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最初の果実、アテネ1896年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 61-68)

1.4. デメトリウス・ビケラス、オリンピック大会のための国際委員会第一代会長 1894-1896

1.4.2. 最初の果実、アテネ1896年

1894年6月の夏至の頃、逆風の中で、あまり好意的とも言えない畝に蒔かれた種が稔るかどうか は、運次第であった。第一回オリンピアードの競技大会は、1896年6月6日から15日にかけてアテ ネで開催された。

それは、ゲームと挑戦が民族の伝統であるような国においてさえ、まるでポーカーの幸運な手の ようであった。一握りの支持者を除いて、このプロジェクトが成功すると考えた者はいなかった。支 持者とは、皇太子、クーペルタン、ビケラス、そしてこの人達に比べ熱意において劣り、確固とした 信念からというよりも王家に対する忠誠から支持した、T.フィレモンであった。

全てが失敗を予想させた。インフラの欠如、事実上国民スポーツが存在しないこと、世論の不 一致、有能な人材の不足、政治階級の大多数の敵意、破産が統出している住民18万の小さな眠 ったようなバルカンの都市、アテネ、アテネは未だ5世紀に及ぶトルコの支配の後遺症に苦しんで いた。そのような条件の下で、どうやって国際オリンピックを開催する能力を発見することができる のだろう、しかもそれは、アッティカ風の伝統を守りながら、現代の要求にも合わなければならない のである。それでもなお、大会は開催された。

この第一回の大会から、多くのものの源となったものが生き残っている。

全体として言えば、それらの品質は貧困なものである。

創始者の自己満足とジャーナリストの情念と民族主義者の熱狂に浸されていたから。

我々はこの十日間の歴史を忠実に再構成することができる。

この十日間は世界を震撼させはしなかったが、歴史的なものであった。

クーベルタンのメモワール、手紙、アテネの「メッサジェー」の増刊、「公式記録」がこの大会を歴 史的な、祝祭の、オリンピックの文脈の中に理解することを助けてくれる。

  「過去の全ての栄光を蘇らせるべく復元されたスタジアムに観客が入場を許され、ジョージ国王 陛下が”私は第一回近代オリンピックの開会を宣言する”という儀式の言葉を正式に述べて、つい に偉大な日がやって来た。」

メモワールの中でクーベルタンは、彼の事業がほとんど失敗しそうになった、陰謀に満ちた数カ 月から、やっと開放された気持ちを告白している。

彼は舵取りであり、成功した。彼は喜びを表現している。とくに、彼のオリンピズムにおける仲間 が一致して無条件に彼の功績を認め、尊敬の念を表明したときに。

ドイツのIOC委員、ヴィリバルト・ゲップハルトは定期的にクーベルタンと英語で手紙のやり取りを していたが、次のように書いた。「これは全て貴方の仕事です。」

ビケラスはハッキリとクーベルタンのカリスマを認めた。

{民衆のナショナリズム}と「世論の行き過ぎ」にもかかわらず、この事業の継続性と国際的性格 が宣言された。

我々は、オリンピックが最初どれほど無関心な世論に迎えられたかを知って驚かざるを得ない。

1894年、オリンピックはアテネで何の関心も呼び起こさなかった。ギリシャの田舎では尚更のことで、

高級レストランでも、地方の飯屋でも同じことであった。

しかし、王室の示唆を受けた新聞は、文化と歴史の衣を着せて、古代オリンピックの象徴的偉 大さの感覚に訴え、近代オリンピックに対する興味を盛り上げた。

1896年のオリンピックの祝祭的な成功を保証したのは、全てのアテネ市民のギリシャの歴史へ の帰属意識、例外的な国に属している名誉、オリンピック大会が古代ギリシャ文化の偉大さの象 徴であるという感覚であった。

我々が「祝祭的」というのは、現代における第一回オリンピック大会が結局のところ、地中海的な 祭りであったからである。この意味で、王室の人々は自らの政治的カードを首長に相応しいやり方 で扱ったと言わなければならない。

パリコングレスの直後、国王のクーベルタンヘの電報が基本的なトーンを定めた。

「文明揺らんの地であるギリシャはパリの決定によって名誉を受けた。かつてその地に燃えた炎 を再び灯すのはギリシャでなければならない。それは奪うことのできない権利である!  ギリシャ政 府はその伝統的なホスピタリティーによってオリンピック大会を主催するであろう。」と国王は約束し た。

この声明は疑問の余地を残さないものであった。しかしギリシャの政治は混乱し、経済は弱体で あった。ギリシャの独立は承認されていた。イギリスは1863年にイオニアの島々を返還し、クレタ島 もテッサリーももはや国境線の外にはなかった。

最近統一したばかりで、山地の住民も、漁師も、港の商人も、銀行家も、英雄的な革命家も、そ

れぞれの個人的利益に関心が戻っていた。ある程度の富の流入とコリント地峡運河の開削(1882-93)が中産階級の興隆を促していた。しかしギリシャは貧しく、1894年には、この国は財政的破滅 に向かって滑り落ち始めていた。

複雑な要素からなる社会と破滅的な経済情勢を前にして、王家の使命は容易なものではなか った。政府は、民衆のシラケを反映して、このプロジェクトに反対であった。

国王と皇太子は、オリンピック大会が王座を取り巻いている混乱した世論を動かせることを理解 していた。従って、二重の動機があった。首相は王の指令に従うよう呼びかけた。もしそうしなけれ ば、彼は更迭されただろう。

