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銃眼付き胸壁上のクーベルタン

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 134-139)

1.8. 大渦巻きの中のIOC   1914‐1918

1.8.1. 銃眼付き胸壁上のクーベルタン

1914年 8月 3日、第1次世界大戦が勃発した。

国際オリンピック委員会はどう行動すべきか、そしてとくにクーベルタンは?

平和を目的とする国際的、非政府組織の会長で、しかも疑いもなくフランス人愛国者で あるクーベルタン自身はどう行動すべきであったか?

民族主義の高まり、バルカンにおける戦争の前兆、武装した平和の危険‐こうしたものは一切、

彼のオリンピックに関する書き物のなかには表れていない。

彼はヨーロッパの良識を信じていたのか? 彼は心を安らかにする神秘的な世界に逃げこんで いたのか? 彼はオリンピックムーブメントと彼自身を隔離することによってオリンピックを守ろうとし たのか?

「オリンピックメモアール」にも、彼の手紙にも、彼のスピーチにも、1914年 6月のパリコングレス への寄稿にも、更にそのコングレスに参加する外国代表団に配付された「今日のフランスについ てのメモ」の序言にも、彼は僅かな不安の気配すら示していない。

これらのテキストを基に、現代のオリンピズムは同時代のドラマとは全く無関係であったと考えら れるかもしれない。しかし実際は以下の報告に見られるように、クーベルタンは心の底から揺り動 かされていた。

20周年の祝典は、リーム体育大学の人気スポーツの競技会で幕を閉じた。

1914年6月28日の夜、スタジアムのテントで夜を過ごすことを決めたクーベルタンは眠れなかっ

た。「私は眠れなかった。不安に苦しめられ、一人で庭園を歩きつづけた。大火災と破局の幻影が 私に取りつき、私は家々の上に浮かんでいる大聖堂のシルエットから目を離すことができなかった。

水平線は美しく静謐であったが、私には水平線のあらゆる点から火の線が走って大聖堂の上に集 中するのが見えるような気がした。」

この文章は、クーベルタンはこの偶発事件を知ってはいたが、心のなかに押さえ込むことを選ん だのだと想像させる。オリンピアにおいては、彼は外の世界を完全に脳裏から消した。他の時には、

彼は少なからぬ熱意をもって自分の世紀に参加した。彼は二つの顔、二つの生涯を持つ極めて 特殊な個性であった。

そしてフランスが参戦した瞬間から彼の個性が表れた。彼は心底からの国際主義者、オリンピッ クの守り手でありながら、同時にドイツに対するフランスの戦争に肩入れする愛国者であった。

戦争の第一日から、彼はフランスに身を捧げ、軍隊に参加しようとした。

彼は高齢の故に断られた。公共教育相アルベール・サロウは、クーベルタンに「全フランス」を 代表してフランスの小中学校を、宗派教義に基づく学校、基づかない学校の区別なく、訪問する 役割を与えた。

このアイデアは「前線にあるもの」との愛国的連帯の感情を作りだすためであった。

お返しに、クーベルタンは「身体教育の改善と発展」という報告を書いた。

この報告書に、まだ動員されていない若者を軍事化するための、兵士としての身体準備の初歩 的なポケットガイドのようなものを想像したとしても、おかしくはあるまい。

ところが全くそうではなかった。

クーベルタンはフランス政府に、長期戦略を作り上げるように提案している。

彼はあくまでオリンピズムに忠実であった。

クーベルタンによれば、今日そして明日の状況の中でキーマンは小学校の先生であった。彼ら は臨機応変に、スポーツを広げることを教えなければならない。そしてこの使命に対して「国家体 育教育基金」から賞金を出して、彼らを励まさなければならない。

彼は学校スポーツ協会の再活性化を勧告した。この協会は過去二十年間休眠していた。

彼のアイデアは、全ての生徒がジョルジュ・エベール中尉の等級証書に自分の成績を書き込む ことであった。

クーベルタンは平和の人であった。この時たまたま戦争の人となっただけであった。

だから彼は、神と人の前に解き放たれたこの大変動を、文明は、いずれにせよ確実に乗り切る ものと信じていた。

彼のこの地上での使命はオリンピズムにルネッサンスをもたらすことであった。

彼の義務は嵐の中でIOCの舵をとることであった。彼はコースを守らねばならない。

戦争中彼は責任を引き受けた。オリンピックに関する沢山の手紙が彼の親密な協力者‐ド・ブ ロネー、ド・クールシー・ラファン、スローン‐との間に交わされた。

これを我々は今日読むことが出来るが魅力あるものである。これによって、初めての世界紛争の 重苦しい日々の、あまり知られていないIOCの日常に光を当てることができる。 

彼は最初の数日間、ブロネーに対して、その時アッパーアルザスに足止めされていた継母、マ ダムロタンと身体の弱かった彼の息子ジャックがスイス経由でフランスに帰れるよう、ベルンのドイ ツ領事と共に骨折ってくれるよう頼んでいる。しかしその後、自分の財政的懸念に言及した一通の 手紙を除いて、クーベルタンの1914年から1918年までの手紙は、1915年が一番多いのだが、全て 戦時中のオリンピックムーブメントの管理と運営の問題に当てられている。

