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地域大会

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 166-170)

1.10. より民主的な方向へ

1.10.6. 地域大会

場所がどこであれ、大衆的な大会は共通の特徴をもっている。何処であれ「それは彼ら自身の 意味付け、彼ら自身の高貴さ、彼ら自身の偉大さを引き出そうとする努力から生まれるものである」。

クーベルタンはこの意見を「北のオリンピアード」から得た。これは地域大会とは言えないが、そ の地域性とオリンピック精神から我々の研究にとって見落とすことのできないものである。

しかも、クーベルタンは、この努力、「全ての文明の根源」を日常の市民生活の一部にすること を説いて飽くことがなかったから、尚更のことである。

クーベルタンにとっては、地域大会はオリンピック選手選考のための単なる機構的な一要素で はなかった。このことを心において、我々は何故YMCAの忠実な構成員であったエルウッド・ブラ ウンがクーベルタンとIOCによって尊敬され、人気があったかを理解するよう努めなければならな い。エルウッド・ブラウンにとっては、スポーツ大会は最も恵まれない社会階層と国にとって基本的 な教育の一部であった。オリンピック前の予選イベントとしての地域大会の考えは彼の計画の中に はなかった。ただ付随的に、オリンピック大会成功のために地域大会が予選の役割を果たすよう

求められているのであった。

しかし彼の地域大会は常にオリンピックの理想の息吹に包まれた勇壮華麗な競技場と見なされ ていた。

1921年のローザンヌコングレスの幸運な結果の一つは、地域大会発展のためのより正確な定義 と新しい刺激が得られたことである。

1912年に、クーベルタンは「この支配される人種の支配する人種に対する勝利が危険な意味を 持ち、反乱を勇気づけるものとして地元の世論に利用される可能性があるという偽りの思想」を非 難したことがある。

彼はドイツだけが「原住民」の間にスポーツが発展するのを恐れず、イギリスが原住民たちの意 志に任せっぱなしにし、イタリアはてんから地域大会のことなど考えたこともなく、フランスは何とい うことかそのようなプロジェクトに反対している、と嘆いている。

世界大戦は、アフリカだけでなく、ヨーロッパでも、そして事実上全ての大陸で、この問題の要 素に大変化をもたらした。

ヨーロッパでは多くの国が独立を達成した。チェコスロバキア、ポーランド、バルチック諸国、アイ ルランドは苦闘の末自由を獲得した。領土の変更が中央ヨーロッパで起った。今や外交的均衡作 用は多かれ少なかれフランスによって支配されていた。

オリンピックムーブメントは、国際政治においては均衡を回復しようとする努力の反映に過ぎな いものになりかねなかった。

ローザンヌコングレスは1922年の第21回パリセッションの方向づけをした。

「スポーツ地理」の原則に忠実であった会長とほとんどの委員は、アイルランド自治法案が成立 し、効力を発するやいなやアイルランドのIOC委員を認めることにやぶさかでなかった。ところがセ ッションの正に第一日目、法案がダブリンとベルファストの二つの議会を通過しているにもかかわら ず、イギリス代表のメンバー、ケンティッシュ大佐は決定を延期するよう求めた。彼は明らかにロン ドン当局に相談し、同意を得て、6月 9日、南アイルランドのIOC加盟に賛成した。

新しいポーランドは、フランスの強力且つ秘密裏の応援を得て、西側勢力によって発動された 生まれたばかりのソ連に対する闘争で、政治的に西欧同盟の側に立とうとした。既に物質的にも 精神的にも西側に組み込まれているのに気がついていたから尚更であった。

ポーランドスポーツの代表ビッティッグは、1920年以来ポーランドNOCは二年ごとの地域大会、

ポーランド、リトアニア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキア、ブルガリア、ユーゴスラビア、

エストニア、フィンランド、ギリシャ、アルバニア、トルコ、ルーマニア、そしてダンチッヒ自由都市の 参加する地域大会の開催を熱望していたと述べた。

組織委員会本部はワルシャワになるはずであった。

この計画は一種のオリンピック「防疫線」を示そうとしたものであった。

ポーランドはこの計画を申し分のない法的主張の基礎の上においた。つまり、IOCはローザンヌ

セッション以来地域大会に高い関心を示してきたではないか?

