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ストックホルム‐1912年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 108-111)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.6.11. ストックホルム‐1912年

第14回ストックホルムセッションは1912年7月4日、8日、10日、17日リクスダッグ宮殿で開かれ、

31人という記録的な数の委員が参加した。

ストックホルム大会に参加したアメリカ、イタリア、ルクセンブルグに国内オリンピック委員会がで きた。スイス、ロシア、アメリカ、ボヘミアの国内オリンピック委員会の重要な会合があったと伝えら れている。

1911年、「オリンピック・レビュー」は芸術競技の規則をフランス語、英語、ドイツ語の三か国語で 発表した。エントリーの到着が遅く、締切りが1912年 3月 1日から 4月 1日に延ばされた。

セッションとオリンピック大会のスウェーデンの組織はまことに非の打ち所のないものであった。

クーベルタンが指摘したように、バラクがこれら全てを取り仕切った。

セッションの開会式はそれに相応しい、民主的な調子を帯びていた。

バルク、フォン・ローゼンそして皇太子の演説は短かった。

クーベルタンは過去十年にわたり多くの困難を克服してきたことを慶賀し、「オリンピックの星団 が半年ごとに増えるのを見る満足」を表明した。

IOC会長にとって、ストックホルムセッションは「偉大な功績」に続く「反省と準備の時」であった。

閉会に当たっての会議を含む 4つの会議が、参加者の情熱的とさえいえる、盛んな関心のうちに 行われた!

議事録を精読すると三つの主要な点が浮かび上がってくる。オリンピックムーブメントの原則と 目的、IOCの運営と大会の組織、そして1914年パリコングレスの準備である。

オリンピックムーブメントの原則と目的の確認はバーゼル委員会の提案にみられる。

フォン・ベニンゲン男爵が報告者となり、基本原則が想起され全会一致で承認された。

あるオリンピアードの間に大会が開かれないことがあっても、オリンピアードの順序と間隔は変更 されないことが確認された。

「可能な限り」オリンピック大会は「全ての競技、全ての国、全ての人」を参加さすべきである。

しかし数多くの競技連盟からの申請を受けて、「全てのスポーツ」の参加は1900年以来問題に なっていた。

委員会はスポーツを三つのカテゴリーに分けるのがフェアーであると考えていた。即ち不可欠 なもの、望ましいもの、可能なものの三つである。

議論はクールシー・ラファンが「善意の合意」に訴えざるを得ないほど激しいものであった。彼の 意見によれば、「オリンピックの理想」は「 IOCの高い使命」を果たすために芸術と文学競技を付 け加えることによってのみ「可能な限り高く」維持することができるというのであった。

クールシー・ラファンは「全てのスポーツ」は実行不可能な理想であると考えた。

彼はプログラムはあまり広げすぎてはならないと考えていた。この点について討論を纏めて、会 長は「この世界の」全てのスポーツを含めることの不可能なことを述べ、主催者にオリンピックプロ グラムのスポーツだけに限り、セントルイスの失敗を繰り返さないよう勧告した。

「全ての国」の問題については、セルビアオリンピック委員会がロシアのオウロウソフ王子の支持 を得て、委員会にメンバーを一人送りたいと要求した。IOCはセルビアの候補者が「必要な資格」

を備えているという条件でこの要求に同意した。

この問題に決着を付けるにはクーベルタンの権威が必要であった。

しかしアイスランドの選手が同じような要求を出したときには、彼らはドアの方を指さされ、デンマ ークの役員を通じて要求を提出するように言われた。

イェリ・グート博士は民族主義的な願いを支持して、ボヘミアを「国」として参加させることを要求 した。オーストリア代表とグート博士の間に、「丁重ではあるが気詰まりな議論」の後、現状が維持 された。スポーツに関してボヘミアは「チェコ委員会」の形で認められた。同じ条件はオウロウソフ 王子の同意に従ってフィンランドにも適用された。

「全ての人」に関しては、スローンが提案を説明した。「我々はあまりに貴族的なスポーツの侵略 を許してはならない。大衆のスポーツが何処でも行われなければならない。これは我々の仕事の

