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アントワープセッション ー1920年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 150-153)

1.9. 大戦直後の歳月

1.9.4. アントワープセッション ー1920年

三通の回状が1919年末に出された。全てアントワープセッションの準備に関するものである。

1919年9月にクーベルタンは、空席になっているフランス、フィンランド、チリー、ニュージーラン ドの委員の候補者を提案する手紙を同僚に書き送った。

フランスNOCは「オリンピック大会のいくつかの種目の優勝者に世界チャンピオンのタイトルを 認めること」と、そのために関連国際競技連盟と「これらの種目の技術的条件

について」合意するよう、IOCに要求した。

IOCの原則に忠実なクーベルタンは「ベルギー委員会は、我々の将来の同意を求めることなく、

1920年に関する要求に応じることができる。そして資格を有する国際競技連盟と合意に達すること ができる。そのあと、1921年に招集されるローザンヌでのコングレスでこの件は最終的に決定され るであろう。」と提案した。

第二の回状は1919年12月16日付けである。クーベルタンはプロボクシングの不健康な逸脱に

ついて論じている。彼はこの攻撃と防御のスポーツを非常に愛していた。

第三の回状は数日後地元の主だった人物に宛てられたもので‐おそらくローザンヌ発‐1919

年12月22日にローザンヌ市庁舎で開かれる会議に参加し、公的機関の代表と共に、1921年春に

IOCによって開かれる世界ポピュラースポーツコングレスの最初のプログラムを検討するよう招請し ている。

彼は付け加えている「コングレスの目的は、その重要性がすでに関係者、とくにアメリカの関心 を引きつけているが、スポーツ活動の完全な民主化を準備することである。」

1920年初頭、再び回状によって、クーベルタンはアントワープセッションの重要性をIOC委員た ちに指摘している。

クーベルタンはIOCの運営の遅れについて記している。これほど長い中断の後では驚くには当 たらないが。彼はオリンピック機構に油を注す必要を述べ、もし可能なら第八回大会の会場を決 めるように言っている。即ち全ての立候補地が検討されねばならないということである。

オリンピック大会参加者数の増加が問題になってきていた。参加国の費用負担で地域予選を 行うというアメリカNOCの案は検討に値しないだろうか?

クーベルタンにとってはこのような案は願ってもないものであった。とくにオリンピックが金のかか るものであるという世論が広がるようなことがあってはならなかったから。

決定しなければならないもう一つの問題はNOCの運用であった。

あまりにも多くのNOCがいくつかのスポーツを締め出していた。

結局、IOCとIFの関係の問題が再浮上する。これは早急に処理しなければならなかった。

きちんと了解されねばならないのは、IFはその競技ルールによって大会の競技を組織するが、

オリンピックを支配したり、その政治の中に位置を占めることは諦めねばならないということであっ た。

しかし、これらの問題はオリンピックムーブメントのスムーズな進行のためには極めて重要だが、

全体の問題を隠してしまってはならない。実際面での困難が、ムーブメントの基本的な目的、つま り大戦によって傷つけられた世界が市民生活を回復するのを助けるという目的を損なってはなら ない。

クーベルタンは古代のギムナジウムの復活を唱えている。そこは、古代ギリシャがそう

であったように、現代スポーツが人間に、古代の調和を発見させる楽しい場所を提供するであ ろう。

人類が今必要としているのは社会の平和であるとクーベルタンはもう一度強調する。

「全てのスポーツを全ての人に」は今やオリンピックムーブメントの教育目標となら なければならない。

セッション

1920年8月17日、クーベルタンはセッションを開いた。何人かの古顔のメンバーが出席した。ブ ラック、クールシー・ラファン、ブロネー、ファン・テュイール、フォン・ローゼン、グート‐ヤルコフス

キー、彼はIOCの会議の事務局長になっていた。 23カ国からの30人が集まってきた。

アイスランドのスポーツの自治が承認された。アルメニアは原則として認められた。

クーベルタンは国王アルベール一世の前で演説した。

「スポーツは王様である」と彼は始めた。しかし全ての王族と同じようにそれは「危険に晒されて いる」。IOCの義務は「その力の永続」を確保することである。そのためには「私心のない理想への 断固とした献身」が必要である。

