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ローザンヌ ‐1921年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 162-166)

1.10. より民主的な方向へ

1.10.5. ローザンヌ ‐1921年

また大会は二週間以上、三つの日曜日を含んで開催されるべきで、大会では三つの審判団が 構成されるべきだ、と勧告した。IFの管理の下にある現場審判団、上告審判団、そしてIOCの直接 管理下にある非技術的問題に関する名誉審判団である。

アマチュアリズムの問題に関して、ECは、IOC委員に宛てられ、プラハコングレスで討論さるべき 15の質問をIOCに対し提案した。

この質問は単純な底意のないものばかりではなかった。この問題にはすぐ戻る。

この質問は社会の発展にできるだけ近くありたいというECの思いが表れている。

IOCは「アマチュアとは、ハッキリした物質的利益を(スポーツから)受けておらず、その点につい て名誉にかけて書面で宣言する用意のある者と理解さるべきである。」と考えていた。

「オリンピック」という名称を守ることについては、ECは1926年ブラッセルでの女性の大会にʻオリ ンピックʼという呼び名が誤用されたことに不快感を持っていた。

同じ理由で国際学生同盟に対しても抗議が出された。

執行委員会はプラハオリンピックコングレスのプログラムを決定し、会長によって提案された教 育コングレスのプログラムを「大幅に修正」した。更にECはこれらのコングレスが「スポーツの広範 囲の浄化」をもたらして欲しいものだという希望を表明した。

1.10.5. ローザンヌ ‐1921年

セッションとコングレスはほとんど同時に開かれた。これによってオリンピックムーブメントは民主 化の点で前進し、その結果コングレスは比較的静かになった。

ローザンヌ会議‐1921年

目的は、「IOC委員と、場合によってはコングレスに対する準備工作」であった。出来るだけ民主 的な方法で全ての代表の間のコミュニケーションを図るためであった。

IFの会議は難しいことに成りそうな兆しが見えた。クーベルタンは戦術的狡猾さを示して、IOC 委員に単にIF代表としての資格で参加するよう求めた。

これで、彼らは二股膏薬であることとIOCを巻き込むことを避けることができた。

ポール・ルッソウは、上部構造の連盟をつくろうとする企てに失敗した。

代表たちは「IF事務局」の維持に落ちついた。

クーベルタンはこの事務局の「行動と力の領域」があまりに「矮小に」計られていることを嘆いて いる。彼はこの機構は「IOCにとって役に立つに違いない」と考えていた。

5月28日の登山に関する会議では、世界的に有名なスイスの登山家、ジャコ‐ギラルモが報告

者をつとめた。IOCの招待に応じた登山クラブは少なかった。1924年のために、エベレスト山遠征 に賞を出そうという提案がされた。クーベルタンが残念に思ったことには、IOCは1928年を最後に 登山に賞を出すことをやめた。

5月21日から30日にかけて開かれた馬術競技についての会議には奇妙なところがあった。この 会議は「国防大臣たちに宛てられた特別招待」によって仲間うちだけの集まりになっていた。これ にはクーベルタンは、抗議をせざるを得ないように思われた。 

彼が遺憾に思ったのは、役人は「聡明かつ独創的な干渉」の手段によって、「ʻ馬に乗っていな い人々ʼ即ち自分の馬を持てないような人々の間に馬術競技を広める」ためには相応しいとは見 えなかったからである。クーベルタンが大いに悔しがったことには、彼の民主的な意見に対しては 全く馬耳東風の態であった。

冬の競技についての諮問会議もまた 5月26日と27日に予定されていた。カナダ、ノルウェー、

スウェーデン、スイスの代表が参加した。白熱した議論がたたかわされ、妥協が成立して、コングレ スで承認された。

クーベルタンは文学と芸術に関する諮問会議と自治体の会議を考えていたが、いずれも実現し なかった。

1921年セッション

1921年6月2日から5日までモンベノンのカジノの構内で行われた。ここには第1次大戦中ローザ ンヌオリンピック学院のオフィスがあった。

19カ国から23人のIOCメンバーが出席した。欠席した者の中には健康を害していたW.M.スロー

ン、極東大会で上海にいた加納治五郎が含まれる。

討議されたのは、IOCの運営、オリンピック大会の規則、第八回オリンピアードの会場の選択、

オリンピック冬季大会についての賛否両論などであった。

これまで見たように、スポーツ界の複雑さが増すにつれて、IOCの行政の中に執行委員会は必 要なものになってきていた。セッションはクーベルタンの提案を受け入れ更に細かく検討した。オリ ンピックメダルの形と大きさ、競技と国のランキングの廃止の確認等。

しかしもっと重要なことは将来のコングレスのための規則の確立が望まれたことである。同じよう に、IOCが「オリンピズム」という言葉を守ることに、もっと大きな注意を払うようにという希望が表明さ れた。

