• 検索結果がありません。

ゴッドフロア・ド・ブロネー ‐臨時会長

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 140-143)

1.8. 大渦巻きの中のIOC   1914‐1918

1.8.3. ゴッドフロア・ド・ブロネー ‐臨時会長

ブロネーは近代オリンピズムの偉大な構築者の一人である。彼の重要さはクーベルタン自身の 例外的な偉大さのために光を奪われてきた。

今や彼の思い出のために歴史は貢ぎ物をすべき時である。

ゴッドフロア・ド・ブロネーは長い間、喧嘩別れするまで、クーベルタンの最も忠実な、最も親しい 友人の一人であった。ヴォードアの貴族の出で、彼の家系はクーベルタン家よりも古い家柄であっ た。クーベルタンは彼を尊敬し、尊重せざるを得なかった。

彼はゴッドフロア・ド・ブロネーを自分の特別アドバイザーとし、自分の跡継ぎとして大事に育て た。

ブロネーは上流階級出身者の器量と余裕を身につけていた。古典的教養人で、一切の経済的、

政治的束縛から自由であった。彼は財産の生む利子で生活している19世紀ヨーロッパの名誉と資 産を形作る特権的な「幸福な少数者」の一人であった。

クーベルタンとブロネーの往復書簡はIOCの資料館に保管されているが、量と質の点で例外的 なものであり、非常にな知的やり取りを例証している。これが最近整理されたのはIOCの若いフラ ンス人研究者、パトリス・ショレーのおかげである。

1904年当時、大会をシカゴからセントルイスに移す際、すでにクーベルタンはブロネーのアドバ イスを求め、それに留意している。1905年以降、彼はブロネーにIOC内で存在を示すように励まし ている。しかしブロネーの気持ちは定まらなかった。貴族でジレッタントであった彼は、ロンドンセッ ション(1904,1908) にも、ブリュッセルコングレス(1905)にも、アテネセッション(1906)にも、ブダペ ストセッション(1911)にも出席しなかった。

彼は1908年12月、辞任することさえ考えた。もし「運命が彼に不正な仕打ちをしていたら... もし 彼がベルリンのセッション(1909)に出席出来なかったら、誰も彼の善意を信じなくなっただろう。」 

事務局をしっかりしたものにしなければならないと考えたクーベルタンは、ブロネーにIOCの財 務担当官になるよう勧めた。彼はカロー氏(当時の財務担当官)が気を悪くしなければ、という条 件で引き受けた。

1910年 6月27日、「秘密の」手紙で、クーベルタンはブロネーを後継者に指名した。

「もし私がこの[オリンピックの]仕事から離れなければならないとしたら、私を引き継ぐのは貴方 次第だ。貴方が会長になり、ムシャを事務局長、ベルティエを財務担当官にするのが、この事業の 将来を確かなものにする唯一の方法でしょう。」

1911年 1月25日、ブロネーは、役不足ではあるが、人が「ある役職をつくった」のだから、将来

はその役職が人をつくるでしょう、と答えている。   

彼は現在の状態はそのままだが、「組織だったきちんとした事務局の設立」によって「ある日、本 部の組織の多少の変更」が考えられるかもしれないと仄めかした。 (これは将来の執行委員会の 最初の暗示であったのであろうか?)

1913年のローザンヌコングレスについては、ブロネーは組織委員会のメンバーであった。1915 年1月10日、クーベルタンはブロネーに、戦争が彼の財産の三分の一を既に奪ってしまったと打ち 明けている。

1915年 4月10日、ブロネーは IOC本部のスイス移転に際してローザンヌ市役所のオフィスにク ーベルタンと一緒にいた。彼は今や一人前のIOCリーダーであった。

前に見たように、クーベルタンは戦争が続いている間の臨時会長としてブロネーを指名してい た。彼は次のように明記している「一度戦争が終われば、クーベルタンは一時的に譲渡した責任 の主なものを再び担うであろう。」

1916年から1918年まで、クーベルタンの手紙はほとんど全て、ゴッドフロア・ド・ブロネー一人に 宛てられ、勧告とアドバイスの形をとっている。

彼はブロネーに、まだIOC本部に返還されていないチャレンジカップのデリケートな問題を注意 深く扱うよう、委員の家族が死んだ場合IOCからお悔やみを送るのを忘れぬよう求めている。彼は ブロネーの回状の原稿に手を入れ、スイスに帰ることを発表した。

ブロネーは彼に委託された責任の更新の問題を提起した。

1921年は二人の関係の決定的な転換点であった。些細な問題が厄介なことになった。

モンベノンのカジノの中にIOCを置く問題‐そのための出費‐とくに1921年のローザンヌでのコ ングレス開催のための出費。

摩擦が起こった。多少堅苦しいところのあるブロネーは、次第にクーベルタンの干渉に異議を 申し立てるようになった。クーベルタンの方はブロネーがあまりに融通がきかないと非難した。それ でもなお、彼はブロネーに執行委員会の委員長になってくれるよう頼んでいる。この件については 次章で取り上げる。