新しいオリンピズムはその誕生以来、スポーツを教育に奉仕させることによって、また常に精神 の傘の下に身を置くことによって栄えてきた。

しかし教育者やスポーツ協会、連盟の役員は思い違いをしてはならない。すなわち技術的アプ ローチが「教育的アプローチを傷つける」ことが許されてはならないのである。

スポーツは国家に統制されてはならない以上に「心理的ジャコバン主義」に陥ってはならない。

そのような手段はスポーツ教育を破壊するだろう。スポーツ教育は思想と行動の自由を要求し、ス ポーツマンの心理的一体性を尊重しなければならない。

IOC会長はオリンピックムーブメントのためばかりでなくスポーツ全体のために独立性を求めた。

彼の目的は全ての市民が自分に最も相応しいスポーツを選び、日々実践できるようにすることで あった。

しかしこれらは単に実際的な事項である。具体的な問題は比較的とりくみやすい。

最も重要なことはオリンピズムの哲学的基礎から離れないことである。

クーベルタンによれば、商業的な精神は利益と金銭をばらまくことによって腐敗を招き「遠から ず騎士道精神を微塵に砕き抹消してしまう」。

「良心が時としてその権利を失い、約束が守られない時代において、実際的な騎士道精神の学 校が若者のために開かれることは最も緊急を要することである。」

クーベルタンにとってこの学校はスポーツであった。オリンピック精神によって卓越したものにな ったスポーツの学校であった。従って、スポーツは大きな責任を負っていた。

「スポーツのグループを、断固として出世主義者の手から守れ!」

問題の解決は、新しい社会階層をスポーツの喜びに参加するよう招かねばならないので一層 難しかった。

プロレタリアにとっては「復讐の時が告げられていた」とIOC会長は回顧している。

一般社会の規範に反逆する彼の魂は、そのスピーチの断固たる調子によって燃えあがってい る。彼は我々に告げる「プロレタリアはこの自分たちの仕事に全く準備がない。集中した怒りを静め るために、形成されつつある地盤の危険な深層をなす積み重なった憎しみを静めるために、何も なされてこなかったからだ。」

しかし「スポーツにはこの感情や情熱を宥め、社会の平安を保つ大きな力がある」。

クーベルタンは積極論者として、スポーツの実践による民主主義の発展についての説明を押し 進めた。「正しい民主主義」の構造と同じように、基本的な不平等に基礎を置いているスポーツの 構造は、個人の計画的なトレーニングによって正される。

従って、「自然の尊大な気まぐれ」と「人間によってつくられた社会的差別」は自分の足で立とう とする人の意志によって克服されるであろう!

スポーツはそれを助ける。オリンピズムは社会的コンセンサスの原動力である。

これが国王と同僚の前で行ったクーベルタンの開会演説であった。

イデオロギーの一致がIOCメンバーの仲間意識を固めた。セッションは最善の兆のもとに開かれ た。公式議事録はすぐに出された。1920年2月の回状でクーベルタンの提起した多くの問題の全 てに結論がでたわけではない。第八回オリンピアードの会場の決定は延期することが決まった。

会議は競技連盟の反対に直面しなければならなかった。彼らは権利の拡大を求めた。自転車 連盟が最も過激で、IFの連盟の設立を呼びかけた。

IOCは深刻な危機に晒された。混乱はクーベルタンの駆け引きのセンスと外交的手腕のおかげ で回避された。彼は将来の展望は「IOC機構の民主的拡大」のうちに求められるべきであると述べ た。

IOCは、世界を巡っているYMCAの代表、エルウッド・ブラウンから興味深い情報を得た。

彼は南アメリカ大会と、もし可能なら現在準備中のヒンズー大会に対する後援をIOCセッション が承認するよう求めた。ブラウンはまた極東大会について報告した。

極東大会は、IOCが1903年最初に後援をし、1913年以来規則的に開催されていた。

チャレンジカップの問題は決まらなかった。

  ピュラースポーツコングレスは「開催の現実的困難に関する理由」のために延期されそうであ った。そして我々も知る通りそうなった。オリンピックのプログラムはいくつかの点で修正された。

1921年のコングレスが「修正し、改正し、決定する」ことができるであろう。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 150-153)