目のない相手に無謀な闘いを挑んだのは、「黙って濡れ衣を着せられる」と いう彼にとって最悪の事態を避けるためであると言ってもよいだろう。

まさにこの行動から、徳兵衛にとっての「正義の回復」が窺える。傷つけられた 面目を施し、「男の意地」を立てるために、自分の方から勝ち目のない相手に立ち向 ったが、結局一層みじめな境遇に陥った徳兵衛は、また誰を相手ともなく、事の経 緯を弁明している。

いづれもの手前も面目めんぼくなし、恥づかしゝ.まつたくこの徳兵衛が、言ひかけし たるでさらになし.日ごろ兄弟同然に語りし奴やつがことといひ.一生の恩と嘆き しゆゑ.明日七日、この銀かねがなければ、我らも死なねばならぬ. 命 代いのちがはりの銀な れども、互ひのことと役に立ち.手形を我らが手で書かせ.印判据ゑて、その 判を前方まえかたに落せしと.町内へ披露ひ ろ うして、かへつて今の逆さかねだれ.口惜く ち をしや、無 念やな.このごとく踏みたゝかれ、男も立たず、身も立たず.エヽ最前につか みつき.食ひついてなりとも死なんものをと、大地をたゝき、歯がみをなし.拳こぶし を握り、嘆きしは.道理とも笑止とも、思ひ.やられてあはれなり./ハアかう 言うても、無益む や くのこと。この徳兵衛とくびやうゑが正直の心の底の涼しさは、三日を過さず、

大坂おほざか中へ申し訳はしてみせう1

このような姿は、先ほど公的な司法裁判を断念した時の決然たる態度とは全く違 う。彼は公的な裁判において、無実を主張し、自分の権利を取り戻す機会をなんの 惜しみもなく諦めたが、このような、特定の相手もおらず、完全に公的な効力のな い場面では、延々と弁明する。ことここに至って、徳兵衛が関心を持っているのは、

裁判で自分の主張を支持してもらい、騙された「命代わり」の金を取り戻すことで はない。彼が本当に求めているのは、自分の「正直の心の底の涼しさ」を大坂中の 人々に分かってもらうことだ。つまり、徳兵衛が追求している「正義の回復」は、

公的な裁判による承認ではなく、世論による肯定である。徳兵衛にとってのこの「正 義の回復」を深く理解するために、ここで一度、公的裁判と世論の意義を考え、そ こに潜む異質さに注目する必要がある。裁判というのは、公的な権力によって始動 される司法行為であるため、その結果としての判決も上から下へという縦方向の公 的な効力を持っていることは自明である。一方、世論にはこのような「縦方向」の 公的な効力が存在しない。その代わり、世論は裁判と全く異なる「横方向」に広が る影響力を持っている。その影響力を発する側も、そして受ける側も同じ私的な「個 人」であるため、彼らによってどのような合意や判断が形成されても、その判断に 公的な効力は一切存在しない。徳兵衛のここでの行動を見てみると、彼が求めてい

1 山根為雄(校注・訳)、「曾根崎心中」、『新編 日本古典文学全集75・近松門左衛門集 2』、小 学館、1998p.28

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 172-176)