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執行委員会

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 159-162)

1.10. より民主的な方向へ

1.10.4. 執行委員会

1920年代は新しいオリンピズムの歴史の中で一番内容の充実した時期のひとつであった。これ はIOCを歴史のコースに従わせるクーベルタンの能力によるものであることを記録しておかなけれ ばならない。

コースの変更は突然の逆転ではなかった。オリンピックムーブメントの中で、IFとNOCは自分た ちの力の増大を意識している一方、IOC委員の方は、クーベルタンをはじめとして反動とは言わな

いまでも、あまりにも慎重な伝統主義者であり、オリンピックムーブメントが突然連合的なデモクラテ ィックな考え方によって彩られることには抵抗があった。

それにもかかわらず、二十年代にIOCの国際スポーツ・ムーブメントへの態度が次第に民主オ ープンな方向に変わっていったのは、この文脈においてである。

強力な組織立った草の根のスポーツ・ムーブメントと硬直化しがちな政策決定機関との間には 機械を動かす「駆動ベルト」が必要である。多くの委員がこの必要性を感じていたがなかでもゴッド フロア・ド・ブロネーが最も強く感じていた。彼はしばしばクーベルタンの貴族的やり方に苛立ちを 覚えて仲介機関の創設を求めた。これはIFとNOCの不満を受け止め、その関心と必要を理解し、

同時にコングレスの決定を分かりやすいやり方で実行する機関である。やがて生まれる執行委員 会は、つくられることが待たれていた管理機構の古典的な例である。

1921年6月6日の会合で、会長の求めにより、IOCは「会長ド・クーベルタン男爵の不在の間、執 行委員会が設置される」ことを決定する。

最初、ド・ブロネー(委員長)とグート‐ヤルコフスキーが中心となったが、すぐこれにバイエ‐ラ ツール、エドストレーム、ド・ポリニャックが加わった。IAAFの会長、エドストレームは競技連盟の声 を知り、ド・ポリニャックはクーベルタンの深遠な文化感覚を分け持ち、バイエ‐ラツールはアントワ ープで名を上げていた。

EC(執行委員会)はその理念と決定において全会一致でなければならなかった。クーベルタン はコンセンサスを保つことに熱心であった。

ECは、1921年11月 7日、午前10時半、パリ、フォーブルサントノレ103番地のフランスNOC本部 で第一回の会合を持った。驚いたことに、ローザンヌと同じようにパリにも家のあったド・ブロネーは 欠席であった。チェコスロバキアのグート‐ヤルコフスキーも出席しなかった。彼の場合は遠さが 理由であったろう。しかしパリを通りかかったド・クールシー・ラファンが、メンバーではなかったが出 席した。

ECはその規則を定めた。ECはパリで開かれる。エトワールの近くで、これにはハッキリした意味 があった。バイエ‐ラツール伯爵が副委員長、エドストレームが事務局長に指名された。委員会は 少なくとも年に二回会合することになった。

しかし直ぐローザンヌで秋に三日間会合することになった。「現在の問題とIOCの次のセッション の準備について検討する」ために。

これは少なくとも、クーベルタンが1924年の年次報告として記しているものである。

ECは財政問題と通信を扱う。チャレンジカップと資料館に責任を持ち、IOCの規則を強化し、オ リンピックに関してそれが守られるようにするために必要な手段をとる。「会長と共に、IOCの会議の 議題を準備する」。ECは機構のなかで必要不可欠のものとなった。

最初の会合から、ECはその領分を規定した。クールシー・ラファンとエドストレームにイギリスとス ウェーデンからの立候補を求め、フランスオリンピック委員会に次回オリンピックの優勝者の名前を

コロンベのスタジアムの壁に刻むよう手紙を書き、登山賞を設けることを発表し、1924年のパリ大 会の準備についてポール・ルッソウの報告を検討した。最後に、重要なことであるが、IOCは「第八 回オリンピアードの大会開催が不測の事態のために最後の瞬間に不可能になった場合」に備え てロサンゼルスについて考慮した。

