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セントルイス大会 ‐1904年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 124-128)

1.7. 大会と人について

1.7.2. セントルイス大会 ‐1904年

クーベルタンは二度と同じ間違いは繰り返さない、そして将来オリンピズムが「パリで嘗めたよう な屈辱的な役割を演ずることはない」と心に誓った。

それでもなお、更に二つのオリンピアードが同じ危機を経験しなければならなかった。  まだ世 の中にほとんど受け入れられてないオリンピック大会は、世紀の大商業博覧会のポピュラーなアト ラクション部門に格付けされていた。

1904年の大会も例外ではなかった。

ソルボンヌのコングレス(1894)以来、ある暗黙の了解があった。それはクーベルタンがあれほど に賛嘆した新世界の鏡、スポーツが確立されつつある広大な大陸アメリカで、近代オリンピックが なるべく早く開催されねばならないということであった。

それによって、フランス・ヨーロッパで発案されたオリンピックが世界的な次元の広がりを持つこと ができる。

クーベルタンは彼の創造のプロセスを「最初の三位一体」の上に置いていた。

彼がアメリカの代わりにイギリスをこの最初のグループに入れなかったのは幾分不思議である。

多分彼は、永遠のギリシャと自分の国フランス、そして彼が心から賛嘆する北アメリカに名誉を与 えたかったのであろう。

しかし何故彼はアーノルドとブルークス博士の祖国を忘れることができたのだろうか? 戦略的 アプローチを行おうという彼の決意だけが、その選択を説明できるようである。即ち、 IOC会長は はるか遠くを見通し、イギリスの現在の力よりもアメリカの政治と経済の長期的な未来に賭けること を選んだのである。

オリンピックムーブメントを導く際に、クーベルタンは地政学的なアプローチを見せるのが常であ った。それ故に、彼はオリンピックが大西洋を渡るのを喜んだ。   

シカゴが直ちに候補市として名乗りを上げた。早くも1900年 7月には、パリ発の「ニューヨークサ ン」の記事がこの可能性について報じている。

1904年にシカゴは「数人の勇敢な猟師達がこの地に建てた丸太小屋の一群」を記念して市の 創立百周年を祝う。

シカゴ市当局、大学総長ハーパー博士、博士とはクーベルタンは1893年のプレオリンピックツ アーのときに会っていた、「熱心な宣伝家」でクーベルタンが好意を寄せていた数少ない外交官 の一人、フランス総領事メルー、そして法律家で米仏友好協会会長チャールズ・ブレアルの息子、

ヘンリー・ブレアル。これらの人達はIOCが調査段階で主催者に期待する真剣なアプローチの完 全な保証となった。

クーベルタンはハーパー教授に特別の敬意を抱いていた。彼はハーパーが百万長者プルマン の寄付のおかげで設立された大学をどのように経営しているかを知っていた。

新世界では時間は無駄にされない。1901年 2月13日、宴会がハーパー博士主催で開かれた。

1904年大会にシカゴが立候補するための臨時委員会ができ、H.J.ファーバーが委員長になった。

1901年 5月10日、シカゴの立候補届けはクーベルタンの机の上に置かれた。

大学の競技場が無料で大会に使えることになった。詳細な予算が作られ、大会、芸術イベント、

コングレスのプログラム原案の制作が進められた。

全ては能率よく行われて、四年前のパリで起こったぐずつきは見られなかった。

しかし何ということか、誰も、アマチュア体育連盟事務局長、ジェームズ・サリバンの扱いにくい 態度を考慮に入れていなかった。彼は1900年の「ニューヨークサン」の記事に既に反応を示して いた。1901年彼は宣戦を布告する。インタビューで彼は、1900年の大会の時にパリで、ある国際 連合が結成されていたことを明らかにした。

設立者は、アメリカ代表がジェームズ・サリバン、フランスがジョルジュ・ド・サンクレールとピエー ル・ロア(パリに住むケベックカナダ人でアルザスの学校のスポーツ協会設立者)、スウェーデンが ベルグ中尉であった。

そしてクーベルタンは、次のような通告を受け取った。彼はもはやIOC会長ではなく、スポーツ 界において何者でもない。次のオリンピックは1901年、バッファローで、サリバンがスポーツコミッシ ョナーを勤める博覧会と同時に開催される。

1900年12月12日既に、W.M.スローンはクーベルタンに、何かが起こっていると警告していた。

ベルグはそのような陰謀に加わったことを否定した。サリバンはニューヨークの新聞で非難され た。この件がしばらく続いたという事実は、オリンピック大会がアメリカに来ることによって引き起こさ れた歴史的、経済的な関心を示す一つの例にすぎない。

IOCは、5月21日シカゴをオリンピック開催都市に指定した。オリンピックセッションはパリの自動 車クラブのレセプションルームで開かれた。

シカゴは選手の旅費の負担に同意した。

セントルイス市が委員会に対して、博覧会の開会を1904年に延期したと通知していた事実があ った。これはオリンピック大会と同じ年の開催となり、もしシカゴが断念すればセントルイスで大会を 引き受ける意思があることを示すものであった。

