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同じ世紀の二人の師匠

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 69-73)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.5.1. 同じ世紀の二人の師匠

1.5.1.1. ジュール・シモン

1888年、シモンは体育振興のための委員会の役員遠の小さなサークルに参加した。

この委員会の目的は、ゲームスポーツの導入によって教育を改革することであった。

彼は、全ての総会、全ての集会、全ての活動の場に姿を表した。

シモンンは74才であった。彼はその肉体的、精神的バイタリティーを賛嘆され、道徳的高潔さに よって尊敬されていた。

クーベルタンはその時25才であった。そしてこの最も素晴らしい共和主義的美徳を体現した人 物に対する尊敬の念は止まるところを知らなかった。クーベルタンはシモンに会い、仕事について 相談し、彼を自分の精神的アドバイザーと見なした。

ジュール・シモンは1814年、ほどほどの資産家の家に生まれた。父親は「ブルー」であった。つ まり共和派であったために、白色テロを伴った王政復古が始まったとき疑いの目で見られていた。 

彼は非常に幼いときから、教区の親切な神父の世話になった。「プティショーズ」(ちびさん)とあだ 名され、同級生の面倒を見る役目をした。

エコール・ノルマル・シューペリュールの優秀な学生であった彼は、アカデミーに仕事を得た。

彼は教訓的な模範であり、共和派であったクーベルタンも民衆教育の必要を確信していたので、

シモンは彼の好みに合った。

シモンは信念の人であった。彼はルイ-ナポレオン・ボナパルトのクーデターに反対してソルボン ヌを追われた。1851年12月9日、国民投票の前夜、彼の言葉はマスケット銃の銃声のように、大学 のホールに轟いた。

「私は倫理の教授としてここにいる。今日私は君達に授業をする義務はない。そうではなくて一 つの例を示す義務がある。もし明日、国民投票を非難する投票が只一票しかなかったとしても、そ れは私が投じたものだと前もって君達に告げておく。」

彼の言葉は歓声をもって迎えられ、彼は付け加えた「私は君達の歓声を誓いととる」。

クーベルタンはシモンの内に、「真の共和派で、真に保守的な」性格を見た。彼は活動的な政 治生活の変転にもかかわらず、「ハッキリと民主的で、頑固にリベラルな」共和党員であり続けた。

彼は輝かしい思想家、揺るぎなき共和党員であるばかりでなく、勇気ある改革者であった。短命な 政府の間、大学における重要人物であった彼は、初等教育の義務化、無料化を望んだが、虚し かった。この立場に、クーベルタンは同意していた。「民主主義の正当な要求の範囲」である。クー ベルタンが疑いを持ち始めた時、助言と慰めを求めたのは、いつもシモンであり、彼の作品の内 であった。

逆説的なことに、シモンが改革について支援を求めたのは、スポーツを知らない政治家だった。

この人物は、1891年1月15日パリでUSFSAによって催された宴会で、ユーモアたっぷりに、生徒で

あったころ耽った身体活動を全く欠いた毎週のぶらぶら歩きの思い出話をした。彼は、殴り合いな ど全く行われない、洋服の破れることも全くない遊びは残念だと言った。この政治家はスポーツゲ ームを学校に取り入れようと企てたが成功しなかった。

何よりも、クーベルタンの内に賛嘆の念を引き起こしたのは、その人の寛容さであった。

シモンは信者でありなら、フランスにおける無宗派教育を主張した。彼は同時に、自由の名にお いて、ジェスイットや修道会が学校を開く権利を擁護した。

スポーツ運動について連合の権利の問題が提起されるときクーベルタンが語りかけるのは何時 も、「法的には存在しない省の議論の余地のない大臣」に対してであった。

ジュール・シモンは、クーベルタンが言ったように、「人道主義的事業省の大臣」であった。その 依って立つ基盤が民主的な生活にしかない省の万人の認める長として、彼は進むべき道を示し、

勇気づけた。彼はまた、もし自分が役に立つことを知っているのであれば政治に首を突っ込む必 要のないことも教えた。

この教えは、クーベルタンのオリンピック大会のための国際委員会の設立に反映している。そし て彼の、全ての国、全てのスポーツ、そして平和主義に貢献する広い国際的な運動の創造に、オ リンピックと平和の「反組織」、一種の巨大な反政府組織の設立に、そして権力と人生の攻撃に平 静に耐える彼の能力に反映している。

ジュール・シモンは、クーベルタンにとって死に至るまで、愛する父であり、分身であった。我々 が第二代IOC会長の政治思想の中に最も強く読み取るのは、疑いもなく、この人を模倣をしようと する賛嘆の念である。ジュール・シモンのように、クーベルタンは民主的な共和主義者であり、深く 伝統に帰依した自由主義者であった。

