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第八回オリンピアードの大会‐1924年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 178-185)

1.11. 狂った歳月 ‐ 1919‐1924

1.11.4. 第八回オリンピアードの大会‐1924年

彼は慎重な言い方で、パリ大会が郊外のコロンブスタジアムで行われたために、そこそこの成功 に止まったことを残念に思うと述べた。「もしオリンピック大会が郊外でなく、本当にパリで行われた ら、全ての人が参加しただろう。」

しかし、彼は全委員が称賛した強い調子で述べた。「基本的なルールが行政当局によって ʻ粉々にされʼ公権力による絶え間ない邪魔は許すことのできない程度に達した。」

1924年のパリセッションは質問と討論が盛んで、新しい現代性が姿を表そうとしていた当時のオ リンピックムーブメントの状況をよく示すものであった。

そしてIOCがその力を確認し、自由な民主主義の進歩のあとを追って、スポーツの世界の未知 の領域の征服に乗り出す機会を与えるものであった。

1.11.4. 第八回オリンピアードの大会‐1924年

ルールを尊重し、またそれを心から喜んで、IOC会長は大会準備の全責任を組織委員会が担う ことを許した。そして自分は30周年記念祝典に専心した。

組織委員会事務局長、フランツ・ライヘルは本物の仕事をした。彼はコロンブの公式スタジアム が最良、最新の施設を備えるよう最新技術の成果を動員した。彼の書いた公式報告はその点に ついて詳しい。

初めて電話網が競技場、トラック、役員を結んだ。20回線がパリのネットワークに繋がって作動し た。報告書の作者が素晴らしい性能と讃えたラウドスピーカーがオリンピック会場の内外に設置さ れた。

宣伝委員会が、国民の関心を高め大会中一般に情報を流す目的で設置された。

かつてこのような規模で近代的な宣伝手段が使われたことはなかった。

いくつかの問題がプログラムに関して持ち上がった。四年前のアントワープと比べて大きな変更 があった。二つの競技が落とされていた、フィールドホッケーとアーチェリーである。陸上では 3,000メートル競歩、24.5キロ砲丸投げ、綱引きが消えたことに注意してよいだろう。体操では、チ ーム種目だけが生き残った。しかし種目毎の個人ランキングリストが導入された。

格闘技ではカテゴリーの変更があった。射撃は五つのうち三つ、漕艇では七つのうち五つが残 った。水泳では男子400メートルが落ち、女子種目が増えて100メートル背泳、200メートル平泳ぎ、

飛び込みが含まれた。400メートル平泳ぎは300メートルになった。馬術ではアクロバットが落ちた。

選択競技ではバスクペロタとカーリングだけが生き残った。

水泳、射撃、サッカーの会場は非常に離れていた。新聞はこの会場の統一の原則に対する違 反を厳しく非難した。選手も遠くまで行かなければならないので不平を漏らした。

エントリーは個人競技は1国4人、チームスポーツは1国1チームに制限された。

公式報告によれば、45カ国、6,000人の選手が参加した。世界記録が陸上で6、水泳で5破られ た。サッカートーナメントは23カ国で争われた。決勝はウルガイとスイスで、6万の観客の前で行わ れた。場外には入場できない1万5千の観客が残された。

水球には14カ国が出場した。観衆の数は多く、忍耐強かった。

盲目的愛国主義による事件があったのは嘆かわしいことである。

アメリカのラグビー選手が襲われた。イタリア人がフェンシングの判定に怒ってファシストの歌を 歌いながら部屋を出てしまった。ボクシングでも事件があった。しかし、ヌルミ、ラウア、バイスミュラ ーが堂々たる態度でオリンピック精神を守った。

フランスはしかし、「オリンピズムの良き、華やかな女祭司」であった。

開会式は「その目的に相応しく、パリに相応しく、フランスに相応しく豪華であった」。プロトコー ルは守られた。「行進、スピーチ、宣誓から高貴さが発散していた。ある瞬間、そこには宗教的な

何かがあった。オリンピズムはかつてこのような心を打つ瞬間を経験したことがなかった。」

常に叙情詩人であるIOC会長はこう書かずにいられなかった。「イフィトスの町の偉大なギリシャ の日も、決してパリのフランスの日以上に豪華で美しくはなかった。」

閉会式では冠を戴いた優勝者のグループの紹介が印象深かった。次は二位のグループ、そし て三位のグループ。いずれも馬に乗った人物が先導した。

演説の中でクーベルタンは挑戦した。「願わくば1928年の大会が喜びと調和のうちに開かれん ことを。そしてオリンピックの火がより真摯な、より勇敢な、より純粋な人間性の善のために時代を通 じて燃えつづけんことを。すべてがかくあらんことを! 」