背後にある全体的哲学である。」

決定は何も行われなかった。IOCは提案を持ち越した。そのため、「全ての国、全ての競技」は ある程度のニュアンスを残すという結果になった。

大会のプログラムはクールシー・ラファンの提案した区分けに照らして検討された。

不可欠なものの中には、陸上競技、格闘技、競泳、体操、漕艇、射撃、馬術、自転車(ロード)、

近代五種が含まれていた。また「芸術競技、即ち建築、絵画、彫刻、音楽、文学」も不可欠なもの であった。

望ましいスポーツには、ラグビー、フットボール、ホッケー、ローンテニスなどのボールゲーム、そ れにヨット、アイススケート、自転車(トラック)が含まれていた。

可能なスポーツと見なされるのは、主催者の希望で加られる国際スポーツとされた。

国際スポーツとは IOCメンバーの 6つ以上の国で行われているスポーツと考えられた。

セッションは大会のプログラムに採用できる競技別の種目まで明記して、非常に細かいところま で踏み込んだ。

ヨーロッパ体操連盟は体操競技の種目を選択する。漕艇に関しては、委員会はドイツ、イギリス、

ベルギー、イタリアの連盟が選択に共同責任を負うよう提案した。

セッションの第二の焦点は IOCの国際的管理運営に関するものであった。クーベルタンは健 全な財政運用の必要にメンバーの注意を喚起した。

IOCの財政は「適切なもの」でなければならない。クーベルタンは各国オリンピック委員会(NOC) を訪問することが必要だろうかと問うた。

大会の運営については、IOC、NOCメンバー、審判は今後バッジを付けていればスタジアムに 入れることになった。大会の後、実績評価委員会が大会中起こった難しい問題を評価する。委員 会はファン・テュイール、ベニンゲン、バルクで構成される。

スウェーデンの役員が、不当に扱われたと訴えた選手の問題を処理することになった。

プロトコールに関してさまざまなことが決められた。パレード、讃歌、旗等。

これらは見かけより重要で、IOCの各国委員会や競技連盟に対する優越性を高めた。

登山競技のメダルはこのオリンピアードでは授与されなかった。

7月4日の第一回ミーティングで、ブダペストの立候補撤回に続いてベルリンが全会一致で第六 回オリンピアードの1916年大会開催都市に選ばれた。

クーベルタンの要請によって、オリンピックへの女性の参加問題が提起された。

「オリンピックに女性の参加は認めるべきかどうか?」

実際のところそれまでに、女性は体操、テニス、水泳に参加しており、その数は増えつつあった。

オリンピックは女性に公開されるべきか、否か?

議論は行われなかった。クーベルタンは「オリンピック・レビュー」を参照するようにメンバーに勧

めた。この問題は1913年のミーティングで検討されることになった。

1912年3月28日のバーゼルでの決議に基づいて、コングレスの構成がクールシー・ラファンによ って提案された。コングレスの参加者は、IOCメンバー、各NOCから10人以内の代表、この数はそ の国のスポーツの重要度に応じて決められる。そしてNOCのない国からは外務省の代表が出席 するという条件で各国 3人が認められた。

出席した代表だけが投票権を認められる。この提案は全会一致で可決された。

この時、1914年のパリコングレスの準備が残っていた。イギリスのメンバー、クックが三か国語(フ ランス語、英語、ドイツ語)で告示の手紙と多くの提案を含むテキストを提出した。IOC委員会の報 告者、フォン・ベニンゲン男爵が承認された。

それからクーベルタンは IOCメンバーへの「告示の手紙」を読み上げた。そのためクックの提案 の第一点が無効になった。

結局、IOCメンバーはパリコングレスの準備書類を1913年2月1日までに受け取ることになった。

この仕事のためにベニンゲンが細目にわたって指示を受けた。

セッションは成功であった。一方では、ほとんど完全にIOCと大会の活動と構成に関する技術的 問題を扱ったにもかかわらず、ストックホルムセッションは芸術競技についての決議の更新に見ら れるように、オリンピズムの究極の目的に沿ったものであった。

セッションの議事録は「オリンピック・レビュー」に発表される。

次のセッションは1913年のコングレスの間にローザンヌで開かれることになった。

1.6.12. ローザンヌ、1913年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 108-111)