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中心的な仲間

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 73-83)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.5.2. 中心的な仲間

1896年のオリンピック大会直後の懐疑と内省の時期、クーベルタンはIOCメンバーのすべてと相 談することを考えたことは疑いない。しかし国際委員会がつくられたときの経緯と何人かのメンバー が遠くにいること、また経験に乏しいメンバーが何人かいることを考えると、彼がすべての委員と直 接相談したとは思えない。 

 

IOCの資料室にはブートフスキー、ヘルバート、カフ、クールシー・ラフォン等の手紙が残ってい るが、アテネの熱狂が冷めていった後のこのオリンピックムーブメントにとって重大な年のものはほ とんどない。

その一方、この時期、クーベルタンはウイリアム・スローン、イェリ・グート、クールシー・ラフォンら とはたくさんの手紙をやり取りしている。

1.5.2.1. ウィリアム・M. スローン

スローンは強力なスポーツ愛好国、クーベルタンが大好きだった国からのIOC委員だった。クー ベルタンの仲間のうちでウイリアム・ミリガン・スローンは特別な位置を占めていた。スローンは政治 家としてあるいは偉大な説教者として社会的地位があるわけでもなかった。“ただの”大学教授に すぎなかったのだが、その知性、オリンピックの理想にたいする忠誠、信頼性、そして中間階級と してのしっかりとしたバックグラウンドが彼をかけがえのない友、味方にしていた。

スローンは1850年11月12日に生まれ、1928年の9月半ばに死んだ。

中流の家庭の出である。父は牧師で神学の教授であった。

コロンビア大学を卒業したあと、1872年、ライプチッヒ大学とベルリンの大学に入学した。1876年

には博士号を得た。そして歴史哲学の教授に任命された。

1896年3月、彼は「ナポレオン・ボナパルトの生涯(4巻)」を書き、1901年には「フランス革命と宗 教改革」を著わした。ジョン・A. ルーカスによれば、第一次大戦中のスローンは“苦しむ孤立主義 者”であった。

クーベルタンがスローンに会ったのは1889年、彼がアメリカを旅し、自分のまだハッキリと形の定 まらない計画にたいするしっかりした人物の積極的な助けを求めている時であった。彼らの対話は 広い範囲に及び、政治、社会的な出来事、教授のサラリー、アングロサクソン文明の諸相まで話し 合われた。

クーベルタンは得がたい友をえた。彼の直感はめったに誤ることがなかった。

マカルーンはこの出来事がアメリカにおけるオリンピック運動に及ぼした影響を強調しているが それは正しい。この出会いのうちに築かれた友情は、三十年に及ぶ協力の年月を生んだ。ルーカ スはスローンを「クーベルタンの兄」と見ている。そしてクーベルタン自身は、アメリカヘの旅につい ての著作の中で、スローンについて、スローンは大西洋を挟んだ大学のサークルのうちに友人を 持っていたが「それがアメリカのスポーツ界を支配していた。それなくしては、何事も成しえなかっ ただろう。」と書いている。

 

1893年後半に、クーベルタンはスローンの招きでアメリカヘいった。そしてプリンストン大学で三 週間を過ごした。スローンはクーベルタンを案内し、11月27日、ハーバード、エール、プリンストン、

コロンビアの各大学の代表に会わせた。

話し合いは、丁重なものであったが、アメリカ人達には他の関心事があり、クーベルタンのオリン ピックについての使命に余り大きな関心は示さなかった。

その時、大学はアメリカスポーツ連盟と戦争状態にあり、国際スポーツイベントにほとんど関心 が無かったのである。スローンだけがクーベルタンのキャンペーンを支持した。

1894年6月6日、クーベルタンの強い要望で、スローンは「三人のメンバーから成る不動の三人

組」に参加した。

1897年、クーベルタンは「アメリカとギリシャの思い出」をスローンに捧げ「私のアメリカの大学に ついての理解とオリンピック復興を助けてくれた親愛なる友人に」と記した。

  クーベルタンの真の仲間のうち、スローンは彼が最も重んじたメンバーの一人であった。

1.5.2.2. イェリ・グート‐ヤルコフスキー

イェリ・グートとクーベルタンの関係の発端は、クーベルタンの若いころの中央ヨーロッパに対す る興味にまで逆上る。1891年の夏、クーベルタンはパリでイェリ・グートに会った。

二人の共通の友人、チェコ人のフランティセック・ドルティーナが会合をアレンジした。

グートはパリでフランスの教育制度を学ぶことになっていた。

1881年のチェコスロバキア独立の後、イェリ・スタニスラフ・グート‐ヤルコフスキーの名をとった

イェリ・グートは、1882年に、プラハのチャールズ大学の博士号を得た最初のチェコ人となった。哲 学の教授で作家、翻訳者であった彼は、大したスポーツマンとは言えなかったし体育教育につい て何も知らなかった。しかし、彼は乗馬ができた。シャウンブルグ‐リップ王子の家庭教師が生徒 たちを馬による遠足に同伴したときに覚えたものである。

グートはごく普通の出自であって、1890年代には田舎のグラマースクールの単なる校長に過ぎ なかった。しかし地方のオーストリア貴族との付き合いで彼はブルジョアの上品さを身につけてい た。これがピエール・ド・クーベルタンを喜ばしたことは疑いない。

