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悲恋の結末――二重の大団円

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 111-115)

5.1 『嬌紅記』に関する先行研究

5.5 悲恋の結末――二重の大団円

『嬌紅記』は、いわゆる「悲恋」のクライマックス――悲劇主体の「情死」をも って収束するというストーリー設定ではない。申純が「義」を守り、嬌娘の後を追 ったのは第四十八出「双逝」であるが、その後も物語はまだ続く。

第四十九出「合冢」において、申純が娘の後を追ったことを知らされた王通判は、

不憫に思い、二人を合葬させ、「死後の縁」を結ばせる。そして、第五十出「仙円」

において、死んだ申・嬌の魂が再び登場し、鴛鴦と化し、二人の墓参りをする親族 と会う。最後には、東華帝君の許しを得、二人が仙界に登ることで、舞台の幕が閉 じる。

『嬌紅記』のこの設定は、典型的な中国式の「大団円」のパターンの一例として すでに多くの先行研究に取り上げられているため、ここで事新しくいう必要はない。

ここでは、具体的に、この演目において、悲劇の結末としての「大団円」はどのよ うに構成されているのかを考察していきたい。

5.5.1 現実次元における「団円」――形式上の婚姻

の実現と愛情理想の完成

前文で論じられたように、申・嬌が求めた「理想的な愛情」は、「同心子」の内的 要素と「伝統的な婚姻」という外的要素によって構成された一つの複合体である。

このような愛情理想を追求するために、自分らの愛情を「伝統的な婚姻」という枠 の中に回収しようと、二人の主人公は命がけで抗争してきた。

二人の死をもって、彼らの抗争は終わるように見えるが、実際にその抗争の真の 結果が分かったのは、二人の主人公が死んだ後だった。

我想申生丰仪如许,才学又如许,怪不得女儿家爱他。今生前之愿既已违之,当 与他结一死后之缘罢。(中略)我今着院子,把小姐灵柩,送到申家合葬。死者有 知,定也快然于泉下了。1(第四十九出 合冢)

申純の風采は立派で、また才覚もある。女子が彼を愛したのも当然である。生 きていた時の願いは叶えてあげなかったが、彼との死後の縁を結ばせてあげよ う。(中略)私は今下男たちにお嬢様の棺を申家に運ばせ、二人を合葬してあげ る。もし死者が分かってくれるなら、きっとあの世で喜ぶであろう。

鬼窟里做夫妻永相亲,倒博得个天长地亘。2(第四十九出 合冢)

あの世で夫婦になり、愛情はかえって天地のように久しいであろう。

以上の台詞で分かるよう、愛する娘を失った後、申純の死を知らされた王通判は、

申・嬌の合葬を許し、二人の「死後の縁」を結ばせ、あの世で「夫婦」として認め てやった。言い換えれば、申・嬌が求め続けていた「父母之命,媒妁之言(父母の

1 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983、p.487。

2 同書、p.487

言いつけ、仲人の取り持ち)」の伝統的な婚姻形式は、ここで、王通判の「合葬」の 決意によって、迂回した形で実現されたのである。つまり、申・嬌は自分の命を引 き換えにして、「婚姻」要素の実現を可能にし、最終的には二人の愛情を「礼教制度」

の中へと収めることに成功した。そして、この婚姻要素の実現によって、彼らが求 めていた理想的な愛情も完璧に完成されたのである。

5.5.2 超現実的な団円――仙円

そもそも、第四十九出「合冢」における申・嬌の「合葬」は、すでにある程度の

「団円」の要素が含まれている。さらに、「合葬」を、愛する娘を死に追いつめた一 人の父親の精一杯の「罪滅ぼし」だと理解し、ここでストーリーの終わりを迎えさ せるならば、この「団円」はまだある程度の「現実性」をもっているともいえよう。

しかし、まさにその程度の「団円」では不十分であると言わんばかりに、第五十 出「仙円」が書かれている。

そこで申・嬌は魂として再び舞台に戻る。合葬されたおかげで成立した死後の合 法な「婚姻生活」について、再登場した二人は真っ先に「地下之乐,不减人间(あ の世の快楽は、人の世に負けない)」1と宣言した。このような超現実的な設定によ って、二人の死をもってクライマックスへと登った悲劇的情緒は必然的に解消され る。そして、番の鴛鴦が残された親族の前に姿を見せた後、二人は仙界に昇る。こ こで、申・嬌は本来天界に仕える侍者・仙女であり、二人は煩悩の虜になったため、

人の世に生まれ変わったが、苦難を経歴した今は、期満ちて仙界に帰ることが許さ れるということが観客に知らされる。これで、一種の貴種流離譚的構造が成立する ようになる。申・嬌がそれまで味わったすべての苦難や不幸も、この構造の存在に よって解釈され、正当化されることができたのである。最終的に、天の「感知」と