1914年に彼はド・ブロネーに、あるIOC委員がムーブメントの継続と制度の存続に懐疑的になっ ていると知らせている。名前は上げていない。彼は1921年に予定されたローザンヌコングレスの準 備について心配している。

彼はブロネーに、ドイツ人委員、ベニンゲンが数日前に前線で死んだこと、リヨンが1920年乃至 1921年の大会開催に興味を示していること、そして1915年にオリンピックセッションがベルンで開 かれるだろう、と知らせている。

その間、ド・クールシー・ラファンはクーベルタンの近くに留まろうとしており、IOCの戦略がどうな るか心配していたようにみえる。

20周年記念のコングレスが終わると、クールシー・ラファンはパリにおけるコングレスと祝典の成 功について満足を持って記している。彼はパブリックスクール以外のイギリスの世論は今やオリン ピックの理念に対してより好意的になったと主張している。

嵐に直面して、彼はクーベルタンにIOCの会長を続けてくれるよう求めた。

秋の始めに、クールシー・ラファンはフランスの軍事情勢に懸念を表し、フランスの学校におけ るクーベルタンの役割に興味を示す一方、戦争は長期化しそうなのでクーベルタンが会長職に留 まってくれることに満足の意を表明した。

しかし彼は、クーベルタンが余りに騒乱から超然としすぎていると考えたのではなかろうか?い ずれにしても、彼とイギリス人は1915年にスイスでIOCの会議を開くのは「危険」であると考えた。そ のような場合、ドイツとオーストリアの同僚にどのような態度を取ったらよいのだろう?クーベルタン は多分、アメリカ人の態度に力を得て、計画に固執するだろう。

スローンは、アメリカは1916年のベルリン大会開催をそのままにしておくのに賛成であるとクーベ ルタンに告げ、フィリピンの極東オリンピック協会を紹介してくれるように頼んでいる。これはアメリカ のスポーツ界がオリンピックコングレスの決定を適用しようとしている印であった。アメリカもまだ平 和であったのだ。

またクーベルタンがIOCを紛争の外に置き、その運営を司ろうとしている印であった。  彼はスロ ーンにサンフランシスコ世界博覧会で公式に自分を代表してくれるよう頼んでいる。

しかしクールシー・ラファンは明らかにイギリス世論を反映して、クーベルタンに更に強く迫った。

彼にとってドイツがベルンのセッションに参加するのは全く「考えられないこと」であった。圧力を強 めて、彼はベルンセッションのキャンセルを呼びかけ、更に戦争が終わるまで会議を開かないよう に要求した。

彼には第六回オリンピアードのベルリン開催はもはや考えられないことであった。

「通常の戦争」と「脅迫と皆殺しの戦争」との間に微妙な区別をする彼には、敵ドイツと「接触す るのは不可能」と思えた。さらに彼は一ヵ月後、IOCの目的と理想は「ドイツの戦争遂行における野 蛮な振る舞い」と全く相容れないものだとはっきり述べた。

もしドイツ人が固執するなら、IOCは不賛成を表明すべきであろうとクールシー・ラファンは続け た。そうでなければ、彼と委員の一人、クックは辞任を申し出るであろう。

それにもかかわらず、クールシー・ラファンはIOC会長の中立性は理解しうることを、暗黙のうち に示唆していた。

クーベルタンは、自分が断固として反ドイツの立場をとっていたので、クールシー・ラファンの議 論に動かされたが、誰からも教えを受けようとはしなかった。

例えイギリス国教会の聖職者の教えであっても。

彼は「名誉の授業」を断り、IOC会長の職を捨てることは論外である、と素っ気なく告げた。

こうしてクーベルタンは平和な時と同じようにIOCを運営していった。

同時に故国の戦線では、「兵士」でありつづけた。連合軍の大義の正しさを信じながらなお、オ リンピックヒューマニズムに忠実な彼は、1915年初頭、フランスの若者に「十戒」を与えた。

勝利するフランス、文化的業績の人類への寛大な分配者へのアピール、憎しみと復讐の念の 全く欠如した奇妙なアピールであった。

しかしIOCのは次第に難しいものになってきた。戦争の現実を無視しようとしても、彼は未解決 の問題を解決しなければならなかった。とくにベルリンでの第六回オリンピアードの大会開催という 厄介な問題があった。

もしフランスへの献身に専心しようとするならば、彼はIOCの揺るぎない中立性を確立しておか なければならなかったし、会長職の辞任さえ考えねばならなかった。

アメリカとイギリスの圧力を受けて、クーベルタンはベルリン問題の解決から始めた。

スカンジナビアオリンピック委員会、ジョン・サリバンに率いられたアメリカオリンピック委員会、そ してイギリスのIOC委員がベルリン大会のキャンセルを呼びかけていた。

しかし「その頃戦争の早期解決と勝利を信じていた」ドイツ人はオリンピック開催返上を求めて はいなかった。従って混乱を避けるためには、時間稼ぎが大切であった。

原則の名において、クーベルタンは引き延ばしを図り、「オリンピアードが祝われなくても番号は 残る」ことを思い出させた。反対者は次々に去り、クックはIOCを辞任した。

クーベルタンが解決を迫られている問題が二つあった。第七回大会をどこで開催するか、そし てIOCの本部をどこに置くか。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 134-139)