誇り高い、断固とした性格、最も深い内面の衝動が時として別の面を見せたものの、彼は対話 の人であり、プロレタリアート解放に価値を置く進歩派であり、仰々しいところのないカトリックであ った。彼を、(彼はジュール・シモンの不可知論を理解することができた)穏健な、民主的な、進歩 的なフランス人右派の中に位置づけても、そう大きな誤りを犯すことにはならないだろう。

それに、ジュール・シモンの弁舌と文才に対するクーベルタンの賛嘆の念が、彼の戦闘的な運 動の進め方に影響なかったわけではないことを付け加えておいてもよいだろう。

彼はジュール・シモンの「緊迫した、持続する」印象をつくりだす弁舌の冴えと文章の熟達を評 価していた。ジュール・シモンと同じように、クーベルタンはフランス語を巧みに操り、多くの手紙や 無数の手記を書き、才能のある、説得力のある、辛辣な、ユーモアに満ちた、感動的な語り手であ った。

「神、家族、祖国」、これはパリのプラス・ド・ラ・マドレーヌに建てられたシモンの記念碑に彫られ た言葉であるが、クーベルタンは、この言葉にもう一度、ディドン神父の著作のペディメントのなか で、ほとんど同じ形で出会うことになる。

1.5.1.2. ディドン神父

我々はクーベルタンが語っている以外に、ディドン神父についてほとんど知らなかった。

それは、ピエール・ド・クーベルタンが彼に相応しい役柄を与えて偉大なオリンピックの冒険に 参加させようとしなかったことに、ディドンは我慢ならなかったからである。

1889年、クーベルタンはアルベール・ル・グラン中等学校に行った。この学校はドミニコ派によっ て運営され、パリの南南西に広がる台地のアルキュエイユにあった。

彼は、そこでスポーツ協会をつくろうとする企てに失敗した。カトリック教会は全体として、生徒達 が間違ったスポーツに染まることよりも、非宗教学校の生徒と交際することの方を恐れるという、単 純な理由のためであった。

アルキュエイユで、クーベルタンは修道会の上長者ジュールダン大修道院長のにべもない拒否 に会った。しかし我々が知る通り、クーベルタンは簡単には諦めなかった。

ディドン神父にとって、アルキュエイユは召命の地であった。彼は目の前に、キリストの慈善と希 望の精神からは程遠い、排他的な風潮に染められた子供たちの社会を見いだした。時代と場所こ そ違え、彼はトーマス・アーノルドと同じように、教条主義にとらわれることなく、社会的な集団を構 築することによって魂を目覚まそうとした。

最初から、彼は衛生と清潔さのルールを課した。遊び場を広げ、修道院の境界の壁に裂け目を つくり、公園を運動場にした。

1892年7月20日、彼は学校の賞品授与式で次のようなスピーチを行った。「我々は、身体的努 力への信仰を維持するために、体育スポーツ協会を組織した。これは他の努力の出発点である。

私は活気に満ちた意思の命令を実行することの出来ない軟弱な筋肉を信じない。頭脳は、それ に奉仕する活力のある筋肉を持たない限り健全ではあり得ない。」

1891年1月4日、「全校集会」で彼は「体育スポーツの道徳的影響」と題する講義を行った。この 中で彼は自分の実際的教育の知的性格を明らかにした。「私は何も言わず、スポーツを組織し、

全てのグループを混ぜることによって、それ(党派的な精神)を根絶してきた。」 これがルアーブル での会議(1897)での彼のスピーチのテーマそのものであり、後にクーベルタンが絶えず繰り返す 中心思想となる。

1891年1月4日アルキュエイユでの会談の後、クーベルタンはアルベールルグラン・スポーツ協 会を創設した。3月7日、この協会は最初の選手権試合を行った。

ディドン神父が名誉会長、クーベルタン自身が事務総長であった。賞品授与式で、ディドン神 父はドミニコ派の色、黒と白の旗を授与した。

クーベルタンはこのシーンを次のように報告している。「彼は、彼らに体育スポーツの基礎であり、

存在理由である三つの言葉をモットーとして与えると言った。シティウス、アルティウス、ホルティウ ス!より早く、より高く、より強く!」

このモットーはクーベルタンによって取り上げられ、近代オリンピックのモットーとなった。 1891 年3月7日のことであった。

1月13日、ディドン神父は白い法衣を風にはためかせながら、クーベルタンと一緒に丘を上り谷

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