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セッションとコングレス

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 186-196)

1.12. プラハ1925年 ‐絶頂

1.12.1. セッションとコングレス

もしかつて、消すことのできない司祭の刻印を帯びたオリンピックミサがあったとすれば、それは 1925年5月16日火曜日から6月4日金曜日までプラハで行われたものであったことは疑いない。

自分が主催する最後の大オリンピック集会で、クーベルタンは最後の教えを世界に発信しようと した。

忠実なグート‐ヤルコフスキーはその人間性と政治的繋がりによってクーベルタンを助け、プラ ハを近代オリンピズムの歴史の中のメッカにしようとした。

1897年のルアーブルの第二回コングレス以来、IOC会長は短期的な技術問題が長期的な教育 の問題よりも優先されることを憂いていた。クーベルタンはオリンピックセッションがルールと規則に ついての果てし無い論争の中に埋もれてしまうことを不快に思い、心配していた。そしてまた彼は、

自分の日が残り少ないことを知っていた。

それ故クーベルタンはプラハ会議を念入りに準備した。マサリック大統領との手紙のやり取りは、

彼がどれほどこの会議を重要と考えていたかを明らかにする。

1923年4月23日、彼はチェコスロバキア共和国大統領に感謝し「1925年のプラハオリンピックコ ングレス」に後援を与えてくれるよう要請した。大統領には「我々の親愛なる、そして献身的な同僚、

グート‐ヤルコフスキー」が紹介したのである。

彼は付け加えた「1925年コングレスは恐らくオリンピックルネッサンスの中でもっとも重要なステ ージを記念するものになるでしょう。」

1923年10月5日、モントルーで休暇を取っていたマサリック大統領への手紙で、クーベルタンは 会見を求め、非常な自信を示す。「1925年コングレスは... オリンピックの歴史の中で最も重要な 転換点となるでしょう。」

第8回オリンピアードの大会の間に「全ての人の考えは度々プラハに向かうようになるでしょう。

1925年のコングレスの成功は既に確かになりつつあります」。IOCは「貴下の後援の下にプラハに 集うことを待ち望んでいます」。クーベルタンは歴史によって気持ちを高められていた。彼は「疑い もなく最も美しい都市の一つ、そしてそこに積み重ねられた劇的な深く人間的な変転の歴史によ って最も高貴な都市の一つ」プラハを愛していた。1923年はじめに、マサリック大統領に対し彼と IOCの敬意を表す手紙を送ったときに、「常に愛し尊敬する、比類なき歴史が私の心を賛嘆の念 で満たしてきた国の素晴らしい首都」に自分がいられたら嬉しいだろうと彼は書かなかっただろう か。そうすれば舞台装置は人とイベントにとって相応しいものになる。

「プラハの別れ」は「司令官」の業績に相応しいものに成るだろう。

プログラムのアレンジに伴う華麗さによって、祝典の荘厳な性格によって、オリンピック関連団体 の決定に浸透する高い精神性によって、そうなるだろう。

クーベルタンは、ついに自由になって、見かけと月並みの世界に決定的に背を向ける。

そしてもう一度、彼の人生の唯一の目的であり、神と歴史が彼に書くことを命じた未完のシーフ ォニーを取り上げる。我々はこうした光に照らして、プラハにおけるアレンジの劇的な性格につい て想像し理解しなければならない。

執行委員会

バイエ‐ラツールが委員長をつとめるECも成年に達していた。ECは「IOCがプラハで技術的コ ングレスの議題について行う決定に」助言する役割を完全に果たすであろう。

それはアマチュアリズム、宣誓、そしてとりわけプログラムをカバーする筈である。

これまでの企てがすべて失敗に終わったことを踏まえて、IOC委員は憲章の第Ⅳ章の規定と、

承認されているいろいろな競技と芸術競技のルールとの間に確立されている区別を思い出した。

ECは、各競技はIFの技術的責任の下に行われる事実を強調し、オリンピック憲章の関連条項を それに応じて修正し、この責任と「国が送る参加者」の基準を定める責任をIFに負わせることを求 めた。

もしIOCが公式プログラムをさらに削減することを望むなら、ECは大会の競技を以下のカテゴリ ーにすることを提案する。陸上競技、体操競技。防衛競技ではボクシング、フェンシング、レスリン グ。水上競技では漕艇、水泳。馬術競技では二種目、一つはドレサージュ、一つは野外騎乗。複 合競技では近代五種。サッカー。芸術競技では建築、文学、音楽、絵画、彫刻。   

ECは、オリンピック大会ではポイントランキングはないが、「ランキング可能な競技では上位六選 手の名をアルファベット順で名誉の表に書く」ことが適当であるとIOCが考える旨明記すべきである と助言した。

IOCの権威が論争によって傷つけられないようにとの配慮からECは、IFが「重大な過失を犯した 選手」に対する、名誉の陪審による制裁に従うよう求めた。

論争が起きて、ECは更にIOCが憲章の第Ⅸ条に以下のように明記するよう勧告した。

「各国は国内オリンピック委員会とその統括競技団体の間に合意のない競技では代表をエント リーすることは出来ない。」

この提案が正しく適用されるように、ECは競技連盟と「団体」に調停を申し出た。ECの連絡の良 さと強力なポジションの印である。

ECの広い活動範囲に含まれるいろいろな問題が検討された。大会期間の長さ、二週間と三回 の日曜日。「栄光に包まれた」賞の授与、輸送、宿舎と選手役員の旅行、これについては新しい 第13条が起草された。