1921年につくられてから1925年のプラハコングレスまでの間に、ECは七回会合した。

そしてマネージャー、連絡係、提案者、管理者としての役割を果たした。

1923年のローザンヌでの会議で、ECはフランス政府との間の財政協定を発表した。

1924年 1月の前に、パリ市はIOCに対し、第八回オリピアードの準備のためにIOCが負担する

支出への協力金として25,000フランを払う。

しかしソルボンヌでの IOCの式典の費用はIOCが負担する。

ECはまたオリンピックの法的、管理上の状況とフランスの法律との関係を検討した。

オリンピック博物館についての規則を定め、今や必要になったオリンピックのショウケースをつく ることを決めた。

ECの活動はIOCの構造、機能の全分野にわたった。ECはIFに対する質問を担当した。

ECはIOCのメンバーについて討論し、候補を提案した。とくにルールに従って新しいドイツとオ ーストリアを新会員として選出するという微妙な問題に取り組んでいる。

全体的に言って、IOCはECの勧告に厳密に従っている。例えば、エチオピア、ラトビア、アルメ ニア連邦の承認など。

ECはアムステルダムでの大会が望ましいかどうかについて議論し、ケンティッシュ将軍に組織 委員会と連絡を保つことを要請し、1924年3月5日のハーグの会議でこの問題を第一番に検討し、

もし結局保証が十分でないと思われたら、第八回オリンピアードの大会開催をロサンゼルスに移 すことを考えた。

というわけで、ECは単なる手形交換所ではなかった。ECは聞き、記録し、議論し、決定し、提案 した。そして多くの政策を打ち出した!

我々はECに付託された重要な問題に関してこのことをハッキリ確認することができる。  例えば 大会のプログラムやアマチュアリズムの問題である。

IOCから受けた付託に従って、ECは「各競技の指導者と大会における種目の削減について話 し合った。その競技は陸上、水泳、ヨット、ウエイトリフティング、フェンシング、自転車、レスリング、

漕艇、サッカーである」。

ECは、1921年にローザンヌで決定されスウェーデン体操のコンテストは復活すべきでないと考 えた。その結果、IOCは「パリの準備コングレスに、プラハコングレスを予想して、オリンピック大会 で今や必ず行わなければならない競技のリストを提出すること」を決めた。

ECは、IOCは「プログラムの決定者」でなければならないが、競技連盟が決める種目の数、一国 当たりの参加人員、適用規則についての意見を取り入れるべきだと主張した。

また大会は二週間以上、三つの日曜日を含んで開催されるべきで、大会では三つの審判団が 構成されるべきだ、と勧告した。IFの管理の下にある現場審判団、上告審判団、そしてIOCの直接 管理下にある非技術的問題に関する名誉審判団である。

アマチュアリズムの問題に関して、ECは、IOC委員に宛てられ、プラハコングレスで討論さるべき 15の質問をIOCに対し提案した。

この質問は単純な底意のないものばかりではなかった。この問題にはすぐ戻る。

この質問は社会の発展にできるだけ近くありたいというECの思いが表れている。

IOCは「アマチュアとは、ハッキリした物質的利益を(スポーツから)受けておらず、その点につい て名誉にかけて書面で宣言する用意のある者と理解さるべきである。」と考えていた。

「オリンピック」という名称を守ることについては、ECは1926年ブラッセルでの女性の大会にʻオリ ンピックʼという呼び名が誤用されたことに不快感を持っていた。

同じ理由で国際学生同盟に対しても抗議が出された。

執行委員会はプラハオリンピックコングレスのプログラムを決定し、会長によって提案された教 育コングレスのプログラムを「大幅に修正」した。更にECはこれらのコングレスが「スポーツの広範 囲の浄化」をもたらして欲しいものだという希望を表明した。

1.10.5. ローザンヌ ‐1921年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 159-162)