そして、カタロニア人たちは彼らのやり方を変えるように丁重に要求された。つまりオリンピックに 先立って行われる彼らの大会は単にカタロニア大会となった。

オリンピック大会の規則も検討された。スポーツの異常な発達は既に難しい問題を生んでいた。

とくにチームスポーツの出場資格である。

セッションはブラジルの予選システムを採用するよう提案した。それは「問題の完全な解決では ないが、疑問の余地のない利点」を持っているからである。

パリの1914年コングレスから1921年のローザンヌのコングレスにスムーズに引き継ぐために、「橋 渡し」の委員会がつくられ、フランスのメンバー、クラリー伯爵が委員長となった。メンバーにはパリ コングレスの三人の主役、フランツ・ライヘル、ポール・ルッソウ、アラン・ムールが含まれた。

第八回大会の開催都市の選択は深刻な論争を巻き起こし、イタリア代表団の劇的な退場を生 んだ。

ポリニャックの提案で IOCは直ちに、6月2日投票することを決めた。

グート‐ヤルコフスキーは、パリとアムステルダムが「それぞれ第八回、第九回の開催都市とし て選ばれることを求めた」クーベルタンの最近の回状に触れた。

ローマもまた争いに加わっていたが、この立候補にはなんら公式のバックアップがなく IOCは 1908年の繰り返しは望まなかった。

ロサンゼルスも立候補していた。しかしヨーロッパ人が負担しなければならなくなる出費が、当時 はあまりに大きすぎるように思えた。

アムステルダムは、1919年にアントワープに、1921年にパリに譲っていたが、その立候補は「最 も騎士道的、最も規律ある形でスポーツ精神を代表していた。」

イタリアのモントゥーがクーベルタンの提案を嘲笑したが、この提案は投票にかけられた。14票 が賛成、反対 4票、棄権 1票であった。投票の有効性が二度三度と争われたが、「正確に同じ結 果が出た。会長はいつものように投票しなかった」。

その夜、イタリア代表団はローザンヌを去った。クーベルタンが自分で認めているように、それは

「一つの策略」に対する抗議であった。

IOCは詳細な付属文書を出さなければならなかった。

IOCにはまだ取り組まなければならない大きなハードルが残っていた。それは冬のスポーツの問 題であった。

一方の陣営はスカンジナビア世界で、長い歴史と自分たちの冬の大会に誇りを持っていた。他 の陣営はアルプスの国々で、新参者ながら滑降の新しいビジョンによって意気軒昂であった。そし て生まれようとしている冬の観光産業によって強力に支えられていた。

結局、エドストレームのおかげで、 6月2日、4日、6日の長い議論のあと妥協が成立した。「IOC は第八回オリンピアードの際に1924年シャモニーで開催されるウインタースポーツウィークを後援 する。しかしこれはオリンピック大会の一部を成すものではない。」というわけである。

このセッションの間に他にも検討された問題があった。

例えば、クーベルタンはフランスの委員、グランダスに「1894年以来達成された全ての仕事を概 括する一種のIOCの歴史」を書くことを求めている。今回の我々の研究者はこのプロジェクトに関し ていかなる痕跡も見いだすこともできなかった。

YMCAの使者で地域大会の先駆者である、エルウッド・ブラウンは中央ヨーロッパ大会の創設 を提案した。チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランド、ユーゴスラビアからなる一つのグループと ギリシャ、小アジア、エジプトのグループ、「そして多分ブルガリア」の大会である。これには何の決 定も下されなかった。

アメリカの委員、メリックは「カトリックとしてブラウン氏とYMCAの指導者に深甚な敬意」を表した。

提案の宝庫とも言うべきエルウッド・ブラウンは後日、「遠い国から集まる大衆スポーツのデモンスト レーションの大会をYMCAの体育指導者によってパリで開催することも可能であろう。」と示唆した。

1921年コングレス

23カ国から78人の代表が出席した。当時存在した19のIFのうち15の代表、22のNOCの代表が 出席した。ドイツと第1次世界大戦におけるその同盟国は招待されなかった。

コングレスのテーマはハッキリしたものであった。オリンピック競技のプログラムの修正と参加の 条件。IAAF会長で将来のIOC会長、ジークフリード・エドストレームが議長をつとめ、IFとNOCを代 表する二人の副議長の補佐を受けた。

三つの委員会がつくられた。アマチュアリズム、議長G.T.カービー、オリンピック大会の組織、議 長フランツ・ライヘル、オリンピック体操競技プログラム、議長A.J.クッペルスであった。

三つの諮問会議から生まれたアイデアや勧告はコングレスの討論に取り上げられた。

非常に議題が多かったので全てをカバーすることはできなかった。

1914年コングレスと1920年アントワープセッションからの懸案であったオリンピック大会の種目削 減については、コングレスは見るべき成果を上げることが出来なかった。

削減の候補となったのは、自転車トラック競技、射撃、ヨット、テニス、サッカー、そして1914年の

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