しかし何よりも冬季大会についてである。「IOC は明確な周期を持つこのプロジェクトに賛成で

ある。第一優先権は、オリンピック大会開催権をもちオリンピック大会のプログラムに冬季大会を付 け加えることを望む国に与えられる。」 

ECは、オリンピック議会における政府になった。

セッション

IOCの付けた順番によれば第24回のセッションは、1925年5月26日から28日にかけて行われた。

30人の委員が出席した。

蘭領インドが自分たちのNOCをつくりたいという希望は、オランダ政府の同意が得られなかった ので否決された。教育体操連盟は承認されなかった。チェスは大会のプログラムには載らなかっ た。モーターヨット、ローラーホッケーも同様であった。

セッションはECの提案を受け入れた。選手はNOCと国内競技連盟が同意した場合のみ「大会」

と「競技」に参加ができる。サッカー連盟を含むIFは申請者の立場であって、もはや最終決定権者 ではない。IFは大会期間中のみ名誉陪審の採決に拘束される。

セッションはコングレスに対し、選手役員の競技の際の「フェアプレー」の概念を発展さすことに ついての緊急性を考えるよう要求する決議を行った。

オランダの委員、シャルローが1928年のアムステルダム第九回オリンピアード大会の準備状況 について報告した。クーベルタンはボクシング試合を見にやって来る非スポーツ的な観衆につい て警告した。アムステルダムでは、用心のために、そのような試合の観客は「個人的招待」となるで あろう。

第一回アフリカ大会は依然として、1927年4月16日、アレキサンドリアで開催されることになって いた。ローザンヌ、ローマ、ブエノスアイレスがブダペストと同じように1936年の大会に立候補して いた。決定の合意はできなかった。四か国語の新しい「オフィシャルブレッティン」についても同様 であった。

アマチュアリズムについての提案はIOCによって若干変更された。アマチュアとは「生活の手段 をスポーツを行うことから直接得ることなく、スポーツのためにスポーツを行う者である。プロは生活 の手段の一部又は全部をスポーツを行うことから得る者である。」

給与の損失に対する補償は「間接的物質利益」と考えられ、オリンピック大会に選ばれた場合 を除いて一つの競技につき年に二週間以内の旅であれば、そのような補償を受けてもアマチュア は資格を失わないとされた。

「指導者」と「プロ」の間にもいささか分かりにくい区別が付けられた。

クールシー・ラファンとド・ポリニャックも正論の守り手として参加した鋭いやり取りの後、委員会 は全ての選手に以下の宣誓にサインを求めることを決定した。

「署名者である私は、私がアマチュアリズムのオリンピックルールに従ったアマチュアであること を名誉にかけて宣誓します。」我々は、時代後れのルールと変りつつある社会の現実の間に捕ら

えられた委員の居心地の悪さを感じることができる。

セッションの最後の議題が勿論、最も重要であった。それが委員の関心の的であったこと、宴会 のテーブルでの第一の話題であったことは間違いない。誰が IOCの会長として、ピエール・ド・ク ーベルタン男爵の後継者となるのか?

グート‐ヤルコフスキーとシャルローが選挙管理人になった。

第一回投票では、郵便による投票も勘定に入れられた。

結果は以下の通りであった。

    バイエ‐ラツール 17票     クーベルタン 11票     ブロネー 6票     クラリー 4票     ポリニャック 1票     白票 1票

第二回投票では出席している委員だけが投票できた。ローゼンとシェリルがクーベルタンにもう 一度立候補するよう嘆願したが無駄であった。ブロネーが6票、クーベルタンとクラリーがそれぞれ 1票であったが、17票を得たバイエ‐ラツールに遠く及ばなかった。

バイエ‐ラツールはこうして、1925年から1933年まで8年間のIOC会長に選ばれた。

シェリルはクーベルタンを終身名誉会長に押したが、クーベルタンは辞退した。

しかしセッションが彼を「オリンピック大会の終身名誉会長」に指名した。このタイトルは他の誰に も与えられたことのないものである。

テクニカルコングレス 開会は5月29日であった。

テクニカルコングレスは、原則に定めてあるように、ECの勧告とセッションの決議に従って行わ れた。ランキング、審判委員会の権限、審判の旅費、大会の期間、夏の大会と分けた冬の大会の サイクルについてのプラン、プログラムの削減などがこうして決まった。

しかし永遠の問題アマチュアリズムについては、この分野の現実にはより詳しい筈と思われたIF とNOCの代表がECとIOCの提案を更に厳しいものにした。「以下の者はオリンピック大会に参加す ることはできない。自分の競技或いは他の競技でプロである者、或いは承知の上でプロになった 者、失った給与に対して弁償または補償を受けた者。」

この決定は独断的なもので、1925年から1940年にかけて果てし無い議論と多くの問題を引き起 こすことになった。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 186-196)