皇太子は、オリンピック大会組織委員会の長として全権を与えられた。

公式の儀式と祝いは、永遠のギリシャの価値を称揚し、国民のなかにこの事業の成功を保証し、

国と王座の絆を固めるものでなければならなかった。

我々も知っているように、トリクーピス首相は速やかにデリアニスに交代させられた。

デリアニスはオリンピック大会の支持者であった。オリンピックは公式のレベルでも民衆のレベル でも成功を証明しなければならなかった。

1896年4月6日から15日まで毎日、国王と王妃はスタジアムに臨席された。

愛国的感情とオリンピックの古代の栄光を称揚するためにあらゆる努力が尽くされた。

国王と王妃は近づきがたい象徴であり、一般人から遠く離れた存在であったが、ギリシャ人競技 者が出場すると、密かな喜びを示された。一般人とのつながりは、皇太子の役割であった。皇太子 は競技場に降り立つことを少しも躊躇されなかった。

一般の歓迎は国を挙げてのものであった。新聞が煽り立てた。皇太子の言動や、セルビア王、

ウィリアム二世のような貴賓の訪問は細大漏らさず伝えられた。

外国人の宿舎や、その居心地のよさと安全、ある種の強引な商人から彼らを守ることが主催者 にとっての絶えざる心配の種であった。アテネの新聞は、普遍的な態度を示すことに大いに努力 を払った。とくに国際世論が「比較的冷淡な態度」を示していたので尚更であった。そうしたわけで、

「メッサジェー」の読者は、3月2日と9日の増刊号N0.8とN0.9でドイツ、ハンガリー、アメリカ、フラン スが大会に参加すると知って、ホッとした。

  成功の兆しのひとつは、「メッサジェー」の広告が増えたことであった。

一般大衆の無知を考えれば、印刷物によって提供された情報の種類の多さと質は、圧倒的な 重要性を持っていた。そうしたわけで、新聞が読者に提供した材料は広範囲に及んだ。

新聞は、スタジアム、射撃場、水泳場の工事の状況について伝え、競技規則を説明したが、国 際自転車連盟(本部がイギリスにあった)の規則を除いて、説明に当たったのはフランスの競技連 盟であった。砲丸投げは、2メートルの正方形の中から投げられた。砲丸は鉄製、重さは7.25キロ

であった。円 盤 を投 げる場 所 は、2.5メートル 2,5メートルで6センチ高 くなっていた(古代の

BALBISと同じにするため)。槍投げはプログラムになかった。「今日、槍投げとレスリングは現代文

明の求めるものに合わない。」

サッカーの規則は、増刊No.9に詳しく述べられた。競技場の広さは、182.5メートル 91.4メート ルか、91.4メートル 45.7メートル。

ギリシャに競馬場と馬がいないため、馬術競技は除外された。

ピレウスから吹いてくる風が巻き起こすスタジアムとサッカー場の埃が厄介な問題であった。施 設は、一日1万ドラクマかけて日に3回水で洗い流さなければならなかった。

3月24日、「特筆すべき後援者」アベロフの像の除幕式がスタジアムの入口で行われた。

アベロフは病気のため参加できなかった。ケメニーが率いるハンガリーの代表団が「エイロスの 高貴な息子」を讃えた。

3月25日、ギリシャの休日、神を讃える歌の後、主賓席に王家の入場が行われた。

スタジアムヘの入場は「魔法のように魅力的」であった(公式記録による)。公式記録は、さまざ まなドレスと髪形をした多くの美しい女性の観客とその扇の揺れ動く様の素晴らしい効果に触れて いる。

コンスタンチン皇太子が儀式スピーチを行った。この「異教的」な開会式に熱狂的な歓声と「アン コール」の叫びが上がった。

そして国王が第一回近代オリンピックの開会を宣言した。

公式記録は、時間を追って非常に詳しく、大会の式典と競技の十日間を記述し「第一回オリン ピアードの競技大会参加者の名簿」を作成している。数字について知りたい読者には、この膨大 な、華やかな面もなくはない報告書を参照することを勧めたい。

アメリカが大学生のお陰で、陸上競技で勝ったことが注意を引くだろう。

ギリシャの民衆は、外国人を歓迎する古代ギリシャの伝統に従って、彼らに称賛を送った。しか し、クーベルタンが1896年4月12日のオリンピックレターに書いているように、  「野蛮人」の勝利は、

「大変な騒ぎ」と「残酷な怒号」を引き起こした。

ドイツ人は体操に勝利を収めた。ハンガリー人はほとんどの水泳競技に勝った。

ギリシャ人は射撃と砲丸投げで好成績をあげた。10日間に、311人(全て男性)が43の競技に出 場した。13カ国が参加、ほとんどがヨーロッパの国であった。

新聞の惜しみない賛辞によって前もって注意深い準備がされていたので、民衆は1986年4月10 日のマラソン侵勝者、スピリドン・ルイスに熱狂的な歓声を送った。

ルイスは贈り物の山に覆われたが、彼はそれを返した。

クーベルタンは褒めそやした。「1896年の輝かしい勝利者、羊飼いのスピリドン・ルイスは素晴ら しいスポーツマンシップの持ち主で、この種の贈り物を受け取らなかった」。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 61-68)