「感情」、すなわち「天の正当性」は再び証明され、登場人物や観客の天に対する信 念は再度確認される。

このように、第五十出において、合葬という受動的で、偶然的な「団円」と違い、

より明白で、能動的で、かつ必然的な「団円」が描かれた。そのため、超現実的な 設定は第五十出「仙円」の冒頭から詰め込まれている。魂の登場、飛紅への伝言、

鴛鴦の幻化、そして登仙、これらのすべての要素は、「死後の世界」に集中している。

この一連の超現実的な設定により、『嬌紅記』は悲劇的な過程を完全に通過し、最終 的には大団円を迎えるようになる。

この結果的な「大団円」に注目すれば、そこに一つのキー要素が存在しているこ とに気づく。それはつまり、この「大団円」は実際、「生」の延長として存在する超 現実的な「死後」の世界を前提とし、更に一連の非現実的な設定によって完全に「架 空」され、超現実的な次元に展開していることである。

まず、『嬌紅記』における「死」は「すべての終わり」を意味するものではなく、

「悲恋」から「大団円」への転換のしるしである。それを可能にしたのは、まさに この演目における「死」の特殊な性質である。この演目において、「死後」の世界は 一つの超現実的な世界であると同時に、「生」の延長としても描かれている。具体的 に言えば、「死後」という超現実的な次元に入った男女主人公の感情も、意識も、人 格も、そして、生活状態まで、なにもかも「死」によって中断されることはない。

1 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983p.488

合葬され、魂になって、今は「地下之乐,不减人间(あの世の快楽は、人の世に 負けない)」、「朝暮追随,乐胜人间(明け暮れ、いつも一緒で、生きていた時よりも 幸せである)」1と再三強調する二人は、「旧时游聚之处(昔遊覧し、相まみえた場所)」

の風景を楽しむような「才子佳人」式の風雅な死後の生活を送りながら、生きてい るうちには実現できなかった愛情成就の喜びを思う存分味わっている。しかし一方、

残された親兄弟に対して、彼らは死んだ後でも、「亲恩未报,弟尚年幼(親の恩情は まだ報いておらず、弟もまだ幼い)」2と思いながら、やましい気持ちを抱き、自分の 良心に恥じている。つまり、「死後の世界」において、彼らは「今までの」気持ちや 感情を抱きながら、「今までの」生活を生き続けている。

実際に、「蒙你爹爹,将二人灵柩,并葬濯锦江边,朝暮相随(あなたのお父様が二 人の棺を濯錦江の畔に合葬してくれたお陰で、我らはいま明け暮れ、いつも一緒で いられる)」3という申純の一語で分かるように、そもそも二人の魂が一緒になり、

死後の「婚姻関係」が結ばれるのは、王通判が二人の合葬を許した「お陰」である。

また、最後に二人の登仙、ある意味での「再生」を実現できたのも「東華帝君」の

「許可」を得たからである。換言すれば、「死」を通過した申・嬌にとって、「今ま での生活を維持する」こと以外に、生きていた時に勝るような能力や特権、そして

「再生」する権利さえも与えられていない。彼らにとって「死後」の世界は、ただ

「生」の延長である。そして、この「生」の延長として架空された「死後」の世界 を前提とし、さらに超現実的な「大団円」が構築される。

結果的に、この「団円」の対価として、申・嬌の愛情悲劇に残された現実味が完 全に犠牲とされた。最後の「仙円」までの「大団円」の経緯は舞台の上に細かく再 現されたが、このような「死後の世界」や「登仙」の設定は実際、それまでの二人 の主人公の現世での「生」の世界とは違い、現実的で、理性的な経験によって解釈 することも、証明することもできない、「紙の上にしか存在できない」ような、完全 に架空の設定であり、極めて超現実的な「団円」である。

この章では、中国の代表的な悲恋のファンタジー・テーマの一つである孟称舜作

『節義鴛鴦冢嬌紅記』を取り上げ、分析した。

孟作『嬌紅記』においては、「同心子」の愛情観、「鴛鴦イメージ」に象徴された 愛情の理想図が存在している。二人の主人公にとって、愛情成就の可能性は、唯一、

愛情理想が実現されること以外にないと理解されている。その理想を構成するもの は、内面的な「同心子」の愛情観と、「鴛鴦」の象徴に合致した封建礼教的な「婚姻 形式」という表象とである。そのため、この愛情成就の唯一の可能性が奪われた時、

主人公らの運命は一気に悲劇に転じる。

しかし、自分らの婚姻に関する一つの封建家長的な独断によって、悲劇的な運命 に向かう二人の主人公は、本当の意味の「自由な婚姻」を求めていない。彼らは両 親の言いつけや仲人の取り持ちに従うような「封建的婚姻形式」そのものにも一切 の不合理を感じていない。それどころか、その制度の中に存在する問題解決の方法 を探し出し、自分の行動をその制度の枠に収めることこそが彼らの本当の目的であ る。

彼らにとって、自分の不幸に対して本当に責任をもっているのは「天」である。

1 王季思編、『中国十大古典悲劇集』(上)、上海文芸出版社、1983p.489

2 同書、p.489。

3 同書、p.488

ドキュメント内 中日古典悲劇の比較研究 (ページ 111-115)