しかしこの決定の明朗さに影をおとすものがあるようには見えなかった。

クーベルタンは次のように記している。「全ては上々のスタートを切った。」

シカゴ選択の発表に市は大喜びした。大学のマーシャルフィールドキャンパスでは学生たちが 巨大なかがり火をたいた。

1901年 5月28日、クーベルタンはマッキンリー大統領にオリンピック大会の主催者になってくれ るように頼んでいる。大統領は引き受けそうにみえた。しかし彼は 9月 6日、バッファローのパン アメリカ博覧会の開会式で狙撃され八日後に死去した。

セオドア・ルーズベルトが後継者となった。ルーズベルトはボートマン、ハンター、きこり競技者 であり、本物のスポーツマンであった。

彼はクーベルタンの友人であり、親しい手紙のやり取りを続けていた。

そうしたわけで、彼はIOC会長の求めを受けるものと思われた。

ところが彼は、1901年12月 7日に正式の依頼を受けたとき「オリンピック大会と政治の関わり」を つくる印象を避けるために要請を断った。

そのころ、シカゴのギリシャ総領事サロプーロ某が熱心の余り、大会はギリシャ国王によって主 催されるであろうと発表した。これは如何にギリシャ人が近代オリンピックの祝典に文化的な存在を 示したいと望んでいたかの証左であるが、アメリカの大衆は怒った。大会はアメリカ合衆国の大統 領によって主催されなければならない。

ルーズベルトの断りを受けたクーベルタンは、組織委員会会長ファーバーの 5月 6日付けの アメリカ大統領の好意的な態度を伝ええる手紙に励まされて、もう一度トライしてみることを決心し たようにみえる。

クーベルタンによれば、セオドア・ルーズベルトは1902年 5月28日、「自らアメリカのオリンピア ードを開き、陸軍と海兵隊を参加さす」ことを約束した。

情勢はひどく曖昧であった。休暇中のクーベルタンはアルザスのロタンの家にファーバーを迎

えた。ファーバーは心配しているように見えた。

11月26日、ファーバーは長い親書を送った。またもう一度最初から始めなければならない。セン トルイスが動きだした。

二つの都市の間の長いライバル関係にもかかわらず、シカゴとセントルイスは何らかの合意にた どり着けそうに見えた。二つの委員会の協定でシカゴ大会の観客はセントルイス博覧会にも行け るようにできると考えられた。

しかしセントルイスにとってはこれでは十分でなかった。セントルイスは大会を開催することを要 求し、選手に「莫大な賞」を約束した。

困惑したファーバーは、大会は1905年まで延期し、シカゴで開催されるとして両者を説き伏せた。

アメリカ大統領がIOCの同意を得るために詳細な説明を受けるであろう。

ボールは今やIOCのコートに投げ返された。クーベルタンは、1893年に訪れたときのセントルイ スの悪い記憶と大会が貿易博覧会の付属物になることへの嫌悪感にもかかわらず大会を移すこと に同意した。

用心のために、彼はセントルイス博覧会とアメリカ体育連盟の責任者にオリンピック大会の自主 性を保証するよう求めた。何よりも彼はパリ大会での前例が繰り返されることを避けたかったのであ る。

用心深く、彼はセオドア・ルーズベルトの意向を打診し、そして‐これは進行中の民主化の重 要な印であるが‐1902年12月23日、IOC委員に移行についての意見を聞いた。

彼の報告によれば、26人のメンバーのうち21人が投票し、14が賛成、 2が反対、残りの 5が棄 権であった。

この結果に勇気づけられて、クーベルタンは1902年12月23日、この件を非公式にセオドア・ル ーズベルトに提案した。ルーズベルトは「移行に賛成した」。

一件は落着したように見えた。ルーズベルトの決定は自発的な確固たるものであった。

バーニーはこの説明に抗議している。バーニーの発言は注意に値する。

彼はクーベルタンのところに届いたのはIOC委員のうちの 7人、ブロネー、リボピエール、デュッ ソウ、グート、デル・カンポ、メルカティ、ブラックからの回答であったと主張している。他の7つの回 答は不賛成であった。

さらに、クーベルタンは26人のメンバーと言っているが、1902年12月にはIOC委員は28人であっ た。

1903年12月 2日、クーベルタンはファーバーに電報を打った。「開催地変更は受け入れられ

た」。ファーバーは返信で同意を知らせた。

その間、 2月11日にクーベルタンはシカゴの組織委員会に手紙を書いた。

彼は遅くなったことを詫び、IOCのメンバーに相談しなければならなかったと述べた。  そして大 会を1905年に延ばすことは不可能であることを確認した。

彼は組織委員会のメンバーの理解に感謝した。そしてゲップハルトとケメニーを「大会の組織委

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