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アテネの戦い、1894-1896

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 51-61)

1.4. デメトリウス・ビケラス、オリンピック大会のための国際委員会第一代会長 1894-1896

1.4.1. アテネの戦い、1894-1896

クーベルタンは「ギリシャの征服」について大げさに語る。これは誇張である。

また「ギリシャの抵抗」について語る。これは過大評価である。

抵抗はあったとしてもいずれも小さなグループである。

征服した側は、ビケラスの画策によってコンスタンチン皇太子が組織した一握りの人々である。

皇太子はアテネの最重要人物であり、クーベルタンは陰の有能な策士であった。

大急ぎで行われた長い盛り沢山のコングレスの最後の、オリンピック大会のための国際委員会 の創立は、わざとぼかされた。祭りの華やかさ、公式の儀式、首都から遠く離れた場所に出掛けな ければならないことなどが、委員会の会期中緊張と疲労のもととなった。議事録は、会議で激しい 対立や議論が起こったことを示している。

クーベルタンによって指名された、オリンピック大会のための国際委員会のメンバーのほとんど が出席していなかった。彼らは「名誉」委員であり、何が期待されているかについての情報を受け ていなかった。クーベルタンただ一人が、彼らを待ち受けている困難な仕事についての全体像を 把握していた。彼は「総事務局」の長であった。事務局は積極的な運営の要であるので、ほとんど の委員長より重要な地位にあった。

何もないところから造り出されたオリンピック大会のための国際委員会は、最初からアテネの政 界やスポーツ界の重要人物の留保、無理解、猛烈な反対に晒された。彼らは前もって知らされな かったことに怒り、特権的立場を失うことを恐れたのである。

独裁的な権力のみが、確信のない或いは敵対的な者に政治的、行政的な決定を押しつけるこ とができた。王権の重みが役割を果たさなければならなかった。

これがクーベルタンのやろうとしたことであり、このプロジェクトを支持していたアテネの新聞の助

けを借りてやったことである。

 

クーベルタンはまず、積極的な協力者の小さな核を自分のまわりに集めた。

次に、アテネの世論に働きかけた。最後に、筋書きのもつれを解くことをギリシャ人の間に比類 ない信用を持つビケラスに任せ、自分は争いの上に超然としてコンスタンチン皇太子に頼った。ク ーベルタンは勝利がまだ遠いことをよく知っていたからである。 

彼は、コングレスの数日後「スローンとE.カローと私は、バビロン通りのアパートでビケラスと会っ た。」と書いている。我々はまた、ビケラスがオリンピック大会のための国際委員会会長になりたが らなかったこと、クーベルタンがこの事業の国際的な性格を象徴するために、会長の交代制のアイ デアに固執したことを知っている。博識の体操家であったE.カローが財務担当官になった。彼の 考えは、各メンバーに「絶対独立の鎧」を纏うように要求したことに既に表れている。誰であれ、ど んな地位の者であれ、何かを「代表する」ことは許されなかった。何処から来るにせよ、「補助金」

は拒否された。 

 

ビケラスは、この「貧者の鎧」について、纏うことができるのは事実上金持ちだけだ、と冗談をい ったものだ。民族主義的な理由からチェコ人のサークルから援助を受けていた、ボヘミアの貧しい 教師、ユーリ・グートを除いて、委員会のメンバーはいずれも金持ちか、上流人士であった。しかし クーベルタンは「もし我々が、名前は華々しいが、現実的な基礎を持たない、未だ世論によって完 全に誤解されている、一つの創造物の未来を確かなものにしようと思ったら」他のやり方はなかっ たと記している。

クーベルタンには、自由にできる二つの出版物があった。コングレスが終わると直ぐに創刊した オリンピック大会のための国際委員会の「会報」と「メッサジェー(使者)」の付録、アテネで発行さ れたフランス語新聞で彼の目的を全面的に支持するものであった。

「会報」の第1号はコングレスが終わって数日後、1894年7月に発行された。

本部は、パリ、フォーブルサントノレ通り、229 。タイトル頁にはオリンピックのモットー、Citius, Altius, Fortius(より早く、より高く、より強く)が記されていた。

季刊誌として出発した「会報」はオリンピック復興のためになすべきことの全てについて最新情 報を読者に伝えた。唯一の編集人であったクーベルタン (スタイルは見誤りようがない) の願い にもかかわらず、「会報」の公式な部分を三つの異なる言語で発行することは出来なかった。「しか し、いくつかのイギリス及びアメリカの新聞、それにドイツの“シュピール・ウント・シュポルト“ に主 な部分を載せる取決めができた」。

国際委員会メンバーの全ての名前が挙げられ、彼らの職業が記載された。

彼らは、それぞれの国で高名な教育者、或いは教育や学問やスポーツ機構の行政者であった。

「会報」の第 1号は、ほとんど全部、1894年コングレスの議事録が占めた。

そこには、アテネを選ぶ上でビケラスが果たした決定的な役割、この提案に対するギリシャの新

聞の熱狂的な支持を読み取ることができる。クーベルタンは古代ギリシャ文化の普遍性、アテネの 美しさ、沢山のホテルやカフェーを褒めたたえたが、一方で不安の念が滲み出るのを隠しはしな かった。新聞に助けが求められた。

「政府の半公式機関」である「アスティー」によれば、アテネは「その国際スポーツイベントに集う 外国人を歓迎するという名誉を与えられ、政府、市当局、市の商人、そして首都の全ての住民は その熱意を競い合うであろう。」ことは明らかであった。

