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ローザンヌ、1913年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 111-114)

1.5. 少数の選ばれし仲間

1.6.12. ローザンヌ、1913年

めた。この問題は1913年のミーティングで検討されることになった。

1912年3月28日のバーゼルでの決議に基づいて、コングレスの構成がクールシー・ラファンによ って提案された。コングレスの参加者は、IOCメンバー、各NOCから10人以内の代表、この数はそ の国のスポーツの重要度に応じて決められる。そしてNOCのない国からは外務省の代表が出席 するという条件で各国 3人が認められた。

出席した代表だけが投票権を認められる。この提案は全会一致で可決された。

この時、1914年のパリコングレスの準備が残っていた。イギリスのメンバー、クックが三か国語(フ ランス語、英語、ドイツ語)で告示の手紙と多くの提案を含むテキストを提出した。IOC委員会の報 告者、フォン・ベニンゲン男爵が承認された。

それからクーベルタンは IOCメンバーへの「告示の手紙」を読み上げた。そのためクックの提案 の第一点が無効になった。

結局、IOCメンバーはパリコングレスの準備書類を1913年2月1日までに受け取ることになった。

この仕事のためにベニンゲンが細目にわたって指示を受けた。

セッションは成功であった。一方では、ほとんど完全にIOCと大会の活動と構成に関する技術的 問題を扱ったにもかかわらず、ストックホルムセッションは芸術競技についての決議の更新に見ら れるように、オリンピズムの究極の目的に沿ったものであった。

セッションの議事録は「オリンピック・レビュー」に発表される。

次のセッションは1913年のコングレスの間にローザンヌで開かれることになった。

1.6.12. ローザンヌ、1913年

延期することを決定していた。

コングレスは1913年5月8日、木曜日、ローザンヌ大学の講堂で開かれた。

クーベルタンは「オリンピックメモアール」の中で、大きな喜びを持って、このイベントを描写して いる。「街は旗で覆われた。階段のところで小さな子供たちのボーイスカウトが儀仗兵をつとめた。

合唱連盟とローザンヌ男性合唱隊の素晴らしいコーラスが盛大な拍手を浴びた。」翌日の夕方、ド ラルク寺院のテラスで22人のレスラーが競技した。木々の間に隠された松明の光を浴び、羊飼い や牛飼いの拍手を浴びた。「牧者のホルン」が響き、「忘れがたい」夜であった。

三日目の夜、カジノで楽しいレビューがあった。祝典にはウーシーのベニス祭り、ド・ブロネー男 爵夫妻主催のグランドソン城におけるレセプションと舞踏会も含まれていた。

ヴォー州の評議会主催のシロン城ホールでの昼食会もあった。

セレモニー好きのクーベルタンは大変に満足であった。彼は「過去には重要な役割を演じてな かったが、大きな未来を持ち、世界の文明国に対する試験場としての役割を静かにはたしている 小さな国」で居心地よく感じていた。

コングレスは適切なスピーチで幕を開けた。IOC会長は丁重に感謝された。このコングレスは最 高に重要なものであると述べられた。

クーベルタンは次のように応えた。「穀物は急速に成長しています。紳士諸君。収穫は満足す べきものであることが今や確かになりました。」しかし「スポーツマンは自分たちが持っているお守り の価値を知りません。」人がかつてないほど努力を求められる時代にあって、「スポーツこそ努力の 初等学校です。」肉体と心と精神を鍛えよ。「鍛えられた肉体を好む男たち!」。

コングレスは「スイス連邦評議会の手厚い後援の下に」開かれた。国家評議員デコペが組織委 員会の名誉会長であった。そのメンバーには、初めてゴッドフロア・ド・ブロネーのような高官が含 まれていた。彼は後にオリンピック運動の中で大きな役割を果たすことになる。多くの著名な学者、

科学者がIOC会長の招待に応じた。とくに医師、医学教授が多かった。凡そ100人が参加し、その うちの70人がスイス人であった。

ストックホルム大会の大成功に続いてのコングレスであった。競技スポーツは新たな高まりを迎 えた。以前にはなかった問題が起きてきた。クーベルタンはそれが迫ってくるのを感じていた。「ス ポーツには過度に陥る傾向がある。より早く、より高く、より強く... 常により以上を目指す。これは 人間の平衡という観点からは明らかに行き過ぎだが、それはまたその高貴さ、その詩的性格でも ある。」

