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パリコングレス ‐1914年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 114-121)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.6.13. パリコングレス ‐1914年

スポーツ心理学とスポーツマン心理学の歴史の里程標になるものであった。

1913年のローザンヌは1914年のパリへの道を開いた。

1.6.13. パリコングレス ‐1914年

スのメンバーは「フランス挙げての」歓迎を受けた。

「オリンピック・レビュー」は特別号でパリの最も有名な場所の紹介をした。

「今日のフランスについて」と題した豪華な本がコングレスメンバーに配られた。

数多くの偉大な人物、科学者、文学者、政治家、スポーツマンが出席した。

クーベルタンは何をしようとしていたのか?

彼は「オリンピックメモワール」のなかでハッキリした答えを与えていない。彼は世界大戦が差し 迫っているとは考えていなかった。しかし同時に、もし戦いが起きるとすれば、彼が同胞の間に感 じた「自己に対する蔑み」、精神的な弱さ、それが引き起こす恐れ、であろうと思っていた。

クーベルタンにとって、フランスは強くあらねばならなかった。待ちあぐねる必要はすこしもなか った。

1914年のセレモニーは豪華であった。 6月17日、国家元首臨席の下に行われたソルボンヌの 記念式典は、とりわけ素晴らしいものであった。

IOC旗、クーベルタンが考え、おそらく自分でデザインした、世界の五つの部分をシンボライズ した旗が初めて登場した。

百以上のメッセージが世界中から届いた。有名なスウェーデン歌手のコーラスが美を添えた。

祭典は、ド・ポリニャック侯爵の招きでリームズへ移り、ジョルジュ・ヘベールの経営するコレージュ ダトレット(スポーツ中学)で閉幕した。

議題は大会の組織に関する数多くの技術的問題を扱った。即ち、大会への参加資格、参加の 条件、エントリーフォーム、競技のプログラム、競技の統一規則、審判問題、国の分類等。勿論、

1916年に予定されたベルリン大会の準備と構想が審議の背景にあった。

ベルリン大会のプログラムが長い時間をかけて論議された。しかし何も最終決定とはされなかっ たのはコングレスメンバーの知恵の証であった。彼らは単に以下のガイドラインを勧告するに止ま った。

スポーツは二つのカテゴリーに分けられる。

必須種目は、陸上、体操、ウエイトリフティング、自転車、防禦スポーツ、射撃、馬術、水上スポ ーツ、複合スポーツ、ゲーム。

選択種目は、ラグビー、フィールドホッケー、アイスホッケー、アーチェリー、ポロ、ゴルフ、フィギ ュアスケート、スキー。

ウエイトリフティングは最初除外されていたが、 4日後にプログラムに復帰した。

陸上のプログラムが国際アマチュア陸上連盟(IAAF)の事前承認を得ていたのは時代の流れ

を示すものであった。16の国内連盟がリヨンでこの件について論じていた。

付け加えられたのは綱引きだけであった。

体操のプログラムはドイツ代表とIAAF会長ジークフリード・エドストレームの間に深刻な議論を 引き起こした。ドイツ帝国オリンピック大会委員会は「ドイツ六種競技」を陸上種目に加えることを要 求した。IAAFは、それは独立種目とすべきだと主張した。

妥協策として、六種競技は例外措置として、ベルリン大会の体操競技に加えられることになった。

アマチュアリズムの問題は、国際競技連盟に投げ返された。IFだけが参加者のアマチュア資格 を保証できる立場にあったからである。

参加者の年齢制限の提案は拒否された。

女性は水泳、テニス、スケート以外の全ての競技から締め出された。

各国国内オリンピック委員会が選手の大会参加に責任を持ち、国際競技連盟が審判に、主催 国が上告審判委員会に責任を持つことになった。国による分類は廃止された。

以上はパリコングレス(1914)の決定であった。この決定についてパリプレスに多くの意見が載っ た。「ル・フィガロ」の記者フランツ・ライシェルは、ムーブメントの忠実な支持者であったが、プログ ラムに新しい種目が追加されたことを大いに残念がった。

戦争が終わった1919年まで、パリで1914年に採択された決定は「オリンピック・レビュー」の特別 号には載らなかった。

我々はどうしても、このコングレスを1914年 8月という文脈のうちに置いてみたくなる。コングレス の最終日、6月28日、サラエボの暗殺が起こったことを考えれば、全てが無益なことに見える。

しかしクーベルタンは、自分は戦争を予期していなかったとハッキリ言っている。

そしておそらくコングレスの参加者の大部分もそうであったろう。

もしこのコングレスをIOCの意図に照らして考えれば、オリンピックムーブメントにとって成功であ ったと言えるだろう。そしてその成功はIOCのおかげであり、勿論、クーベルタンのおかげであった。