アテネにおける第 1回オリンピック大会のアイデアを考えついた者、その提案を受け入れた者 が称賛された。クーベルタンは、シーザーのものはシーザーのものになるように、あらゆる手段を尽 くした。しかし、最初の「復活したオリンピック」の基礎は脆弱であった。そこで彼は、やんごとない 辺りに助けを求めた。「国王陛下とギリシャの全王族が、この祝祭を支持されるのは全く当然のこと である」。

彼は声を半分に落として付け加える。皇太子殿下は、コングレスでデメトリウス・ビケラスによって 代表された体操の汎ギリシャ主義協会のパトロンであり、ジョルジュ王子は名誉総裁、ニコラス王 子は名誉会員である。国王に関して言えば、国王は6月のコングレスに「オリンピック復興の成功」

への心からの願いを寄せられた。

大枠が置かれ戦略が定まった。大きな困難が予測されたが、現場の状況とそこを覆った精神的 雰囲気のおかげで、最高の政治レベルで賛同が得られ、今や全てが可能になった。

しかし赤ん坊は未だ生まれていなかった。そしてクーベルタンは鉗子を使わなければならないこ とを知っていた。   

1894年秋、ビケラスはパリのアパートを去りアテネに向かった。彼がブリンディシに着いたとき、

同胞は皆、オリンピック大会について「嬉しそうに」彼に語りかけた。

何通かの手紙と、「会報」の第1号が彼を待っていた。クーベルタンは、ギリシャとフランスの両方 で彼が持つ個人関係を総動員した。彼とビケラスは直ぐに会うことになった。

10月5日、ビケラスはギリシャ評議会議長、トリクーピスに会ったことについてクーベルタンに手 紙を書いた。トリクーピスは、この余計な「物事」なしでも一向に構わなかったのだが、なにしろギリ シャはそれでなくても、十分に問題を抱えている!

しかし彼は 「その気になった」と手紙は伝えている。

ビケラスはザッペイオンの常設委員会を招集した。これはオリンピック委員会としても知られてい た。数多くの商業工業博覧会と1859年、1870年、1875年、1888年のギリシャオリンピック大会のパ トロンであったザッパスを記念して付けられた名前である。

スポーツに敵意を持つ貴紳の手に落ちて廃れていた委員会は、ステファノス・ドラグーミスが議 長であった。しかし委員会はまだ「オリンピック委員会」と呼ばれていた。

委員会はビケラス抜きで会議を開いた。ビケラスは思いがけずパリに帰らなければならなかった。

妻が重病になったのである。彼女は彼の到着を待って亡くなった。

ドラグーミスは問題の多いオリンピックの厄介な組織化よりも、ザッペイオンのクラブハウスでのレ

セプションに興味を持っていたのだが、首相であるトリクーピスの意見には従わなければと考えた。

 

10月末、クーベルタンはマルセイユから船出した。彼は、ピレウス港への夜の入港と、「荘厳な 夜のしじまに包まれた、甲板の上の神聖な眠れぬ時」についてのロマンチックな描写を残している。

1894年10月27日であった。

翌日、彼はアテネのフランス代理大使、モルアールと「何人かの情熱的な若い友人」に迎えられ た。トリクーピス首相がプロトコール抜きで臨席し、クーベルタンに、ドラグーミスが11月1日 (ユリウ ス暦) に送った覚書のコピーをクーベルタンに渡した。 

この手紙はクーベルタンが海の上にいるあいだに行き違いになっていた。

トリクーピスは、政府がアテネでの大会を開催することはできないことを確認した。

経済危機が格式高いプロジェクトへの支出を許さない、近代スポーツはこの国では知られてい ない、トリクーピスは、新しい世紀の夜明け1900年のパリほど新オリンピック大会に相応しい時と場 所はないと思うと言った。つまり、拒否であった。

10月29日 (ユリウス暦) 、「メッサジェー」は驚きをもって、ビケラスが失敗したことを伝えた。し かしまだ最終決定ではないと付け加ええられていた。

クーベルタンはショックに対する心構えができていた。彼はマルセイユに向かって出発する寸前、

ビケラスとこの問題について慌ただしく話す機会があった。クーベルタンは反撃を開始した。

1896年に、ハンガリーが建国一千年祭を祝おうとしていた。

  オリンピック大会のための国際委員会のメンバー、ハンガリー政府首席チャキ伯爵の特命全権 大使であったケメニーは、もしアテネが辞退すれば、ブダペストが立候補することに同意していた。

これは説得力のある申し出であった。しかしこれは「最後の手段」であろう。ギリシャ人の説得をもう 一度試みる方がよいだろう。

こうしてクーベルタンは、アテネ、グレートブリテンホテルに滞在することになった。  そこで彼は、

アテネ市長の息子、ジョルジュ・メラスと銀行頭取で王子の幼友達、アレクサンダー・メルカティに 温かく迎えられた。しかしこれは代償なしにはすまなかった。

何日ものあいだ、クーベルタンはいろいろな相反する意見の間に引き裂かれることになった。彼 はホテルにとどまっていた。「アクロポリスに登ることができなかったので、アテネの街を見ることもで きなかった」のである。   

トリクーピスはギリシャでオリンピックを開催することは不可能だと確信していたので、クーベルタ ンに、この事業が問題外であることを得心するために、ひまがあったらこの国のいろいろな状況を 見て歩くように勧めた。

一方、野党のリーダー、Th. デリアノスはこの事業の熱心な支持者であった。

クーベルタンは大会の可能性を「研究」した。とくにギリシャの財政状況の面から。

彼は驚きを告白する。彼は、ギリシャ人はアルバニア人のように背が低く、東洋人のようだと思っ ていた。ところが彼らの背は高かった。アテネは、旅行者が話していたように、「大きな村」以上のも

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