1897年のルアーブルコングレスで、スポーツの心理的側面はすでに議論の中心となっていた。

しかし、当時、彼らは単に「身体運動の心理学」に取り組んだにすぎない。

ローザンヌでは、議論は「スポーツ生理学、心理学」に焦点が合わされていた。もっともこの言葉 は必ずしも今日と同じ意味ではない。事実、もし我々がこのテーマをよく吟味すれば、議事録の32 の項目に見る如く、コングレスの主題は教育であった。

コングレスは初めて、興味を持つ全ての人に公開され、参加が許された。

400人が大学講堂で行われた開会式に参加し、平均75人が作業委員会に出席した。

クーベルタンの確信は揺るがず、取組はシステマティックであった。彼は一切の萎縮させるよう な機械的「生理学主義」に、普遍的で開かれた、反実証主義的精神性をもって対峙した。即ち、

人間は単なる筋肉の集まりではない。

三か国語で出されたプログラムは論理的な考え方に従った。スポーツ活動の起源、継続、様式、

結果である。これらのテーマは幅広い論議を引き起こした。

国際的な貢献の中に郵便で送られたセオドア・ルーズベルト大統領のものもあった。

イタリアの歴史家、フェレッロは「スポーツの限界」の冒頭でスポーツを知的活動に対する解毒 剤と見ている。

ローザンヌの医師、ラルギーエは子供の中に競技本能の存在することを示し、非常に早い段階 で刺激を与えれば、子供はスポーツ本能を発達させるだろうと主張した。

オランダ人、ファン・ブリンブールはスポーツ本能は、身体の法則、人間に生得の戦う意思、そ して感情的な卓越への絶えざる努力に依存していると強く主張した。

スポーツ本能の定義が激しい論議を呼び、結論をみないまま後の論議に委ねられた。

第二のテーマは、論者にそれぞれのスポーツの教育的価値を強調する機会を提供した。ルイ ス・ドゥデの論文は大変興味深いものであった。ドゥデによれば、プレーを通じて青年は性格を発 展させ、社会的に積極的な人材になるというものであった。

彼はスポーツに関する文脈のなかでチームについて言われていることは全て、必要な修正を加 えれば、全体としての社会生活に当てはまると主張した。

その他のスピーカーのうちで注目されたのは、海軍大尉、ジョルジュ・エベールとジャン・フィリッ プ博士であった。

クーベルタンは多くの論文は「興味深いが、厳密には主題との関連に難点があった」。提出され た論文の質はまちまちであった。しかしその学問的水準は、1897年のルアーブル、1905年のブリ ュッセルのコングレスのものよりも高かった。

論文のいくつかは大変質の高いものであった。それらの一つは機能心理学の創始者、エドワー ル・クラパレードのものであった。クラパレードは「本能」という言葉、同じく「ド・クーベルタン氏によ るスポーツの定義」に疑問を投げかけた。彼はこの定義は「やや狭く」、スポーツ活動の深い起源 に十分な重要性を与えていないと考えた。文学や科学における創造はときとして「スポーツの生む ものと知的に同じ価値をもつもの」と考えることはできないのか?

すでに、スポーツについての本能主義と行動主義の対立が始まっていたのである。

1913年のローザンヌコングレスは全体として成功であった。ここでスポーツ心理学が誕生したと いうのは早計にしても、認識論的意味においてスポーツ心理学が始まったとはいえるのである。ま たオリンピズムと生理学主義との決別もここに記された。これ以後、クーベルタンは科学的研究と 大会の構成要素にたいする彼の取り組みを支えるものを持つようになるのである。

当時の心理学の発達段階では、コングレスは文学的考察に限らざるを得なかったし、その議題 にもかかわらず教育的な事項に偏向せざるを得なかったことの説明もつく。

しかしそれにもかかわらず、このコングレスは近代オリンピックの重要な時期を画すものであり、

スポーツ心理学とスポーツマン心理学の歴史の里程標になるものであった。

1913年のローザンヌは1914年のパリへの道を開いた。

1.6.13. パリコングレス ‐1914年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 111-114)