それまでに固有の病になっていた多くの問題、女性の参加、アマチュアリズム、大会プログラム の削減に解決を見いだすことはできなかったが。 

歴史家にはコングレスに二つの傾向が見て取れる。NOCとIFの力の増大、そして実際問題とし て、スポーツとその技術的規則の限界のない発展である。

この点で、基本的な変化があったと言えるだろう。

当座しのぎのオリンピック大会の時代が終わったと言うこと。スポーツの世界化とそれがもたらし た多種多様の利益がその中に巨大化の種を宿していたこと。

クーベルタンが学んだことは、コングレスがたまたまいくつかの簡単な技術委員会を伴う、教育 的な「盛式ミサ」の一形式にすぎなかった時代が終わったということであった。

1925年のプラハでは、一つは技術的、一つは教育的な、二つのコングレスが開かれる。

1.6.14. 1894年‐1914年:総括 主要な行事と理想

パリのオリンピックコングレスは1914年 7月23日に終わった。丁度その日、オーストリアはセルビ アに最後通牒を送った。

バルカンに限定される筈であった戦争は、世界大戦に発展した。

大戦勃発のとき、オリンピックムーブメントの姿はどのようなものであったろうか。

象徴的な意味合いにおいて、クーベルタンただ一人が新しいオリンピズムの責任を負っていた といっても間違いではなかろう。

ここまでの頁で、私たちは彼がどれ程、言葉とシンボルを扱うのに長けていたかを見てきた。三 位一体、サークル、聖火、五輪の輪のようなシンボルを作り、頌歌、宣誓、行進のような儀式につ いては言わずもがな、彼は制度を作り、構造を定め、十字軍を出発させなければならなかった。手 短に言えば、彼は統治しなければならなかった。

我々が光を当てようとしたのは、この神聖なものと政治的なものとの複雑な相互作用、宣言され た夢と避けがたい現実との生きた対立であった。

この夢とビジョンの氾濫と遂行された力の政策から、どんなアイデアが生まれ現実の軌道を決定 し、構造を変え、組織の性格を決めたのだろうか?

1894年から1914年の間のIOCの構造と組織を決めた主な思想と出来事は何だったのか。

子細に見れば、物事のいろいろな面をカバーする沢山のイニシアチブがあったことが分かる。

即ち、芸術、文学、スポーツ、衛生学、歴史、心理学、精神、地勢学、旅行、祭典、儀典、観衆、

宴会、メダル、カップ、賞状、賞、一連の随伴現象、その中にはアマチュアリズムの問題が特別な 位置を占め、これらの過程の本質を包み隠していた。

この過程におけるクーベルタンの役割を理解するには、彼の人となりを理解しなければならない。

彼は誇りの人であり、自分の独立と卓越性をあらゆる手段を尽くして守った。彼のイメージの中で は、IOCはいかなる外部の干渉も許さず、一切の凡庸さを避けるものでなければならなかった。

見て取れるのは、 IOCが堂々たる非妥協性を保持し、完全な独立性を享受することを確実に しようとするクーベルタンの意図である。この独立性は、政府やスポーツの協会、連盟からの独立、

そして人とその些細な利益の凡庸さからの自由を意味するものである。

設立のそもそもの始めから、国際オリンピック大会委員会は、これは1897年に IOC(国際オリン ピック委員会)になったのだが、その設立者によって財政的、政治的不測の事態から守られてい た。

その憲章は委員会を安全なところに置いている。時代錯誤の憲章は、民主的基準に合わず、

歴史の流れに逆らうものであった。

我々が見たように、IOCの大いに誇示されている自由は、貧しくあることからの自由であった。政 治的な自由は絶対的なものでなければならなかった。

その結果、メンバーは知的、道徳的、経済的独立性を唯一の基準に、選ばれたり、選ばれなか ったりした。

この自ら宣言した指導者は、そのような人物は卑俗な経済的窮乏から自由な、上流社会の特権 階級の中でのみ見つかると考えていた。

メンバーの任期は制限がなかった。更新や選挙のプレッシャーはなかった。

先ず選挙で選ばれたのではないので、彼らは感情的な反応が当てにならない移り気な一般市 民に報告する義務がなかった。

彼らの唯一の機能は、優れた人々から成る超国家的経営陣への代表として行動することであっ た。彼らの役割は、それぞれの国の顧問として振る舞い、地元のスポーツ協会や連盟を鼓舞する ことにあった。

彼らは現存のスポーツの組織に巻き込まれることは控えたが、国内オリンピック委員会を設立す ることを奨励した。

彼らは上から送られてきた。言わばIOCという神の使節であった。

IOCと外部との関係の全ては、細部にわたって独立性の典型的な性格を反映していた。

IOCは国際競技連盟、各国国内オリンピック委員会、そして大会組織委員会から距離を保った。

IFとの関係は階層的なものではなかった。IOCは論議されているスポーツ分野の問題に突然決 定を下す「上位の評議会」ではなかった。

現代は、スポーツに適用された商業活動の時代である。従って、IOCは共通の大義の利益のた めの自由な協会であった。

規則の統一はIFの責任であった。過剰な愛情は避けなければならなかった。つまり、国際主義 が優越すべきで、これは(貧弱な四海同胞主義や人間愛よりも)競争の精神を前提とし、競争関 係を受け入れるものであった。

同じことが、IOCとNOC及び大会組織委員会との関係にも言えた。IOCは「全ての完全な自由」

を享受し、NOCと組織委員会は提案の自由をもった。

IOCの独立を更に主張し拡充するために、大会が巡回して開催されるようにした。

つまり、大会はある一つの国の占有物ではない、ということである。

「オリンピックのギリシャ化」は息の根を止められた。

結局、憲章公布と一連の儀式の導入‐毎年のセッション、周期的なコングレス、儀典、国王や 大統領の公式会見‐などによって、オリンピックムーブメントは、国際主義の超越した精神によっ てその独立を確かめた自立した国際組織であり、それ自身で一つの世界(文化)であることを示し た。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 114-121)