グートはマナーの教本を書いたし、1918年以後、チェコスロバキア共和国大統領の儀典長にも なった。

グートは愛国者であった。オーストリアハンガリー帝国の中で、チェコ人が民族的、文化的、公 的なアイデンティティーを持つことを熱望していた。

彼はクーベルタンに、オーストリアハンガリー帝国に閉じ込められた民族の状況について明確 な情報をもたらした。クーベルタンはお返しに、教育の高貴な形態についてのビジョン、そして何よ りも、「スポーツ地理学」の考えを提供した。これが諸国民の奪うことの出来ない自決の権利と完全 に一致した。

イェリ・グートは1894年のパリコングレスには出席できなかった。「私は金がなかった。そしてほと んど知られていない突飛なことのために休暇を与えられるチャンスはなかった。更に私はギリシャ と小アジアに旅行する計画を立てていた。だから私はコングレスに挨拶の電報を打つことで満足し た。」

しかし、単にクーベルタンが望んだというだけの理由で、彼はオリンピック大会の国際委員会の メンバーになった。

彼は非常に謙虚に、クーベルタンが国際委員会を設立するにあたって、ボヘミアに対して抱い ている同情からチェコの市民を入れたいと思ったのであろうと想像した。

グートは、クーベルタンが知っている只一人のチェコ人であった。

グートが国際委員会の活動に本格的に参加するようになったのは、1896年の大会が終った後 であった。アテネのセッションでは、彼はオーストリアハンガリー帝国内のいろいろな国がそれぞれ 独白の国内オリンピック委員会を持つべきだという提案に成功した。

勿論、オーストリアの側からは反対があった。

チェコオリンピック委員会は1899年6月18日遂に設立された。これは1916年、オーストリアによっ て廃止されたが、1943年自ら厳然と復活するのである。

この困難な時期を通じて、グート‐ヤルコフスキーはオリンピズムとクーベルタンに対して忠実 であった。戦争直前の時期においても忠実さは変わらなかった。

彼は1943年に死ぬまでIOC委員として止まった。クーベルタンは、チェコとイェリ・グートに対す る固い友情から、オーストリアの1905年と1911年の、グートを国際委員会から下ろそうとする動きに 反対した。イェリ・グートの地位がクーベルタンのオリンピック思想によって鼓舞されたものであるこ

とは事実である。というのは、彼がIOCメンバーとして要請されたのは、ボスニアの代表としてだけ でなく、オーストリアハンガリー帝国に力によって併合されたシスレイタニアのドイツ人、ポーランド 人、スロバキア人、スロベニア人、クロアチア人をも同じ権限をもって代表するものであったからで ある。

ボヘミアは、我々も知る如く、公の妥協策によってストックホルム大会(1912)に参加を認められ た。既に1896年に、オリンピックにおける勝利は彼の独立運動を強化することを認識していたイェ リ・グートにとっては喜ばしいことであった。

しかし、コングレスは、1916年大会ではチェコの選手がオーストリア以外の旗の下に参加するこ とを拒否した。

1919年、チェコスロバキアのIOC委員になっていたイェリ・スタニスラフ・グート‐ヤルコフスキー はクーベルタンによってIOC事務総長に任命された。信任厚い者の地位である。

この地位の責任は重く、クーベルタン自身への如才なさと共に、以前の敵対的な勢力に対する 外交技術を要求された。グートは見事にその責務を果たした。彼はオリンピック憲章の起草に積 極的な役割を果たした。 1921年には第1代理事会に選ばれた。

若いチェコスロバキア共和国の中で、彼は重要人物になった。しかしIOCの目的のために働くこ とを止めなかった。1923年以後は、過労のためにオリンピックに関する活動を制限せざるを得なか ったが、それでも彼は、1925年のプラハコングレスの重責を担った。

イェリ・スタニスラフ・グート‐ヤルコフスキーは、変わることのない、一つの理想への献身、そし て一人の人間への忠誠そのものであった!

1.5.2.3. ビクトール・グスタフ・バルク

ビクトール・G.バルクとクーベルタンの間に交わされた手紙はとくに量が多い。

これはクーベルタンがスウェーデンとスウェーデンの体育教育に示した興味を物語るものである。

IOCの資料館には1894年3月17日から1921年3月12日までの間に、バルクからクーベルタンに宛

てられた手紙17通と電報2通が保管されている。

その上、我々はクーベルタンからバルクに送られた手紙32通と電報1通を知っている。

これはスウェーデンオリンピック委員会に保管されているもので、1894年から1919年の時期にわ たっている。

クーベルタンはスウェーデンという国と人々を愛した。彼はグスタフ・アドルフからベルナドッテま でのスウェーデンの歴史に10頁を割いている。彼のうちの地政学者は、ナポレオン三世がセバスト ポールのあと、ストックホルムを中心に強力なスカンジナビア連合をつくらなかったことを惜しんで いる。

この興味はどこから来たのか?バイキング文化の深層から来るのか?

彼の母方の祖先の住んだミルビルはセーヌ河口の近くにあり、ノルマンのロングシップが数多く やって来たものだが….

人々の間の調和と国々の間の平和に熱心なヨーロッパの人文主義者の関心からか?

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 73-83)