6.4 『熊谷陣屋』における悲哀感情の形
6.4.1 家庭的身分と家族愛をめぐる「悲劇」
河竹は『熊谷陣屋』のドラマツルギーを、親子の別れを趣向とする「家庭悲劇」
と呼んだ上で、その家庭悲劇的局面こそ日本近世悲劇の「核」をなすものであると 主張した。
近松の心中物をはじめとする世話悲劇は、文字どおり世間の話題を脚色したも のだから、家庭が多く舞台となるのは当然でもあろう。だが私は、世話物だけ でなく、時代物においてさえ、その悲劇の本質が「家庭悲劇」であるところに、
日本近世悲劇の特質をみるのである。家庭悲劇といっても単なるホームドラマ という意味ではなく、政治や戦乱などの国家的歴史的事件を題材とする時代狂 言の英雄的な主人公も、劇的クライマックスにおいてはついに、親子の別離・
犠牲などという家庭・肉親間の悲劇的局面の中へと溶解し、そして愁嘆場とし て凝縮結晶してしまうという意味である。1
確かに、『熊谷陣屋』のストーリー展開は河竹のこの論点を裏付けているように見 える。「首を討たれたのは誰か」という謎解きは、「陣屋の場」の焦点である。しか し、身代わりのモチーフを核にしながら、『熊谷陣屋』の悲劇的な場面はかなり大き な比率で藤の局と敦盛、熊谷夫婦と小次郎の間に存在する親子関係、そして親子関 係に関連する夫婦関係に対する描写によって構成されている。
追手から逃げる途中、息子の死を知らされ、敵陣の中で息子の仇を討とうとする 母親、わが子の初陣を心配し、国元から京の陣屋まで歩いて来たが、結局、息子の 死を知らされたもう一人の母親、敵方の若武士の最期として、実は自分の息子の最 期を語っていた父親。『熊谷陣屋』においては、身代わりの過程より、身代わりを立 てる側、そして立てられる側の家庭的な立場や身分から生まれる心情のほうが重要 視される傾向が鮮明に窺える。一方悲劇性は、これらの家庭的場面や身分をめぐっ た人間性、さらに主の命令に忠実に従うゆえに犠牲とされた肉親の愛情と共に存在 している。
陣屋に戻った熊谷は相模と遭う。「妻つまの相模さ が みを尻目し り めにかけて座ざに直なおれば」2、「不届ふとドき 至極し ご くの 女ヲんなめ」3と熊谷は相模を責める。
この尻目にかける理由について、武智は以下のように指摘している。
まだ小次郎の身代わり首の実検も済まぬうち、小次郎がいない理由も説明せね ばならず(熊谷は堤の軍次にも「小次郎様は先頃より御前勤めでお下りなし」
と思い込ませてある)困ったことだと思うのである。それに何も知らず、ああ かわいそうにという気持もある。それらの気持が尻目にかけるという行為にな って現れるのだ。尻目にかけるという言葉は、今日の無視するという用法とは 少し違って、その人の存在を意識して、気にかけながら、見て見ぬ振りをする
1 河竹登志夫、『比較演劇学』、南窓社、1967、p.88。
2 祐田善雄校注、「一谷嫩軍記」、『日本古典文学大系99 文楽浄瑠璃集』、岩波書店、1965、p.236。
3 同書、p.237。
意味に使われている。1
この意味で、熊谷は妻を気にかけながら、彼女を身代わりの真相に近づかせよう としたとも言えよう。
夫の真意が判らず、叱られた相模はこう言った。
其そのお 呵しかりを 存ぞんじながら。どふか斯こフかと案あんじるは小次郎こ じ ろ うが初陣ういじん。一里い ち りいたら様子よ う すが しれうか。五ご里り来きたら 便たよりが有あロかと。七里し ち り歩あゆみ十里じゅうり歩あゆみ。百里ひやくりあまり餘の道みちをつゐ。都みやこ 迄までムホヽホヽホヽヽヽヽヲヽしんき。登のぼつて聞きけば一いちの谷たにとやらで今いま合戦かつせんの 最 中さいちゅう と。取々とりどりの 噂うわさ故ゆえ子こに引ひかされるは親おやの因果いんぐわ。御了簡ごりょうけんなされ下くださりませ。シテマア 此この小次郎こ じ ろ うは息災そくさいで居いますか2
そして、息子の身に起きた真実を知らずに、わが子の初陣を心配するあまりで、
女一人で「百里餘の道」を辿り、陣屋まで歩いて来た妻の質問に対して、熊谷は真 実を隠しながら小次郎の初陣の様子を伝え、夫婦の間には以下のような会話がある。
熊谷: 戦 場せんじょうへ 赴オモムくからは命いのはつたなき物もの。堅固け ん ごを 尋たずヌる未練み れ んな性根しょうね。もし討死うちじにした らわりや何なんとする。