旧ロシアの委員で今はパリに住むプリンス・ウルソフは、ロシアがポーランドの提案に加わること を認めて欲しいといった。三百万のロシア人亡命者が既に自分たちのスポーツ協会をつくってい る。ソビエトロシア自体もスポーツに扉を開きつつあった。1921年にソビエトサッカーチームはポー ランドチームと対戦している。

情勢は、ルーマニアのカロル国王がバルカンにおける政治的リーダーシップを得ようと中央ヨー ロッパの地域大会を提案したために余計こんがらがってしまった。この大会にはルーマニアに加え て、ギリシャ、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが招待される筈であった。平行関係が印象的であ る。政治用語の「一寸した了解事項」がオリンピズムの「一寸した了解事項」に反映している。

セッションの間、外交上の区分けとは異なるスポーツ地勢学の信奉者と、どんな性格のものであ れ地域的な発議を絶対に支持する者を巻き込んだ活発な議論が続いた。

前者のグループにはベルギーの委員、バイエ‐ラツール。後者にはいくらかニュアンスがある が、モナコの委員、ゴーチエ‐ビニャールがいた。

バイエ‐ラツールは今やクーベルタンの後継者と見なされるようになっていたが、IOCは二つの 政治的プロジェクトに直面しようとしており、「スポーツは政治からは切り離されてあるべきだ」と考え ていた。

ポルトガルの委員、ペンハ‐ガルシアとゴーチエ‐ビニャールはバイエ‐ラツールに賛成して いたが、IOCはそのような提案を禁ずるよりは奨励すべきであり、地域大会に対するIOCの後援は その地域のスポーツの発展に貢献すると考えていた。   

結局、政治的、経済的理由でIOCはヨーロッパ地域大会を拒否した。

しかし委員の「エキゾティックなスポーツ」に対する態度は全く違っていた。

彼らは「極東大会とラテンアメリカの大会は必要に応えるもの」であると考えた。

逆上って1913年から、クーベルタンは「極東オリンピアード」の開始を見たいと望んでいた。その 文明が非常に「洗練されて」いるので、彼は1904年のセントルイスと比較されねばならないのを嘆 いた程である。セントルイスは「未開の状態からやっと抜け出たばかりの種族の代表」であった。

極東では、西欧スポーツは植民者とプロテスタント宣教師によって紹介された。

日本では、明治時代がドアを開いた。

クーベルタンは、1913年の記事でオリンピックの理念の極東への浸透の歴史を跡付けている。

1911年、アメリカ植民地省の下にアメリカ人ウイリアム・フォーブスを会長とするフィリピンアマチ ュア体育協会がつくられた。1912年マニラで最初の国際スポーツ大会が数十人の中国人、日本 人が参加して開かれた。極東大会が創設され、二年ごとに開かれることになった。1921年の上海

大会は確か第五回大会であった。

IOCは大会後援を承認した。この大会が中国、日本、フィリピンのような大国に「教育的影響」を 与えると考えたからである。極東大会は「オリンピック幼稚園」の役割を果たした。同じことがラテン アメリカ大会に対しても行われ、リオデジャネイロで大会が開かれた(1922年9月)。

1920年、エルウッド・ブラウンはIOCのラテンアメリカ「担当官」になった。

彼は1922年のIOCセッションで任務について報告している。大変な困難があった。

距離、ナショナリズム、プロテスタントとカトリックの隠れた争い。結局、ブラジルのカトリックが最 後の勝利を収めた。IOCはラテンアメリカ大会後援を承認した。

南アメリカや極東へのオリンピズムの浸透は多かれ少なかれ一貫した政策であった。

ラテンアメリカ大会、中央アメリカ大会、極東大会は、ある意味でIOCの一貫した長期戦略の論 理的、漸進的な継続であった。

アフリカ大会をつくろうという企てははるかに困難であった。事実これは失敗に終った。後に見る ように、この問題は1923年のローマセッションの議論の中心となった。

1914年以前、クーベルタンのアフリカへの関心は文化的と言うよりも政治的なものであった。古 典的な帝国主義的歴史観に捕らわれた植民地主義者の態度を反映していた。

1918年以後、被支配国の反乱の危険とアフリカの人々の解放の不可避なことを知って、政治か ら文化的な観点へ移った。この態度はクーベルタンの足取りと調和するものだ。彼は、文化がアフ リカの隷属状態から独立へのスムーズな移行を可能にすると信じていた。

1914年以前、クーベルタンの関心は主としてホワイトアフリカに限られていたが、今や彼は、そ の過去が認められておらず、未来への権利を否定されているブラックアフリカ、しかしその権利を

「要求しはじめようとしている」大陸に関心を持ち始めた。

平和維持活動に参加するために、オリンピズムは「アフリカ征服」を開始するであろう、そしてア フリカに「スポーツ活動の利益」をもたらし、人々に「現代文明の必須の基礎である体系化された ルールと比較可能な結果を伴う広いスポーツのシステム」に参入することを可能にするであろう。

1923年、IOC会長はアピールを出した。「スポーツはアフリカ征服を求めている!」

この目的を達成するために、IOCは二年毎にアフリカ大会を開催する。ヨーロッパの施設があり、

役員のいるアフリカ大陸の主要都市で開かれる。この大会は「原住民だけのためのもの」で1927 年、エジプトのアレキサンドリアで始まる。

内陸部の若いアフリカ人には「原住民スポーツグループ」が接触する。このグループにはIOCが

「アフリカのスポーツ奨励のためのメダル」を大量に手に入れられるようにする。メダルの表面には ラテン語で「自分を知り、自分を治め、自分を支配する者は真のスポーツマンである」と刻んであっ

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