オリンピック旗は巻かれて、パリ市長に預けられた。

芸術、文学競技は3月15日から4月15日までポリニャック委員長の下に行われた。

出品作品は文学作品も含めて、悲しむべき形式主義の刻印を帯びていた。

一位フランス、二位ルクセンブルグ、三位ギリシャであった。

出品作品は全て美的な価値の乏しいものであった。

一つ新しいものがあった。最初にして最後、近代オリンピックのプログラムに子供の競技会が載 った。その準備はYMCAのパリ支部に委託された。

第8回オリンピアードの祭典

クーベルタンは第八回オリンピアードの準備のいい加減さを警戒して、1921年早々、なるべく距 離を置くようにした。そして第30周年式典と大会スケジュールをハッキリ区別した。彼は式典を自 分自身で準備したいと思った。

6月23日からパリは異例のスペクタクルで訪問者を迎える筈であった。

6月24日、IOC委員とコングレス代表はパリ市庁舎に迎えられた。

クーベルタンにとっては、アンリ四世の時代にフランスがスポーツ好きだったとしても、現在はそ うではないと断言する絶好の機会であった。しかし「スポーツの大海原には大洋と同じように満ち 引きと大波があるように見える。」と言っただけであった。

7月15日、オリンピック選手達はエリゼー宮に迎えられた。

フランツ・ライヘルは大げさな称賛の言葉を積み上げているものの、パリ大会の成功はまあまあ という程度のものであった。クーベルタンはもっと冷静であった。スポーツ創造の自由は官僚達に よって侵害された。IOCの独立は国によって邪魔された。

しかしもっと悪いのは、オリンピズムの哲学的目的を滅ぼしかねない病菌がスポーツを侵し始め たことである。従って、重要なのは「成功からくる正当な満足に、矯正されねばならない欠陥につ いての意識が伴っていることである」。

クーベルタンは容易に修正できる技術的欠陥について言っているのではない。そうではなく、

決して忘れてはならない倫理目標を尊重しないことについて言っているのである。

「このオリンピックは、芸術と思想の衣を纏わせようとする素晴らしい、称賛に値する努力にもか かわらず」あまりに「世界選手権」でありすぎた。

世界中から称賛されたチャンピオンたちの間に「民族の天才、ミューズの協力、美の礼賛」が欠 けていた。これらがあって初めて、オリンピック大会は「あるべき姿に成ることができる。そして四年 ごとの人類の春の祭典、その血が精神に奉仕する、規則正しいリズムを持った春に成ることができ る」。

クーベルタンの訴えはハッキリしている。彼の目的はギリシャの智恵の「カロス カガトス(善と美)」

を再発見することであった。

その不完全さにもかかわらず、第八回オリンピアードによって、クーベルタンは基本へ立ち返っ た。コロンブのスタジアムで、彼は既に次の年、プラハで開かれるオリンピックコングレスについて 考えていた。教育改革という最も彼の心を支配する情熱に立ち返って、既に新しい教育プロジェク トを構想していた。オリンピズムは日々生き抜かねばならないからである。

我々はパリ大会公式報告の彼の序言を一種の哲学的遺言と読んでもよいだろう。

クーベルタンは結論し、再び語る。「私はオリンピック大会を一つの国、一つの人種の特権としよ うとして復興したのではない。またそれは、いかなる性格のものであれ、あるグループ或いは偏っ た思想に依存することは許さない。」

シャモニーのウインタースポーツ週間

1923年末、クーベルタンはバイエ‐ラツールに書いた。「シャモニーはうまく行くだろうといわれ ているが、我々としてはこれには距離をおいた微笑と冷徹な態度で臨まねばならない。私はブロ ネーと貴下が全体のトーンを定めてくれるものと期待している。そうでないと我々を笑い物にして喜 ぶ人がいるだろう。」

9年後、彼は「オリンピックメモアール」の中で、「第八回オリンピアードの大会は1924年2月、シャ モニーで始められた。この雪の序曲はあらゆる点で大成功であった。」と書くまでになっている。

二つの文章の対比は説明を要する。最初の文章でIOC会長は人々がなんというかを心配しつ つ、用心深く物事を進めている。二番目の文章では、全ての留保を忘れて、この「序曲」の全体的 な成功を歓迎している。

第一回冬季オリンピック大会の背景を探ってみよう。

雪と氷の上の人間輸送の発明者であったスカンジナビア人たちは、ウインタースポーツは自分 たちの独占物だと考えていた。そしてノルディック大会にそれを表現していた。自分たちの独占を

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