相模:いゝゑいななア。小次郎こ じ ろ うが初陣ういじんに。能 大 将よきたいしょうと引組ひつくんで。討死うちじにでも致いたしたら。嬉うれ しい事ことでござんしょ。
(中略)
熊谷:ホヽ先まず小次郎こ じ ろ うが手柄た が らといふツぱ。平山ひらやまの武者ぶ し ゃどころ所と 争あらそひ抜ぬけがけの 高 名こうみゆう。軍門ぐんもん にかけ入いっての 働はたらき。手疵て き ずしようしよう少 々負おうたれ共ども末代まつだい迄までの家いえの 誉ほまれ。
相模:ヱヽして其その手疵て き ずは 急 所きゆうしょではござりませぬか。
熊谷:ソヽヽソレソレソレまだ手疵て き ずを悔くやむ顔付かおつき。ガ若もしきゆうしよ急 所なら悲かなしいか。
相模:イヱ何なんのいななア。かすり疵きずでも負おう程ほどの 働はたらきは。出でかしたと思おもふて嬉うれしさの餘あま りお 尋たずね。其その時ときお前まえも小次郎こ じ ろ うと一所いつしょに御お出いでなされたか。
1 武智鉄二、「熊谷陣屋検討」、『定本武智歌舞伎 武智鉄二全集3 文楽舞踊』、三一書房、1979、 p.228。
2 祐田善雄校注、「一谷嫩軍記」、『日本古典文学大系99 文楽浄瑠璃集』、岩波書店、1965、p.237。
熊谷:ホウ 危あヨうしと見みるより軍門ぐんもんにかけ入いり。小次郎こ じ ろ うをむりに引立ひつたて小脇こ わ きにひん抱だき。 我わガ
陣屋じ ん やへ連帰つれかえり。 某それがシは 其 軍そのいくさに搦手からめての 大 将たいしよう。無官むくわんの太夫た ゆ う敦盛あつもりの首くび取とつたり。
1
ここで、息子がかすり傷を負ったと聞くだけで、心配でたまらない母親の像が描 かれているのは勿論だが、熊谷が初めて小次郎の話をする場面としても注目すべき である。
短い会話の中で、何もかも知っていた熊谷は、「もし討死うちじにしたらわりや何なんとする」、
そして、「若もしきゆうしよ急 所なら悲かなしいか」と、二回も「もし」を使った。小次郎がすでにこ の世にはいないことを分かっていながらの、熊谷のこのような台詞は興味深い。こ の科白においては、明らかに成立しない仮説が二回も繰り返されている。そこから は、一人の剛毅な「武士」としての熊谷よりも、わが子の死を知らされる時の妻を 心配するあまりに妻の気持ちを遠回しにでも探ろうとする一人の「夫」としての熊 谷を見出すことが出来る。
その後、敦盛が討たれたと聞き、それまで隠れていた藤の局は子を失ったあまり の悲しみと怒りで息子の仇を討とうとし、熊谷の前に飛び出す。思いがけない再会 に驚きながら、熊谷は藤の局に「戦場の義は是非なしと御諦め下さるべし」2といい、
「敦盛」の最後の戦ぶりを語り始めた。後になって明らかにされる身代わりの真相 を思うと、ここでの「諦め下さるべし」の一語も、わが子を失った妻相模に向う言 葉であると考えられる。その前の二回も繰り返された「もし」の仮設と呼応し、こ の一語も、彼女をこれから襲ってくるわが子を失う悲しみに備えさせるための熊谷 の心遣いとも言えよう。
つづいて、熊谷の長い物語が始まった。
扨さて
も 去さんヌる六むュ日かの夜よ。早はや東雲しののめと明あクる比ころ。一貳い ち にを 争あらそひ抜ぬケがけの。平山ひらやま熊谷くまがえ討取うツとレと。
切
きつ
て出いででたる平家へ い けの軍勢ぐんぜい。中なかに一際ひトきわすぐレ勝し緋威ひおどし。さしもの平山ひらやまあしらひ兼かね濱邊は ま べを さして逃出にげンだす。健気け な げ成なる若武者わ か む し ゃや。逃にぐる敵てきに目めなかけそ。熊谷くまがえ是これに扣ひかへたり。返かえせ。
戻
もど
せ。ヲヽイ。おいと。 扇おうぎを持もつて打招うちまねけば。駒こまの 頭かしらを立直たてなおし。波なみの。打物うちもの二打ふたうち 三打み う ち。いでや組くまんと馬上ばじょうながらむんづと組くみ。両馬りょうばが間あいにどうど落おツ。
(中略)
されば御おン顔かおをよく 見 奉みたてまつれば。かね黒々くろぐろと細眉ほそまゆに。年としはいざよふ我子わ が この年としばい。
1 祐田善雄校注、「一谷嫩軍記」、『日本古典文学大系99 文楽浄瑠璃集』、岩波書店、1965、pp.237
−238。
2 同書、p.239。