1921年から1925年の間、揉め事は絶えることがなかった。それは主として二つの重要な分野で 起こった。

第一は執行委員会であった。執行委員会は、後にクーベルタンが指摘するように、会長不在の 際にそれを補うものとして、彼が勝手につくりだしたものであった。

紛争はカービー事件を巡って公になってしまった。アメリカ人、カービーが第七回アントワープ 大会について一冊の本を書いた。彼が世論に対して「オーバーに飾りたてて」提供した報告はコ ングレスとローザンヌセッション(1921)の批判で終わっている。

クーベルタンは、ブロネーに対し執行委員会の委員長の資格でグート‐ヤルコフスキーを含む メンバー二三人の小委員会を設置し、カービーの「だいそれた」エッセーに一つ一つ反論するよう

に求めた。

クーベルタンはブロネーを前線に押し出した。しかしブロネーは犠牲の羊になるつもりはなく、

執行委員会の権威とその委員長の独立を確立するためにこの機会を捕らえた。

1月8日、彼はクーベルタンにきっぱりとした返事を送った。彼は一方でクーベルタンがローザン ヌでカービーを「彼を苦しめる厳しさで扱い、それが多くの厄介な問題の原因となっている」と断言 し、一方で、クーベルタンによって執行委員会に提出された説明は役に立たないと言った。つまり それはただ火を煽るばかりで、アメリカオリンピック委員会とIOCとの関係に取り返しのつかない傷 を与えるだろう。

彼はクーベルタンからの手紙で十分であろうと付け加える。「私が信ずるように貴方の手紙が物 事を決着するのに十分であれば、私は執行委員会を危険に晒すようなことはしたくありません。」

手短に言えば、かつての忠実な仲間がカリスマ的なボスを非難し、自分の独立を確認するため にこの機会を利用したのである。

クーベルタン宛の1922年 1月20日の手紙でブロネーは歯に衣着せぬ言い方をしている。「貴 方は断固として執行委員会の設立を主張された。貴方はコングレスの最後の瞬間に設立を発表 することさえされた。」「今日、貴方は'時計を戻そう' としている。貴方は'不愉快な事件' を引 き起こそうとしている。」

1月23日、クーベルタンは返事し、結論を下した。「執行委員会は私がいない間IOCを運営する

ために作られた。IOCを改造するためではない。」

揉め事は表に出た。しかしそれにもかかわらず、パリセッションでブロネーはIOC副会長に選ば れた。

1924年、オリンピック行政に不十分なところがあるのを知っている執行委員会はIOC会長に付 属する有給の事務局を提案した。

クーベルタンは反発した。「この点については来年[プラハコングレスの後]なら好きなようにした らよい。しかし、30年間私がやってきたやり方を最後の数カ月に捨てろというのなら、私は断固とし て拒否する。」

クーベルタンはこうして彼の孤独な道を歩んだ。

1925年 5月、コップは遂に溢れた。彼は、アムステルダムがもし1928年の第九回オリンピアード の大会を返上した場合、ローザンヌ市が立候補する案を突然持ち出した。

1925年5月7日、ブロネーはクーベルタンを非難した。

彼は「いささか傷つけられた」驚きを表明した。スイスオリンピック委員会会長として、ローザンヌ の立候補は彼自身が届け出るべきであったから。

彼は、スイス政府とヴォー州を除くスイス全体に対して非常に困った立場に追い込まれたと言明 した。彼らは直ぐにもこの不公正について私を非難するでしょう。

彼は詳しく説明することを躊躇しなかった。「私は貴方が私に押しつけようとしている会長職のこ とをどう考えてよいのか分かりません。貴方が私の国の市に対してある種の約束したことによって、

会長職の権威は前もって傷つけられているのですから。貴方は現にこの国に住み、市当局や新 聞と関係をもっているのにこうしたことをするのは私の人格を傷つける以外のなにものでもありませ ん。」

1925年 3月17日、クーベルタンはプラハから手厳しい返事を送った。「貴方の記憶は間違って いる...  貴方は私の後継者になることをきっぱりと止めるとだけ書くべきだった。もし貴方がバイエ のために下りるというなら、私は真先に貴方にお祝いを述べる。」

反目はいまや動かしがたいものになった。

ブロネーは定款が変わってIOC会長自身が執行委員会委員長を勤めるようになるまで、委員長 の地位に止まった。

その時以来、彼は執行委員とIOC副会長の二つの役を続けた。副会長には1935年のオスロま で何時も再選された。

袂を分かつまで長い間、オリンピズムへの奉仕にかたく結びついていた二人の友は、同じ年、

1937年、死によって再びひとつになった。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 140-143)