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第23回セッション、パリ‐1924年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 175-178)

1.11. 狂った歳月 ‐ 1919‐1924

1.11.3. 第23回セッション、パリ‐1924年

クーベルタンと IOC委員はバチカンに丁重に迎えられ、法王ピオ十一世は「オリンピズムに対 する心のこもった同感の新たな保証」を与えた。

チェコスロバキア政府とNOCの招きに応じ、IOCは1925年プラハで技術、教育コングレスを開く ことに同意した。パリはIOC第23回セッションを開催することになった。

こうして厳かに、象徴的に、IOCの卓越性と独立性が公に確認されたのである。

1924年6月25日、セッションはルーブル博物館のホールで開会した。クーベルタンが慎重に選

んだもう一つの文化の象徴であった。

37人の委員が会長の呼びかけに応えて集まった。セッションは 7月12日まで続いた。

セッションの議題は極めて中身が詰まっていた。いくつかの事項はてきぱきと片づけられた。そ れらのうちに、ECが慎重に準備したドイツの委員の選挙があった。

閣外相、レバルトとルペルティ博士が選ばれた。

劇的な頁がめくられた。明らかに時代に遅れていたド・クールシー・ラファンが二つの「現代のオ リンピア」センター、一つはヨーロッパに、一つはアメリカに、をつくる必要を説いたが、メンバーを 納得させることはできなかった。この提案は20周年式典の際に発見されたランスの古代競技者の 学院にならったものであった。

クーベルタンは「現在の状況のなかで、このアイデアに戻るのが有益」かどうか分からない、と答 えた。

女性の参加の問題は手早く却下された。プログラムを減らすという口実の下にクラリー伯爵の動 議が受け入れられ、「単に現在の状態を維持する。いかなる場合もIOCは女性のフェンシングを必 須種目とはしない。」ことになった。

芸術競技も問題であった。

これらは「その他」の中に入れられていた。その中には重要なものもあったのだが。

セッションは主として地域大会の発展と組織に関心を注いだ。アマチュアリズムは依然として問 題であり、オリンピックのプログラムにとって刺となる問題であった。

20年代、地域大会が全ての大陸に広がった。IOCはこの傾向を歓迎した。しかし同時に、道徳 的、行政的、政治的な理由で心配の種ともなった。

アフリカ大会はローマセッション以来、IOC委員の心に重くのしかかっていた。

事実、理に適った希望があったにもかかわらず、アルジェリア総督は1925年の第一回アルジェ リア大会の費用を負担することを拒否していた。

大会は1927年まで延期され、アレキサンドリアに移された。それでもIOCはプロジェクトを固執し た。一つの戦略が確認された。ヨーロッパ人植民者の助力が必要になるにしても、スポーツはアフ リカの周辺から内部へと浸透していくであろう。

他の場所では、極東で、中央アメリカで、南アメリカで、そしてアフリカ大会には含まれないエチ オピアで、状況をハッキリさすことが求められていた。

バイエ‐ラツールはセッションの間に四つの特別委員会を招集した。極東、南アメリカ、中央ア メリカ、インドの委員会である。エチオピアはルクセンブルグ人のペスカトールに、この広大な国で

「前向きに」オリンピック宣伝を組織するよう求められた。

これらの大陸は同じように後進性の問題に付きまとわれ、植民者勢力がある程度のスポーツ自 治を認めるようになるまで待たねばならないという、植民者の保護下にある国の状況が付け加わっ ていた。フィリピン、ジャヴァ、東南アジア海峡植民地などである。

しかし疑念を持つクラリーとは対照的に、クーベルタンは楽天的であった。クラリーは、地域大会 はオリンピック大会の予備競技会にしかならないだろう、即ち「地域大会はトレーニング大会以上 の何ものにも成らないだろう」と考えていた。しかしクーベルタンはスポーツが広がるのは時間の問 題であると信じていた。「全ての国民に!」

それにもかかわらず、永遠の問題、アマチュアリズムは提起されずには済まなかった。ほとんど 毎日表面に浮かび上がった。クーベルタンは討議すべきポイントのリストを読み上げた。「書面に よる個人の宣誓の導入。教師とプロの区別。教えた競技以外の競技におけるアマチュア資格。

等々」。委員は十分な時間をかけて考えた。 7月 8日、16項目の質問状が出来上がった。いくつ かの項目はプラハのコングレスで提示される。意見には相違があった。IOCは言葉を濁した。IOC は困った立場にあった。

大会のプログラム削減の辛い問題が残った。これは1914年以来問題になっていた。

問題は混乱しており、力関係を分析しないかぎり解決できないことは明らかであった。一方に、

自から公布した憲章によって与えられた特権を守ろうとする IOCがあった。

他方に、大会の主役、IF、NOC、そして1924年のパリセッションの議事録で初めて名前を挙げら れた選手自身がいた。

IOCは議論が許容される範囲の枠組みをつくりだそうとした。そこでカドガン動議が出され、全 会一致且つ断固として採択された。

「国際オリンピック委員会はオリンピック大会においてどの競技を不可欠とするかを決定する絶 対的権利を保持する。大会主催国はその責任を持つ大会において、IOCの承認する選択競技の うちから実施したいと思う競技を選ぶ。競技種目は常に当該国際競技連盟の技術的ルールの下 に実施されねばならない。」

この全会一致の決定も非常に長い議論が続くのを妨げなかった。いずれ見るように、対立する 利益の複雑な網の目が闇の中でうごめいていた。

同時に二重の役職を持つのを禁じようとするルールにもかかわらず、全てのIOC委員が国内の、

或いは国際レベルのスポーツ・ムーブメントに加わっており、競技連盟や選手や大会開催都市当 局の圧力に無頓着でいられないのは明らかなことであった。 

実際には、若干の譲歩、つまり射撃、「女性の」フェンシング、トラックでの自転車、水泳チーム 種目などの排除を除いてIOC委員の合意はできず、1925年に開かれるプラハコングレスに決定を 延ばすことに同意ができただけであった。 

クーベルタンは「自分の引退が近いことを仄めかしながら」委員会に対し、現在の憲章が許して いるのは「思慮分別の限界」の内に止まることであることを指摘し、「介入主義の危険」を警告した。

彼は慎重な言い方で、パリ大会が郊外のコロンブスタジアムで行われたために、そこそこの成功 に止まったことを残念に思うと述べた。「もしオリンピック大会が郊外でなく、本当にパリで行われた ら、全ての人が参加しただろう。」

しかし、彼は全委員が称賛した強い調子で述べた。「基本的なルールが行政当局によって ʻ粉々にされʼ公権力による絶え間ない邪魔は許すことのできない程度に達した。」

1924年のパリセッションは質問と討論が盛んで、新しい現代性が姿を表そうとしていた当時のオ リンピックムーブメントの状況をよく示すものであった。

そしてIOCがその力を確認し、自由な民主主義の進歩のあとを追って、スポーツの世界の未知 の領域の征服に乗り出す機会を与えるものであった。

1.11.4. 第八回オリンピアードの大会‐1924年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 175-178)