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ブリュッセルコングレス、1905年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 90-96)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.6.4. ブリュッセルコングレス、1905年

第三回オリンピックコングレスは、1905年6月9日から14日まで、パレ・デ・アカデミーでベルギー

国王、レオポルドニ世後援の下に聞かれた。国王は1901年のパリ訪問の際に招請されていた。議 長はクーベルタンであった。

スポーツと身体教育の関係を明確にしなければならなくなっていた。

スポーツと身体教育に関することというコングレスのテーマは、十分に漠然としており、クーベル タンが全ての人を喜ばして、自分のカードを存分にプレーできるものであった。

この焦点の定まらないテーマは、クーベルタンのポジションの脆弱さを反映していた。

1905年はオリンピズムにとって良い幕開けをした。クーベルタンは国際コングレスの古いプロジ ェクト、1901年、1903年、1904年に議論されたスポーツ規則の統一を実現することができた。

三つの提案があった。一つはドイツの委員から、一つはスウェーデンのいろいろなグループから、

一つはアメリカ競技連盟(AAU)からであった。

最初の提案は、「将来の全ての競技に強制されるスポーツ規約の作成」を呼びかけていた。こ れはあまりに独裁的であった。

結局IOCはスポーツの技術的な面に関する法を定めることができるのだろうか?

以後長きにわたって存在することになるオリンピック大会と「通常の世界選手権」との間の混乱 は既に感じられ始めていた。

IOCメンバー自体には、自分たちで技術的問題を扱う能力は与えられていなかった。

第二のスウェーデンの提案は、クーベルタンが「余りに単純化されすぎ、挑発的に論理化された やり方」と呼んだ方法で全てのペンディングになっていることを解決しようとするものであった。

その提案者によれば、思い切って古代のオリンピック大会に帰らなければならない、現代スポー ツ、或いは現代のスポーツの実践に似たものはすべて消し去らねばならないというものであった。

この提案は、「実行不可能」で「破壊的」であった。

クーベルタンは激怒した。

「第三の提案だけが問題にする価値があった。」

それはAAUの代表、L.P.シェルドンによって提案され、主張された。

彼はIOCに対して「スポーツ競技の規則を定める問題に関心を持つ全ての関係者の間に意見 の交換を奨励し、得られた合意を [IOCの]権威をもって全面的に支持する」ことを呼びかけた。民 主主義者は喜び、IOC会長は更に喜んだ。彼は何時も、オリンピック競技の技術的責任はそれぞ れの競技連盟に負わせ、究極のコントロールと道徳的権威はIOCが握っていたいと思っていた。

兵たんと実務は競技連盟に、戦略はIOCに。

第三回オリンピックコングレスを意味あるものにしたのはこの第三の提案であった。

1901年から準備の始まっていたこのコングレスは、1902年にセントルイスで開催が予定されたが、

輸送の問題のために延期されて、結局、ブリュッセルで開催された。

1902年4月クーベルタンはアマチュアリズムと競技規則についての意見を確かめるために、全て

の国内競技連盟と国際競技連盟に質問状を送った。

回答はほとんどなかったが彼は驚かなかった。競技連盟の多くは規則の固定に反対であった。

国際コングレスを成功さすために、クーベルタンは主要なテーマを「スポーツと身体教育」に変更 した。

代表団は、各自の国の学校の三つのレベル、初等、中等、高等教育で、身体運動と競技スポ ーツの分野でなし遂げたこと、成功例を発表するよう求められた。

そして初めて、社会生活のいろいろな分野、田舎、都会、刑務所、矯正センター、女子刑務所 での例、また国際的レベルでの成果の発表が求められた。

コングレスの規約は、競技連盟のイニシアチブで招集されたことを示そうとしている。

しかし中心のテーマ「スポーツと身体教育に関する問題の検証」を見れば、クーベルタンが再び 事態を掌握し、自らの教育者としての性格を優先させたことは明白である。

しかし同時に、社会の変化を反映し、以前は教養ある特権階級の青年に限られていた新しいオ リンピズムの場は、今や、いつの時代も疎外されていた女性を含む全ての社会階層、そして全て の国に開放された。

コングレスには、21の国、14の政府、9の大学、54のスポーツ組織を代表する205人が参加した。

28人のIOCメンバーのうち15人が出席した。そして3つの国内オリンピック委員会代表が参加した。

参加者の最も多かったのはフランスとベルギーであったが、アメリカと南アメリカの国々も代表を送 った。

コングレス事務局は、世界中の40の大学及びスポーツ組織から、好意的なメッセージを受け取 った。このメッセージのいくつかには通信文が含まれていた。この時代にしては、関心は非常に高 く、国際的な参加度も異常に高かった。

