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パリ ‐1906年5月

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 96-102)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.6.6. パリ ‐1906年5月

徹底したヒューマニストであったIOC会長は、あまり重視していなかった組織的問題の解決をア テネの技術屋に任せた。彼は1906年5月25日から23日までパリで開かれる芸術と文学とスポーツ についての諮問会議の組織と開催に没頭していた。これは「一種のコングレス」となるものであった。

アテネ大会から十年、オリンピズムが単に大会の競技的な面にかかわるだけものとなってしまっ てはならないことを思い起こすべき時であった。

美と徳の調和に基づいた個人と社会の快いリズムをもった動きを追求する点において、オリンピ ズムはヒューマニズムの一形態であった。

芸術、文学、スポーツは算術的並列によってではなく、深い相互浸透によって全体を形作る。

日々のオリンピズムの実践によって、人は良き人生と人類の知恵にとって不可欠なより高い精神 生活を達成できる。

クーベルタンにとって、オリンピズムが「ライフスタイル」として文化であることにまったく疑いの余 地はなかった。そして、自由民主主義の時代にあってこの文化が全ての人に、最も恵まれない 人々もふくめて、行き渡るべきことは論を待たなかった。

クーベルタンがラスキンの追随者であったことは驚くに当たらない。

今日、ジョン・ラスキン(1819-1900)のクーベルタン及び民主主義的なエリートに及した影響に ついては過小評価する傾向がある。

詩人、芸術批評家として、ラスキンは1860年以後、イギリスの産業社会に対する挑戦に生涯を 捧げた。

当時のヨーロッパの改革者達は、彼を芸術批評家としてよりは社会の不正に対する戦いの故に 評価した。ラスキンは目の前に起こりつつある社会的悲劇に心を痛めて、子供も大人も同じように、

全ての人が無料の教育を受けられるように主張した。

この教育を効果有らしめるために、彼は、人々が生き、動き、自己教化するより広い空間を、と

呼びかけた。庭園、社交のための家、図書館である。

こうして社会正義が行われ、最も貧しいものにも、創造の喜びと美を芸術家と共に味わうことを 可能にするであろう。産業の醜悪さ、そしてその当然の結果としての経済的不平等に対しては、自 然の秩序に反するものとして戦いを挑まなければならない。

人々が働き、休み、余暇を過ごす環境は、個人の個性を尊重し、社会のコンセンサスを 助長する陽気な「文化的都市化」の法則に一致しなければならない。

即ち、生活こそが人間の恵みであり、「賛美と希望と愛が、人類を利己的でない行動に導かな ければならない」。

クーベルタンがパリに「芸術と文学とスポーツについての会議」の招集を決めたとき、ラスキンの 仕事が心にあったことは間違いない。しかし彼は難しい時を選んだ。

これに先立つ、アテネ、パリ、セントルイスの大会、そして神聖な芸術の都でありながら1908年の 大会開催ができなくなったローマの先例は、けっして明るい見通しを与えるものではなかった。

これまでのオリンピックの会場には芸術と文学の姿はなかった。

アテネでは「アンチゴーネ」が上演されたとはいえ、利他主義より利己主義が、芸術よりスポーツ が優勢であった。

クーベルタンの夢見たオリンピックは「ただの世界選手権ではなく、教養ある若者の四年毎の祭 典、[人類の春]、卓越した努力と多彩な野心の祭典」であった。

彼の心にあったオリンピックの会場では、単にスポーツが芸術に付加されているのではなく、芸 術家の創造的な精神が選手や観客の魂を圧倒するのであった。

彼は、古代オリンピックのように、芸術とスポーツの結合が卓越性の新しい形をつくりだし、新し く生まれつつある20世紀の生活の一部に成らなければならないと主張した。

そのような発展のために機は熟していただろうか?

1906年6月、早くも彼は、ロンドンセッションのあと、「ル,フィガロ」に「更に次の段階に進み、オリ

ンピアードにその本来の美を蘇らせる時が来た。」と書いた。

事実、彼はオリンピック大会が「芸術と文学がスポーツに調和して結びつくだけでなく」、オリンピ アードの四年間のインターバルの間に行われる名もない町の無名のスポーツマンの生活を彩る最 も素朴な競技会にも、芸術が浸透しなければならないと主張したのである。

このような会議をこれより前に開くことは時機早尚であっただろうと彼も認めている。

スポーツが先ず息を吹きかえし、生きていけるようにならなければならなかった。

「通常のミーティング」が開催され、道を開いて、「新しいオリンピアード」の運命が定められなけ ればならない。忍耐が必要であった。

しかし最後の目的は確固としていた。「最初から、我々はこの理想を時代の要求に合った形と条 件で完全に蘇らせることを目指していた。」

どんな困難があろうと、どんな戦術的制約に出会おうと、クーベルタンはその教化の意図に揺る ぎなく、大会が頂点であるオリンピアードを人類の精神生活の重要な瞬間の一つにすることを目

指していた。

IOCはあまりにぐずぐずしていたので、クーベルタンは自分で手綱を取る決心をした。

彼は1906年4月回状を送り、1906年5月23日から25日までパリで諮問会議を招集して「芸術と文 化をどの程度、またどのようなやり方で近代オリンピアードの祝典に含めることができるかを研究す る」という既成事実をコングレスのメンバーに突きつけた。