招待状はベルギーの在外使節団を通じて送られた。ブリュッセルコングレスの組織は称賛すべ きものであった。

コングレスを素晴らしい市庁舎で開催したいという要請は、もう少しで社会的騒動を引き起こす ところであった。コングレスは結局、科学アカデミーの一部門であるパレ・デ・アカデミーのレセプシ ョンルームで開かれた。

コングレスは1905年6月9日開会した。厳かな式典にフランス文学者協会会長、マルセル・プレ ボーのスピーチが華を添えた。彼は「スポーツ学校における精神」について話すため、わざわざパ リからやって来たのであった。

マルセル・プレボーの話は基本への回帰を代表するものであった。即ち、スポーツは自分白身 を知ることを可能にするものであり、人間はーつの全体であって、二元性によって知覚されるもの ではない。

ゴールは6つの主要な演説のうちに設定された。

ジョルジュ・ストレリー、ルイルグラン高校(パリ)の教師、かつての秀れた体操家は「古代の体育」

について話した。ジョルジュ・リーブは「現代の体育館」について。C.ボナモウは「YMCA国際トレ ーニングセンター」について。グランダスは「いろいろな国のセーリングのさまざまな形態」について。

カミングス伯爵は「馬術競技の将来の形」について。最後にドッズ将軍が「植民地における体育」

について話した。

教育についての第一委員会は「初等、中等学校、大学における体操、そして女性のための体 操」を扱った。

第二委員会は「田舎、都会における体育、諸国間の体育」を担当した。

第三委員会は「刑務所、植民地での受刑者教育としての体育」に焦点を当てた。

小委員会もまたつくられた。唯一議論されなかった議題は、女性のための体育であった。

事実、ヨーロッパの代表団はこの問題について、クーベルタン以上におざなりの考慮しか払おう としなかった。クーベルタンはアメリカの代表に「ゆっくり急ぐように」と忠告した。アメリカ以外では、

未だ女性のスポーツは無視され、せいぜいのところ淫らな冗談の口実に使われるのがせいぜいと いう状態であった。

最初の項目、諸国間のスポーツ試合は、ワーキングセッションでは検討されなかった。

開会演説でクーベルタンは、原則が確立されねばならないと思うと言った。

コングレスの参加者は、挙手によって全会一致で賛成した。

委員会の勧告が全て革新的というわけではなかった。例えば、発育のための体育を毎日行うこ ととか、学生がスポーツ連盟をつくる自由とか、「各教区」にスタジアムと体育館をつくる義務とかに ついては新しいものは何もなかった。

一方、多くの社会的要求が発言された。田園地域のための特別の教師のトレーニング、刑務所 内で運動ができるようにすることを義務づけること、医学学校に物理療法コースを設けること、病院 内に特別の施設を開設すること、そして冬のスポーツ、スキーの発展に特別の関心が払われた。

結局、一つのスポーツに絶対的な優位を与えるということはなかった。各人の生理学的必要に 応じた運動をということである。同時代のラグランジュ博士の仕事と同趣旨である。

しかし、サッカーがスポーツの王と讃えられた。「サッカーは経費をかけずにすぐ導入することが できる。全ての社会階層の若者のあいだに広がることが望ましい。」

教育改革成功の印として、スポーツ連盟と協会は当局に対してその利益を守れるよう、組織的 な方法を取るよう呼びかけが行われた。これはスポーツの分野に対抗勢力を造りだすことになった。

施設の長はスポーツ教師が一緒に行動できるよう、もし必要なら町の議会に逆らって働けるよう、

教師たちのためのセミナーを開くことを求められた。

これは独立精神の顕著な前兆となるものである。

クーベルタンは満足であった。会長としての彼の提案は全会一致で採択された。

しかし国際情勢には困難なものがあった。ドイツはタンジールに上陸し、フランス外務大臣、デ ルカッセが辞任した時機であった。ノルウェーは突然スウェーデンからの分離を宣言した。軍事的 緊張が至る所で高まっていた。

しかしIOCは、教師、教授、士官、医者、ジャーナリスト、科学者、作家、外交官、スポーツ管理 者を動員する力のあることを証明した。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 90-96)