彼は、IOCのメンバーにそれぞれの国の著名な芸術家と作家十名の名を挙げて回答するよう要 求した。

この野心的な試みの舞台として、コメディーフランセーズより相応しい場所はなかろう。

開会式は最長老、ジュール・クラレッティが出席してコメディーフランセーズの広間で5月23日行 われた。委員会の会合は、場所が狭かったので、コンコルド広場のツーリングクラブ・ド・フランスの 豪華なレセプションルームで行われた。

IOCメンバーの挙げた世界中の芸術家に沢山の招待状が送られた。しかし出席した人は少な かった。あまりに急な招待であったのは事実である。

イギリス王立芸術アカデミーのサー・アーサー・ポイター、ローマ(ビラメディチ)のフランスアカデ ミー会長、ロダンの競争者で有名なノルウェーの彫刻家、グスタフ.ビーグランド、セルマ・ラーゲ ルーフ、その他何十人もの人が、招かれたことを喜びながらもパリにはこなかった。

ロマン・ローランは欠席を告げるために1906年3月25日に手紙を書き次のように言っている「会 合には非常な興味を持っています。それが人間の力の健全な調和をつくりだそうとしており、私の 心に特に近い、民衆劇場、野外劇場の運動に関係しているからです。」

作家リシュパン、ポピュラー音楽の作曲家ブールゴー・デュクードレー、フレスコ画家ボアルポは 喜んで参加した。しかし彼らは若い世代が問題にしない不人気な古典主義の代表であった。

クーベルタンは「オリンピックメモワール」の中で冷静にこの事実を書いている。彼の唯一の後悔 は、フランスの芸術家を主に招待し、他の国に公式の呼びかけをしなかったことである。会議は、

結局フランス人の集まりであった。

60人が参加し、30人が芸術家、一ダースほどの外国人がいた。IOCメンバーの出席者は5人だ けであった。この数は委員がこのテーマを議論することを躊躇していること、或いは既成事実を突 きつけられたことに対する気乗りのなさを示している。フランスの政治家は一人も参加しなかった。

討論の二つの主題がハッキリと定められていた。クーベルタンは一方で「復興したオリンピアー ドにおける芸術と文学との世の注目を集める共同作業」に道を開くことを目指し、一方で、「地方の 普通の規模の体育文化行事で、全ての人が〔芸術と文学〕に参加することを確実に」しようとした。

第一のテーマについては反対はなかった。会議は全会一致で、建築、彫刻、絵画、文学、音楽 の五つのコンテストが大会の一部として「スポーツ競技とおなじレベルで」オリンピックに付け加えら

れることを提案した。

そして更に、「スポーツ精神」が作品に霊感を与え、作品は国際審判団によって審査され、もし 可能なら、大会中に使われた表現様式によって出版、または上演されると決めた。

選ばれた五つの芸術の競技はワーキンググループと総会で検討された。

建築については、二つの派が対立した。問題はギムナジウムとスタジアムを「古代」のスタイルで 建てるべきか否かであった。

結局、「古代のギムナジウム」派が勝ちを制した。可能な限り、全ての種類の競技を一堂に集め、

回りを自由に利用できる建物に囲まれたオープンスペースから成っていること。

しかし古代のスタジアムは結局、ギリシャ考古学の論争の領域に葬り去られた。

「真の近代的スタジアムは花を飾ったエレガントで広いスタンドを持つ緑に囲まれた草地に成る だろう。」クーベルタンは体育館の設計図を建築家の参考に供するため提出した。

地方の体操、スポーツ連盟における演劇とスポーツの関係について出された勧告は、最善の 意図がどれほど誤解されうるかの見本である。

人々の混乱は、クーベルタンが1906年10月に早くも、会議の出した宣言を撤回しなければなら ないと感じたほどであった。その宣言は「体操、スポーツ協会は芸術種目に見本を示す危険につ いて警告されねばならない。」と述べていた。

振り付け(入場行進、式典のプログラム?)は厳密に考えられたものではなかった。その見出し の下に式典のパレードと行進のリズムに関する美的な(そして潜在するモラルの)性格についての 考察のいくつかが纏められていた。「最もバランスの良い」選手が名誉を受けるであろう。順序は選 手達が「そのユニフォ‐ムで、使用する剣やラケットなどを持って、或いは自転車に乗って」現れる 姿に応じて決められるであろう。

賞の授与は、古い中世のやり方、優勝者が賞を渡す淑女の前にひざまずくやり方が相応しいと 考えられた。或いは更に良いのは「昔行われていた、試合の前の競技者のオリンピック宣誓の復 活で、これはその動きの単純さ、効果の深さを容易に表現する機会となる。」

クーベルタンの目標はスポーツの儀式を、宗教的とは言わないまでも、文化的な儀式に高める ことにあった。オリンピック宣誓が水平線上に姿を表したのである。

俗悪さに身を屈することは問題外であった。スタンドはトルコ赤や赤いビロードや金の飾りやカ ンバスに描かれた紋章入りの楯等で飾られることはないであろう。

事実、コンフェレンスはこうしたいかがわしい美を非難するのに「非常に熱心」であった。「オー ル、打球槌、自転車の車輪、ボール、ラケット」が葉と花と「かなりの大きさの椰子の葉」の中に散り ばめられるであろう。

繰り返し現れる困難にもかかわらず、スポーツと芸術の統一は第一の目標であらねばならなか った。有名な詩人である、ジャン・リシュパンがスポーツと文学を結び付ける一つのイベントの開催

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